バレンタインデーは朝から撮影で学校には行けないけど、放課後から鎌倉デートしよう、そう黄瀬は言っていた。
しかし当日、先輩モデルがインフルエンザでドタキャン、仕方なく同じ事務所の黄瀬が代わりを努める羽目になり、本当にごめん、名前っち!と謝罪メールが届いた時、名前は凍り付いていた。
仕事だから仕方ない、いやいや、仕事と私のどっちが大切なの?なんてベタな文句は言えるはずもない。
クラスメイトの彼氏持ちは放課後ラブラブデートへ、彼氏居ない組はバレンタイン合コンへ。
友達に元気出してと励まされても、大丈夫な振りをして一人駅前のマジバへ向かった。
ホットココアを買って窓際の席に座りファッション誌を広げて、『冬のお勧め鎌倉デート!』なんて特集をぼんやり眺めていれば、一緒に行きたかった落ち着いた雰囲気の喫茶店。
分厚いホットケーキが有名で、黄瀬が「オレ甘いの苦手だから、名前っちが食べて」と笑っていたのは先週の話。
酷く虚しくなってやりたくもない課題を取り出した時に、チラリと見えたラッピングされたチョコレートにさえ腹が立っていた。
* * * * *
一心不乱に課題に取り組んでいるとトントン、と窓を軽く叩く音に気付き顔を向ける。
(名前っち、見つけた)
薄い唇が紡ぐ言葉はちゃんと伝わってきて、でも驚いてしまってただ黄瀬を見つめた。
「メール、見なかったんスか?」
一回学校行ってからずっと探して来たんスよ、と唇を尖らせてはいるが別に怒っていないようだ。
「名前っち、今日は本当にごめん。ね、今から鎌倉行こ?」
「もう、あのお店閉まっちゃうよ」
どうしても行きたかったとか、今日じゃなきゃ駄目とかでは無いのに、意地を張ってしまう。
意地っ張りの名前が拗ねて無言になっても黄瀬は何時だって、色々と気を使ってくるのが子供扱いされているみたいで癪に触っていた。
仕事が終わって会いに来てくれたのが嬉しいのに、バレンタインデーに一緒に居られるだけで幸せなのに。
こんな素直じゃない名前に黄瀬は嫌気がさすかも知れないと本当は不安で堪らない。
「じゃあさ…。取り敢えず江ノ電、乗ろっか」
「…え、」
直ぐにホームには落ち着いたグリーンの車両が停車して、中途半端な時間帯のせいか車内は空いている。
名前は神奈川と言えば江ノ島か江ノ電で、定期を使えるし学校帰りに意味もなく乗るのが好きで、黄瀬もそれによく付き合わされていた。
「名前っちは、江ノ電乗るの好きだよね」
ああまた、名前の機嫌を直そうと気を使ったのだと知り、落ち込んでしまう。
「あのね…。昔、パパとよく江ノ島に遊びに来て、江ノ電に乗ったの。それが凄く楽しくて大好きだった」
その後両親が離婚して、父親と最後に乗ったのもこの江ノ電だった、そう続けるとギュッと黄瀬は繋いだ手に力をこめた。
「…そうだったんスか」
神奈川の高校を選び従姉妹と一緒に住んでいる理由が義父と上手くいかないから、と言うのは黄瀬には言っていない。
「新しいお父さん、優しいんだけど…。私、全然素直になれなくて」
「本当は仲良くしたいなら、ちゃんと言わないと伝わんないと思う」
隣に座る黄瀬の真剣な表情と声に名前は胸がいっぱいで、泣きそうでじっとその綺麗な顔を見上げた。
何か言いたいのに、喉が塞がったみたいで唇さえも開けないでいると、気まずい沈黙が二人の間に広がってゆく。
ガタンガタンと緩やかに揺れる車体の動きの合間ふいに、ちゅ、と温かな感触が優しく唇に触れて、名前は呆気に取られて涙も引っ込んでいた。
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