engagement

 今日はきっと、人生で一番幸せな日だ。
 毎年この日を迎えるたびに、陸は心の底からそう思った。
 どのくらい幸せかと聞かれたら、明日死んじゃってもいいくらい。
 もちろん例え話だし、死にたくなんてないけれど、とにかくそのくらい幸せな気持ちになるのだ。
 そして今年も、その日がやってきた。
 7月9日。
 今日は陸の、23回目の誕生日だ。



「ただいまー!」
 玄関のドアを開けて元気に告げると、後ろの一織が呆れ声で「早く入ってください」とせかしてくる。陸は彼を振り返り、「おかえり、一織!」と笑った。
「ご機嫌ですね……。まだ酔っているんですか?」
 視線の先には思った通り、呆れているようで優しい顔がある。陸は靴を脱ぎながら、「酔ってないよ」と答えた。
「オレ今日、最初の一杯しか飲んでないし」
「一杯と言っても、度数高めのシャンパンだったでしょう。まったくあなたは、弱いくせに飲みたがるんですから」
「おいしいんだもん! いつもは我慢してるんだから、今日くらいいいだろ」
「まあ……今日は大目に見ますけど」
 渋々といった風に認める一織に、陸はふっと笑った。
 時刻はもうすぐ午後11時。二人はたった今、陸と天の誕生日会から二人で暮らすマンションに帰ってきたところだった。
 今夜の誕生日会は、一織が幹事になり、小さなカジュアルレストランを貸し切って開いてくれた。
 誕生日にはメンバー全員で集まるのが恒例だったが、最近は仕事の都合でままならない。
 今夜集まったメンバーは、一織と三月、環の三人だったが、天との合同誕生日会ということもあり、TRIGGERの八乙女楽とRe:valeの百も参加してくれて、計七人の賑やかな食事会になった。昔のように全員が集まれないのは残念だけれど、十分嬉しかったし楽しかった。
 明日も仕事だ。陸は朝からドラマの撮影だし、一織と環は長年続いている冠番組のロケがある。三月は料理番組の収録、百はレコーディング、一足先に夏のツアーが始まるTRIGGERは、明日から北海道へ移動らしい。そんな状況にも拘らず、天と一緒に誕生日を祝ってもらえたことが陸は嬉しかった。
(今年も直接、天にぃにおめでとうって言えた)
 同じように「ありがとう」と「おめでとう」をくれた天の笑顔を思い出しへへっと笑うと、一織が「なんですか?」と聞いてくる。陸は慌てて顔を引き締めた。
「……なんでもない!」
 正直に答えたらまたブラコンと呆れられてしまいそうだ。答えを濁した陸に、一織は小さくため息を吐いた。
「どうせあなたのことですから、九条さんのことでも考えていたんでしょう」
「えっ……なんでわかったの?」
「何年一緒にいると思ってるんです」
 一織の答えに、陸はそういえば、と指折り数えてみた。
 いち、に、さん、し……。
「一織と会って、もう五年だ!」
「まあ、そうですね」
 はしゃいだ声をあげる陸とは対照的に、一織はいつもと変わらぬ様子で奥のキッチンに進む。パーティ会場から持ち帰った箱を冷蔵庫にしまうためだ。
 箱の中身は三月が作ってくれた誕生日ケーキの残りである。三月は忙しい間をぬって、陸と天のためにそれぞれケーキを用意してくれたのだ。
 七人で食べきるには少し多く、残ってしまったそれを、一織は「一欠片たりとも残していくなんてとんでもない」と全て持ち帰った。自分もブラコンだと思うが、一織も相当だ。まあ、そういうところも、かわいかったりするのだけれど。
(そっか……もう五年も経つんだ)
 長いような、短いような。いや、やっぱり短いかもしれない。
 一織とはもう、十年以上一緒にいるような気さえする。
(五年前のオレたちが、今のオレたちのこと知ったらびっくりするだろうな)
 初めて会ったときは、年下のくせに生意気できついことばかり言う嫌な奴と思っていた。
 その相手が、今ではかけがえのない存在になり、恋人になって一緒に暮らしている。改めて考えるとすごいことだ。
 陸はそんなことを考えながら、左手に視線を落とした。
 手首で光っているのは、真新しい腕時計。今夜一織がくれた誕生日プレゼントだった。
