砂糖菓子のお星さま

 マンションに帰りついたのは日付が変わる頃だった。
 同居人はもう寝ているかもしれない。起こしてしまわないよう静かに玄関のドアを開けると「おかえり!」と元気に出迎えられ、一織は驚いて目を見張った。
「七瀬さん、まだ起きていたんですか」
「オレ、明日は久しぶりのオフだから! 録り溜めしてた番組見てたんだ」
「そうだったんですね」
 思いがけず恋人の笑顔が見られて、一織はふわりと笑んだ。
 ありがたいことだけれど、最近は仕事が増えたおかげでお互い多忙を極めている。陸とは一緒に暮らしていても、すれ違うことが多かった。
「一織、お風呂入るだろ? お湯ためといたからすぐ入れるよ」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、お風呂頂きます」
「うん。ゆっくりあったまって!」
 正直疲れていたので、すぐ湯船に入れるのはありがたい。一織はもう一度陸に礼を言ってバスルームに向かった。
 湯船に肩まで浸かり、はぁとため息を吐く。
 今日は仕事でミスをした。キャスターとして出演している生放送のニュース番組で、原稿を読み違えてしまったのだ。
 幸いすぐに共演者がフォローしてくれたので大事にはいたらなかったが、キャスターとしてあってはならない失敗だった。スタッフも共演者も、よくあることだから気にするなと言ってくれたが、こんなミスを犯すなんて気が緩んでいた証拠だ。
 世間ではアイドルがキャスターを務めていることに厳しい目を向ける人も少なくない。他の仕事と比較しても、この仕事がIDOLiSH7の評価へ直結するのは明らかだ。だからこそ、完璧にこなしたかったのに。
「……捲土重来、ですよね」
 湯舟の中で、一織はぽつりと呟いた。
 くよくよと落ち込んでいても仕方ない。今日の失敗は、今後の仕事で挽回するしかないのだから。
 そんなことを考えながら、一織はふと陸のことを思った。
 何も言わなかったけれど、もしかしたら彼も今夜の番組を見ていたのかもしれない。だからこうして気を遣ってくれたのかも──いや、かもではない、きっとそうだ。
 体を温めるお湯と一緒に陸の優しさが伝わってくるようで、一織はそっと瞼を閉じた。
 一緒に寮を出て三年。二人暮らしを始めて同じ時間が流れた。時々喧嘩もするけれど、陸との暮らしは想像していたよりもずっと心地いいものだった。
 今日のように落ち込むことがあった日も、彼の笑顔を見ればそれだけで心が軽くなる。一織にとって、陸はずっと前からそういう存在だったけれど、こうして二人暮らしを始めてから、ますますそれが強くなった気がする。それが果たしていいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど、少なくとも今の一織には、陸はなくてはならない存在だった。
 いつもより長い入浴を終えてリビングを覗くと、陸はまだ起きていた。しかしソファの上で猫のように丸まっている彼の瞼は重く、今にも眠ってしまいそうだ。
「七瀬さん」
 声をかけると、陸ははっとしたように目を開ける。一織は小さく笑った。
「そんなところで寝たら風邪を引きますよ。眠いのでしたら、ちゃんとベッドで寝てください」
「まだ眠くないよ、ちょっとうとうとしてただけ」
 それを眠いと言うのではないのか。
 一織がそう思っていると、陸はソファの上に身を起こし、「一織はもう寝ちゃう?」と訊ねた。
「そうですね……」
 明日オフの彼とは違って、自分は午後から仕事がある。ミスの件もあって疲れていたが、こうして陸とプライベートな時間を一緒に過ごすのも久しぶりだ。このまま寝てしまうのは惜しくて、一織は「少しだけ付き合います」と言った。
「本当?」
 途端にぱあっと笑顔になる陸がかわいい。はい、と頷くと、陸は「じゃあここ座って!」と自分の隣をぽんぽん叩いた。
 まったく、いくつになっても子供のような人だ。
 一織は苦笑しつつ、指示された場所に腰を下ろした。
 すると陸は続けて「横になって!」と言う。一織は「はい?」と目を点にした。
「ここ、頭乗せていいから!」
 そう言いながら、今度は自分の膝を叩いてみせる。一織はえ、と目を見張った。
「いきなり何ですか」
「一織、疲れてるだろ? ごろごろしていいよ」
「はあ……いえ、結構です」
「遠慮するなよー。いいから、はい!」
 別に遠慮しているわけではない。
 一織は眉を顰めたが、それも一瞬だ。悲しいかな、長年の付き合いで、陸の無茶ぶりにはすっかり慣れてしまっていた。
「いーおーり!」
「わかりましたよ……」
 短くため息を吐き、大人しくソファに横たわる。そうして陸の膝に頭を乗せると、彼は一織の顔を見下ろし、かあっと頬を赤らめた。予想外の反応に、つられて顔が熱くなる。
「なんですか……」
「なんかこれ、思ったより恥ずかしい……」
「は……言い出したのはあなたでしょう!」
「そうだけど……!」
 陸はそう言いながら、そっと一織の髪に触れた。
 指で髪を梳くように撫でる手は思いのほか優しく、どきりと鼓動が跳ねる。一織は黙り込んだ。
「お疲れさま」
 一織の髪を撫でながら、陸はただ一言そう言った。
 やはり彼は、今夜の番組を見ていたのだ。一織はそう確信したが、何も言わず瞼を閉じた。
 お互いにそれ以上の言葉はない。けれどそれで十分だった。
