「私も信じられなくてね……」

父さんの秘書が、困ったように言う。
見せられたのは、味方になってくれていた社員の横領の証拠だった。彼はいずれ俺の補佐に付く予定だった人だ。
腕が肩に回される。
仮面を外した狸オヤジは、告訴を見合せてもいいと厭らしく笑った。


高級ホテルのスイートルーム。
兄の名義で呼び出されたはずなのに、俺を出迎えたのはこの男だった。
俺が座ったソファーの右側には、見晴らしのいい大きな窓がある。反対側には、大きなベッドが悠然と構えていた。

隣に移動してきた狸オヤジの、生暖かい息がうなじにかかる。
兄が、俺を差し出したのだろうか。
もう抱くつもりはないと、言外に伝えるために。
突き付けられた事実は、俺を苦しめた。

「あの、のどが乾いたんですが」
「緊張するのも無理もない。私と同じものを用意しよう」

立ち上がった狸オヤジを見送って、ひっそりと溜息をついた。

それから狸オヤジが用意したのは、香りだけで酔ってしまいそうなほど、洋酒の濃い水割り。
わざわざグラスを合わせてくる。俺を手中に収めたつもりでいる相手は、余裕だった。

「横領なんて……。彼はそんなことをするはずがありません」
「信じたい気持ちはわかるが、証拠は揃っているんだよ」
「こんなもの、いくらでも捏造できます。手を加えられる立場の人間なら」
「それが、お兄さんだったとしたら? わかるだろう。ここに君を呼び出したのは誰だったんだい?」

ソファーに押さえ付けられた。
バカな俺なら、簡単に丸め込めると思っていたらしい。
だから、始めから詰めが甘かったんだ。

「それでも、俺はあなたの言いなりになるつもりはない」
「君の将来の為でもあるんだよ」

兄以外の人間とだなんて、考えられない。

不意に、俺を拘束していた腕が緩んだ。
飲み物に入れておいた薬が、タイミング良く効いてきたようだ。

「俺は大切な人達を信じたい。今の会話、携帯に録音しときましたんで」

驚いた表情を浮かべた後、狸オヤジは意識を失った。


見ていたからわかる。
いつでもからっぽだったって。
何も欲しがらないのは、無くす事を怖れているんだとしたら。
自分から遠ざけるのは、無くなった時に悲しくならないためだとしたら。
本当にそうだったなら、臆病で怖がりだ。
そうなったのは、信じる事ができないからなのかもしれない。

俺は自分で選んでここから出ていく。
俺には一人しかいないと、兄へ証明するために。

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