 黒いレザーのベルトにシルバーのベゼル、文字盤も黒で全体的に落ち着いた印象の時計である。つけているだけで、かっこいい大人の男になれるような気がしてくる。
「何をにやにやしているんですか……」
 いつの間にかこちらに戻ってきた一織が、眉を寄せて言った。一見不機嫌そうではあるが、陸は知っている。これは照れている顔だ。
「一織にもらった時計、かっこいいなと思って」
 素直に言うと、一織はふいと横を向いた。その頬がちょっとだけ赤らんでいるのを見たら、さらににやにやしてしまう。
「すっごい嬉しい!」
「それはもう聞きました」
「何回でも言いたいの! 一織がオレのために選んでくれたんだもん」
 そう言うと、一織はこちらに顔を戻す。何か言いたげな顔だ。首を傾げると、彼は少しの間を置いて口を開いた。
「まあ……気に入っていただけたなら良かったです」
「めちゃくちゃ気に入ったよ! ありがとな、毎日使う!」
「はい」
 優しく微笑む一織につられて笑みが深まる。
 一織の笑った顔が好きだ。もっといっぱい笑ってほしい。その笑顔を見るだけで、自分もたまらなく嬉しくなるから。
「七瀬さ……」
 重なる視線の先で、一織が何か言いかけた。そのときだった。
「あっ!」
 陸は突然はっとした。あることを思い出したのだ。
「一織、ちょっとここで待ってて! すぐ戻るから!」
「は……」
 きょとんとする一織をリビングに残し、陸は大急ぎで自分の部屋に向かった。デスクの引き出しを開け、一番奥にしまっておいた小箱を引っ張り出す。蓋を開け、中身を手に取り、大きく深呼吸をした。
 危ない。うっかり忘れるところだった。これからが、誕生日の本番なのに。
(大丈夫、落ち着いて!)
 自分自身にそう言い聞かせ、陸は箱から出したそれをぎゅっと握りしめた。
 リビングに戻ると、大人しく待っていた一織が怪訝な顔でこちらを見る。陸は彼の前に進み、「あのさ」と意を決して口を開いた。
「オレ、一織に渡したいものがあるんだ」
「え?」
「……これ」
 言いながら右手を開いてみせると、そこに視線を移した一織ははっとしたように目を見開く。
 手のひらにあるのは、シンプルなデザインのシルバーリング。
 高級なものではないけれど、ちゃんとした指輪を買ったのは生まれて初めてで、ジュエリーショップに入ったときはもちろん、買うときもめちゃくちゃ緊張した。でも今は、もっと緊張している。
 この小さな指輪には、一織への『大好き』の気持ちがめいっぱいこもっているから。
「オレ、いつも一織に頼ってばっかだし、甘えてばかりいるけど、でも絶対、一織のこと幸せにする。できるって思うんだ。だから……」
 そこまで言って、陸は一織の顔を見た。
 陸の誕生日に自分が指輪を渡されるなんて、夢にも思わなかったのだろう。驚いた顔で固まっている彼を見たら、少しだけ緊張が解れた。
「これからもずっと、オレと一緒にいてください」
 瞳を見つめてそう告げると、二人の間にはしん、と静寂が落ちる。
 それはほんの二、三秒だったのだろう。けれど陸には、とても長く感じられた。
「今日は、あなたの誕生日でしょう。どうして私に……」
 やがて一織の口から出たのは、そんな言葉だった。照れているのか、困っているのか判別しがたい表情を浮かべている彼に、陸はそっと微笑んだ。
「だからだよ」
「……はい?」
「今日はオレの誕生日だから……わがまま言っても許してもらえると思ったんだ」
 正直に告げると、一織は一瞬面食らった顔をして、それからゆるゆると息を吐く。そして小さく眉を寄せ、「まさか先を越されるとは思いませんでした」と言った。
「え?」
 どういう意味だろうと見つめると、一織は傍らに置かれていたバッグを開け何かを取り出す。出てきたのは、小さな黒のギフトボックスだった。
「あ……!」
 それが何なのか、陸にはすぐにぴんときた。自分もさっき、似たような箱を手にしたばかりだったからだ。
「今日一日ずっと、どうやって渡そうか考えていたんです」
 一織が言う。その思いがけない告白に、陸はただただ驚いて、ぽかんと口を開いた。
「なんで……? オレもう、一織からプレゼントもらったよ」
「それはおまけです」
 おまけってなんだよ!
