ぱしん、と短くも乾いた音が空間に広がる。同時にじんじんと痛む左頬、熱い、熱い、瞬間的にそこは熱を帯びたらしい。
「…っ、お前なんか、」
本来ならば見目麗しい少女であろう彼女の顔は、わたしを見つめて憎々しげに歪んでいた。
怖い、とでも言えばいいのだろうか。よくわからない、自分の感情のはずなのに。
「お前なんかがっ、どうして紅覇様と…」
彼女は泣いていた、泣きたいのか怒りたいのか、本当はどっちなんだろう。でも沢山の思いがごちゃ混ぜになって、どうしようもない気持ちは、わたしにもわかる気がした。
「許さない、絶対に…殺してやる…!」
そう言った彼女の懐から出てきた短刀、すらりと細く、銀色に鈍く輝いている。
「―――――殺してやるっ!」
眼前に先端が迫った瞬間、少しだけ身を捩って、死なないよう刃を躱す。
先刻打たれた頬が更に熱くなり、生ぬるい液体がだらりと頬から首筋に流れた。
「…痛い、」
やっとのことでわたしが発した言葉は、この場には相応しくないなんとも呆けたものだった。
自分で言うのもなんだけど、とても命の危機に晒されているとは思えない。わたしはアホなのだろうか。
「はーっ、はーっ。」
目の前の彼女の息は荒く、瞳はぎらぎらと獣のように輝いている。
―――――この人は、本気で殺したいんだ、わたしを。
脳がちゃんとそうやって認識してくれたのは有難い、だけど心がそれについていかなくて、わたしは呆然とするしかなかった。
「うあああぁぁああぁっ!」
今度は胸のあたりに切っ先が向かっている、動きははっきり見えるのに、何故か、動けなくて、
「―――――あ、」
死ぬ、そう思った瞬間だった。
「こう、」
―――――ザシュッ
わたしが彼を呼ぶより早く、彼は彼女を真っ二つに切り殺してしまった。
大きな包丁のような刀と、それを振るうには到底足りないのではないかと思うほど小柄な体。
「なーにやってんのぉ?」
そして何事もなかったかのような呑気な声は、まさしく紅覇のそれ。
「紅覇、」
びっくりして彼を見ると、次の瞬間、びちゃびちゃと真っ赤なものが降り注いで視界が赤く濡れる。
生臭い、鉄のにおい、たぶんさっきの少女の血だろう。まだ生温かく、体に纏わりついてくる。
「血塗れだねぇ、セレネ。」
いつもと同じ、楽しそうに笑う紅覇。目の前で死んだ、いや、彼自身が殺した少女のことなど、まったく興味がないのだろう。
「…どうして、」
紅覇の真意がよくわからなかった。何を思ってこうしたのか、ただ単に人を切りたかっただけか、それともわたしを助けてくれたのか。
「…わたし、どうして…?」
「なにが?」
足の力が抜けて、ぺたりとその場に座り込む。紅覇はそれに合わせるようにして、わたしの前にしゃがみこんだ。
「…どうして、わたしなの?」
「んー?」
「わたし…なんで紅覇の許嫁になったの…?」
物心つくずっと前から決まっていた、今目の前にいる彼との婚姻。
それがどうしてわたしだったのか、どうして紅覇は拒否しなかったのか、どうして今もわたしは彼のそばにいるのか。
わからない、わからないことだらけだ。考えれば考えるほど、疑問はぐるぐる回り続ける。
今しがた死んでいった彼女の気持ちもわかる。どこの馬の骨ともわからぬ拾われ子と、正当な第三皇子でありとても尊い彼が、何故婚約者同士になったのか。
「僕だって知らないよ、そんなの。」
「…紅覇は…いやじゃないの?わたしと結婚するの…。」
「…いやとかいやじゃないとか、あんま考えたことないや、そーゆうの。」
ただ、と一旦話を区切って、そっと紅覇がわたしの頬に触れる。
ぬるりとぬめったそこについていたのは、彼女の血じゃなくて、さっき切られた時に流れた、わたしの。
「お前のこと泣かせたり傷つけるやつは、許せない。」
「…紅覇…。」
「お前は僕のために笑って、怒って、泣いて、戸惑っていればいいんだよ。」
きゅう、と心臓のあたりが甘く痺れる。
「一生僕のことだけ考えて、僕のそばにいて、僕のことでこの頭をいーっぱいにしてろ。」
うまく表現ができない、なんだろうこの気持ち、どうしたらいいんだろう。
「返事は?セレネ。」
意地悪な紅覇、わがままで傲慢で加虐的な人。
「…はい…。」
でも誰に罵られても、否定されても、ずっとずっとあなたについていきたい。バカでもいい、だって好きなんだもの、仕方ないでしょう?
排他的なラブソング
Title by:空想アリア