14身体中が熱を持っていた。
朦朧とした意識の中で目を開けると、すぐ傍で黒い瞳がナギを見下ろしていた。
その黒い瞳に、ナギは日本に帰って来たのだろうかと考える。
だが、すぐに甘い香りが鼻腔を掠めた。この嗅ぎ慣れた匂いはリンジュのものだ。
ここが日本ではなかったと気付き、ナギの目から涙が流れる。真新しい胸の傷が、未だナギを苦しめていた。
ナギを見下ろしていた黒い瞳までもが陰り、なぜか、また違った胸の痛みを感じる。
だが、それを気にするよりも、体の怠さに目蓋が重くなっていく。
目を閉じたナギの唇に濡れた感触がして、それから甘いリンジュの味が広がった。
ゆっくりと咥内に流れてくる水分を嚥下すると、耳元で誰かの声が聞こえてくる。
「ナギ……。ナギにはここにいて欲しい」
それは嘘だ。
ソウタにも、エイメイにもいらないと言われた自分にそんな事を思うはずがない。
それとも、都合のいい幻聴なのだろうか。
そう考えながら、ナギの意識は再び闇に沈んでいった。
◇◇◇
ナギが目覚めると、寝台にうつ伏せに寝かされていた。肌触りの良い敷物が、柔らかくナギの体を受けとめている。
背中が冷たく、リンジュの強い匂いがしていたため、鞭によって出来た傷に薬が塗られているのだと分かった。
イリヤは、あそこからナギを連れ去ってくれただけではなく、手当てまでしてくれたのだろうか。
なぜ、アレクセイの命を狙って城を襲撃していたイリヤが、ナギに関わるのだろう。
だが、そんな疑問よりもナギには重要な事があった。
起き上がろうとして体を動かすが、力が入らない。
熱があるのか体も怠いが、それでも無理矢理体を起こし、ナギは着ていた物を脱いだ。
背中に貼られていた油紙のような物を剥がし、近くの机にあった水で手拭いを濡らす。それから、手を伸ばして背中を拭いた。
そうやって背中を拭っていると、部屋の扉が静かに開いた。
「何をしてるんだ」
駆け寄って来た誰かが手拭いをそっと掴み、ナギの手を止める。顔を上げると、灰色の瞳がナギを見下ろしていた。
「そんな事をしたら、傷が治らない」
ナギが首を振ると、イリヤは身を屈めて視線を合わせてくる。ナギは俯いて、その瞳から逃げた。
「もう、これには触りたくないから」
「そんな事を言ったら、リンジュが枯れてしまう。ナギが見捨てたら……」
悲しげな声に、ナギが顔を上げると、イリヤは酷く辛そうな表情をしていた。
黒豹の様な強い青年が見せる悲哀に、ナギは驚く。そんなイリヤの表情を見たナギまで苦しくなった。
「……どうして?」
「傷を治して欲しい。リンジュじゃないと、痕が残ってしまう」
「でも……」
リンジュは思い出してしまう。
この世界から、早く消えて無くなってしまいたかったのに。
「……もう、リンジュも嫌だ。ここにもいたくない」
「すまない。俺には、ナギをあそこから連れ出す事しか出来ない。ここは安全だから」
イリヤの言葉を聞いて、どうする事も出来ない虚無感がナギを襲った。
このまま怪我も治さず、熱を出したままにしていたら、そのうち衰弱して、この世界からいなくなる事が出来るだろうか。
投げ遣りになっていたナギの手をイリヤが握った。先程よりも、ずっと強い力だった。
「ナギが必要なんだ」
「……」
「あの時……、初めて会った時、ナギは俺にリンジュをくれた。ナギは優しくて綺麗だった。だから、アレクセイに付けられた傷をナギが残したままでいるのは嫌だ。早く元気になって、ここで笑っていて欲しい」
真摯な瞳でナギを見つめてくる。
イリヤが、こんな自分に向かって必死に言葉を紡ぐのが不思議だった。
だが、あんなに悲しく、辛い表情にはさせたくないと思うから、これ以上何も出来なくなってしまう。
ナギは、イリヤの視線を避けるように、寝台に突っ伏した。
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