 心の中で突っ込みながら、陸は一織が箱を開け、中の指輪を取り出すのを呆然と見つめていた。
 これは現実だろうか。自分と同じように、一織も指輪を用意してくれていたなんて偶然、にわかには信じがたい。
 けれど彼が取り出したそれは間違いなく指輪の形をしている。デザインは違うけれど、やはりシンプルなシルバーリングだった。見つめる先で、一織がこちらに向き直る。
「七瀬さん」
 まっすぐ瞳を見つめて、一織が名前を呼ぶ。反射的に指輪を持ったままの右手をぎゅっと握り、「は、はい!」と返事をすると、彼はふっと笑った。
「さっきより緊張していませんか」
「だって……!」
 このシチュエーションは想定外なのだ。正直頭は真っ白で、うまく働いてくれない。
 そんな陸を前に、一織はゆっくりと息を吐いた。
「確かにあなたはあなたが言う通り、頼りないですし、不注意ですし、年上のくせに甘えたがりな人です。初めて会ったときからほとんど進歩していませんし、きっとこの先も変わらないでしょうね」
「な、なんだよ。オレだって……!」
 いきなり駄目出しをされて思わず反論しかける。けれど言葉はそこで途切れた。
 指輪を持った一織が、陸の左手を取ったからだ。
「私はあなたが、ステージの上で誰よりも強く輝くことを知っています。初めてあなたの歌を聴いたときからずっと、私はその煌きに魅せられてきました。世界で一番、七瀬陸の歌が好きなのは私だと自信をもって言えます。ですが、それだけではなくて」
「……一織?」
 いつもはひんやり冷たい一織の手が、熱く感じる。
 小さく震えているのは自分なのか、それとも彼なのかわからない。けれどきっと、どうしようもなく緊張しているのは二人とも同じだ。
「頼りなくて不注意で、信じられないくらいドジで甘えたな普段のあなたも、ステージの上のあなたと同じくらい、愛おしく思っています」
 それは思わず息が止まりそうなくらい、優しい声だった。
 声を失い見つめる先で、花紺青色の瞳がふっと揺れる。
「あなたはいつの間にか、私の中に住み着いていました。離れているときも、ずっとあなたがここにいるんです」
 言いながら一織は、胸元に手を宛てた。
「出会って五年になりますが、私はあなたと、もっとずっと前から一緒にいたような気さえします」
「っ、オレも! オレも、そう思ってた……!」
 思わず口を挟むと、一織は小さく眉を寄せた。
「最後まで聞いて下さい」
「ごめん……」
 一織は小さく咳払いした。それは照れたのを誤魔化すときの彼の癖だ。
 愛しさがこみ上げてきゅっと唇を結ぶと、一織はこちらをまっすぐ見つめ、凛とした声で続きを言った。
「あなたと共に生きていきたいと、心から思っています。これからもずっと、あなたの隣で、あなたの輝きを見させて。あなたの夢を、一緒に追いかけさせてください」
「……っ」
 どうしよう……。
 好きだよ。大好きだ。オレの一織。オレだけの。
 胸の奥から熱い気持ちが激流のように押し寄せてくる。その全部を一織に伝えたくて、何か言わなきゃと思うのに声が出なくて、陸は頭をぶんぶん振って頷いた。
 ほっとしたように一織が微笑む。そして彼は、陸の左手の薬指に、シルバーのリングをそっと通した。
「あ……」
 心の準備をしたのに、駄目だった。
 一織が、指輪をくれた。左手の薬指に。
 それがどんな意味をもつのか、考えるまでもない。
 ぴたりとはまったリングのきらめきに、ぶわっと涙が溢れて視界が潤む。ぽろぽろと零れおちたそれを拭ったのは、自分より一織の手の方が早かった。
「あなたはいくつになっても、泣き虫なままですね」
「だって……っ」
 誰のせいだと訴えるように見つめると、一織は困った顔で微笑む。その表情にいっそうたまらなくなって、陸は一織に抱きついた。
「っ、七瀬さん……!」
 勢いが良すぎて体当たりのようになってしまったが、一織はよろめきながらもしっかり受け止めてくれる。それが嬉しくて、また涙がこみあげてくる。
 昔は、泣き虫なのは一織だと思っていた。
 強そうに見えて実は打たれ弱いところもある一織が泣くのを、自分は何度か目にしていたから。
 だから守りたいと思った。自分が一織を、引っ張っていってあげなきゃと。
 けれど最近では、一織が泣いている姿はほとんど見なくなった。弱いところを見せなくなったわけじゃない。彼は昔よりずっと逞しく、強くなったのだ。
 羨ましいような、悔しいような、そして少しだけ残念な気持ちにもなるけれど、陸は何よりそんな一織を誇らしく思っていた。
「ありがとう……オレいま、生きてきた中で、いちばん幸せだ」
「……大袈裟な人ですね」
「そんなことない。めちゃくちゃ嬉しい。生きててよかった」
 死んでもいいなんて言葉は出てこなかった。
 この世に生まれてよかった。一織に出会えて、今こうして同じ時間を生きられて、本当に幸せだと心の底から思う。
 泣き顔が恥ずかしくて肩口に顔を埋めると、一織の腕が背中に回る。ぎゅっと力強く抱きしめられて、胸が震えた。
「七瀬さん」
 耳元で、一織が言った。
「私には、くださらないんですか?」
「え?」
 陸はきょとんとして顔をあげた。じっとこちらを見つめる一織に、何の話だと思った次の瞬間はっとする。
 握りしめたままの右手の中身を、すっかり忘れていたのだ。
「あ……、渡そうとしたのに、一織がズルして先回りするからだよ!」
「どんな手を使おうと、あなたに先を越されるのだけはごめんです」
「可愛くない……」
「可愛くなくて結構です」
「もー」
 こういうところは昔からちっとも変わらないと思いながら、陸は腕をほどいた。
(そういう可愛くないところが可愛いのに)
 それを言ったら、きっと赤い顔で怒るから言わないけれど。
 陸はずっと握りしめていた右手を開き、親指と人差し指で指輪を掴んだ。そしてもう一方の手で、一織の左手を取る。
「一織」
 真剣な顔で名前を呼ぶと、一織は僅かに眉をぴくりとさせたが、すぐに「はい」と答えてくれた。
「一織はいつも、オレを幸せにしてくれるよね。だからオレも負けないくらい、一織を幸せにしたいって思う。絶対に後悔させない。……だからこれからもオレと、ずっと一緒にいてください」
 さっきも同じことを言ったけれど、何倍も強い気持ちでそれを口にする。
 これからもずっと、一織と一緒に生きていきたい。一織が言ってくれたように、一緒に夢を追いかけたいと心の底から思った。
(大好きだよ)
 胸のうちで囁いたのとほぼ同時、視線の先で、一織がふわっと微笑んだ。
「はい」
 その返事に、くすぐったいような、甘い感情が胸いっぱいに広がる。陸ははにかみながら、一織の薬指に指輪を通し――そして「あれっ!?」と声を上げた。
 根元まで嵌めて気が付いた。明らかに、指輪のサイズが緩い。
「え……なんで? 温まって緩んじゃったのかな!?」
 慌てた陸の発言に、一織が「は?」と眉を寄せる。
「何ですか……。人肌くらいで変形するわけないでしょう」
「だって一織、オレとそんなに手の大きさ変わんないのに……!」
 指輪を買いに行って、店員にサイズを聞かれた時と同じ――いや、それ以上に陸は焦った。
 一織とは手の大きさがほとんど一緒だ。彼の方が指は長いけれど、太さは変わらないと思っていた。だからサイズも、自分の薬指と同じにしたのだ。試しに自分が嵌めてみたら、ちょうどぴったりだったのに。
「あなたもしかして、自分のサイズで買ったんですか?」
「う、うん……。一織、オレと違うの?」
「残念ながら、ワンサイズ違いますね」
「知らなかった……。一織の方が、指細かったんだ……」
 何度も見て、何度も触っているのに、五年目にして初めて知った。一織はちゃんと、自分にぴったりの指輪を用意してくれていたのに。
「ごめん……こんな肝心なこと間違えるなんて、恋人失格だよな……」
 しゅんとうなだれる陸に、一織がふ、と笑った。
「七瀬さんらしいです」
「本当にごめん……! 明日お店に行って交換してもらってくるから!」
「いえ。その必要はありません」
 指輪を抜こうとした陸の手を、一織の右手が止めた。
「え?」
 なんで、と見つめると、一織は僅かに視線を逸らす。そして小さく、口を開いた。
「この指輪は、あなたが私にと選んでくださったものでしょう。なら私は、これがいいです」
「一織……」
「それにほら、中指に嵌めればちょうどいいですし」
 言いながら一織は、指輪を中指に嵌め直す。彼の言う通り、中指にはぴったりのサイズだった。一瞬ほっとしたけれど、気持ちはすぐに沈んでしまう。
「でもオレも、左手の薬指につけてほしい……。一織はオレのだってしるしなのに」
「は、恥ずかしいこと言わないでください!」
 自分はさっき、もっと恥ずかしいことを平気な顔で言ったくせに、一織は真っ赤になって怒った。それが可愛くてふにゃっと笑うと、一織はコホンと咳払いする。
「いずれにせよ人前ではつけられませんし、このままでいいです。七瀬さんも、外に出るときは必ず外してくださいね」
「えー」
「えー、じゃありません」
「だって……」
 外したくない、と陸は思った。ずっとこのまま、一織だけのものでいたいのに。
 そんな気持ちで左手の指輪を見つめていると、一織が小さく「それに」と言った。
 顔をあげると、まっすぐこちらを見つめる一織と視線がぶつかる。陸はじっと、その瞳を見つめ返した。
 今度は一織も、目を逸らさなかった。
「ちゃんとしたものは、いつか二人で選びに行きましょう」
「え……でも」
 これだって十分ちゃんとしてるよ。
 そう言いかけて、陸は言葉を飲み込んだ。一織の言わんとしていることがわかったからだ。

 ――いつか。

 その日がいつになるかは、まだわからないけれど。
 また目の奥が熱くなって、陸は泣いてしまわないようぱちぱちと目を瞬かせながら、「うん」と頷いた。
 一織はただ、優しく微笑んでくれる。
 満ち満ちる幸福感に泣き出しそうな気持ちになって、陸はもう一度彼に腕を伸ばした。
 背中に両腕を回し、じゃれるように額を肩に摺り寄せると、一織は優しく髪を撫でてくれる。そんな仕草も、どうしようもなく嬉しくて、愛おしい。
「一織のこと、絶対に幸せにする」
 耳元に唇を寄せて告げると、一織は短く息を吐き、陸の体をぎゅっと抱きしめ返す。
 そして甘い声で、小さく囁いた。
「あなたと出会えた時点で、私はもう十分幸せですよ」
「っ……そういうの、ずるいって……!」
 顔をあげた瞬間、一織の腕が背中に回った。強く引き寄せられて、間近に視線が交わる。
 言葉はなかった。けれどその目を見れば、気持ちは十分伝わるから。
 どちらからともなく顔が近付き、唇が重なった。
「……ん」
 やわらかく触れた感触に胸が震える。
 陸は唇を薄く開いて、甘えるように一織のそれを吸った。
 大好き、好き、と胸のうちで呟きながら、ちゅ、ちゅと小さな音をたてて何度も繰り返すと、一織は困った顔で顔を離した。
「……くすぐったいです」
 こんなときにそんなこと、言わないでほしい。こっちはもう、スイッチが入っちゃってるのに。
 胸のうちでそう思いながら、陸はじっと一織を見つめた。
 とくん、とくんと鼓動が跳ねる。うさぎがジャンプするみたいに、体の内側で大きく飛び跳ねている。
「じゃあ……くすぐったくないやつ、して」
 わずかに離れた唇の先、ねだるようにそう告げると、一織は短く息を吐く。
 背中に回った彼の腕に、少しだけ力がこもった。
 一織。
 声には出さす呟いた唇に、彼のそれが重なる。
 そうしてまたひとつわがままを叶えてくれた恋人に、陸はそっと瞼を閉じた。


prev / top / next
- ナノ -