 陸の手は優しく、慈しむように一織の頭を撫でる。目の前のテレビでは陸が見ていた番組が流れ続けていたが、彼が今もそれを見ているのかは一織にはわからなかった。
「……オレ、一織の髪触るの好きだな」
 ぽつりと、独り言のように陸が言う。知っていますよ、と一織は胸のうちで答えた。
 一緒に寝ると陸は、必ずと言っていいほど一織の髪に触れてくる。彼に髪を撫でられるのはくすぐったくもあったが、それ以上に心地良くて、一織はそれが嫌いではなかった。
 そうしてしばらく一織の髪を撫でていた陸の手は、やがてぴたりと止まった。
 瞼を上げると、こちらを見下ろす陸とまっすぐ視線が絡む。どんぐりのような丸い瞳を見あげて、一織は「七瀬さん?」と名前を呼んだ。
「どうかしましたか」
 問いかけると、陸は小さく笑った。
「昔のことをね、思い出してたんだ」
「昔……ですか?」
「うん。昔は一織、全然オレに甘えてくれなかったよなぁって。オレの前ではいっつもスンとして、ツン!ってして、キリッとしてたなって」
 陸はそう言うと、一織の髪をくるくると指に絡める。
 擬音だらけの説明ともてあそぶようなその動きに、一織は眉を寄せた。
「なんですか突然……」
「だって突然思ったんだもん。昔のお前だったら、こんなこと絶対にさせてくれなかっただろ?」
 そう言いながら至近距離に顔を覗いてくる陸にどきりとする。けれどそれを悟られたくはなくて、一織はふいと視線を逸らした。
「別に……絶対ということはなかったでしょう」
「あるよ! 絶対ある!」
 陸はむきになって主張する。一織ははぁ、と息を吐いた。
「七瀬さんは変わりませんよね。昔も今も、我を通そうとするところはそのままですし」
「えー、そうかなぁ?」
 この男、自覚がないのか。
 一織は呆れながら、陸の顔をまっすぐ見上げた。
「そうですよ。この状況だってそうでしょう」
 指摘すると、陸は面食らった表情でぴたりと手を止めた。
「一織……これ、嫌だった?」
 あからさまにしゅんとされ、うっと言葉に詰まる。
 一織はコホンと咳払いし、それから小さく口を開いた。
「嫌だったらしていません」
 気恥ずかしさを堪え目を見て告げると、陸はぱあっと笑顔になる。そして「嫌じゃないんだ」と言った。
「いちいち繰り返さないでいいです」
 一織は渋い顔でそう告げた。
 しかし陸はまったく気にする風もなく、一織を見つめてえへへと笑う。
「じゃあ今日は、思いっきり一織を甘やかしていい日にする!」
「は……なんですかそ、ちょっ……七瀬さん!」
「いいからいいから! 一織はいっぱい甘えて!」
 言いながら陸は両手で一織の髪をわしゃわしゃと撫で回す。髪が乱れて、一織は「やめてください!」と彼の腕を掴んだ。
「まったく、あなたって人は……!」
 眉を顰める一織とは正反対に、陸は腕を掴まれたまま楽しそうに笑っている。
 その笑顔を前にしたら、文句はたちどころに消滅してしまった。代わりに湧き上がってくるのは、まったく別の感情だ。
 一織は無言で腕を伸ばし、陸の頭を力強く引き寄せた。
「わっ…!」
 声を上げて背を丸めた陸との距離は、一瞬でぐっと近付いた。
 間近に絡む視線の先で、陸は小さく息を呑む。一織はじっと、彼の瞳を見つめ返した。
 どきん、どきんと鼓動が跳ねて、交差する視線が蜂蜜のように甘くとろける。一織は視線を重ねたまま、小さく告げた。
「あまり調子に乗らないで」
 一織の言葉に、陸は目を見開く。けれどすぐ、ふわっと顔を綻ばせた。
「一織がオレを調子に乗らせるんだよ」
 責任転嫁のような言葉と共に、陸の笑顔が降ってくる。ちゅ、と触れるだけで離れた唇に思わず眉を寄せると、陸は無邪気に笑って「足りない?」と訊ねた。
「……足りません」
 一織は素直に返事をした。そうしながら、ソファに手を付き陸の膝から体を起こす。
「一織?」
 訊ねるように、陸が名前を呼んだ。
 体を起こした一織がまっすぐ見つめ返すと、きょとんとしていた彼は楽しげにふふっと笑う。
「一織、髪ぼさぼさ」
 ……誰のせいだ。
 一織は眉間に皺を寄せながら、自らの乱れた頭はそのままに陸の髪に手を伸ばした。
 陸だけじゃない。自分だって、彼の髪を撫でるのが好きなのだ。
 やわらかな髪をそっと撫でると、陸は気持ち良さげに目を細める。そんな彼がどうしようもなく可愛くて、一織は自分も目を細めた。
 さっき陸は自分を甘やかしてくれると言ったけれど、こうして彼を甘やかしているときこそ、甘やかされているような気分になる。陸にはきっと、そんな自覚はないのだろうけれど。
「七瀬さん」
 込み上げる愛おしさを吐き出すように呼びかけると、なに?と視線が返ってくる。
 一織は何も言わず、彼の頬に手を滑らせた。そのまま顔を近付けると、陸はかあっと頬を赤らめる。
 まるで初めてキスをしたときのようなその反応に、一織は思わずふ、と笑った。
「甘やかしてくれるんじゃないんですか?」
 触れ合いそうな唇の先、囁くように問うと、陸はわずかにびくっとする。けれどそれは一瞬だ。彼は短く息を吐き、すぐにふわりと微笑んだ。
「そうだよ。……いっぱい、甘やかしてあげる」
 そんな言葉と共に、いつの間にか背中に回った陸の腕にぎゅっと抱き寄せられて、鼓動がまたひとつ大きく跳ねた。
 密着した体から、互いの温もりと鼓動を分かち合う。
 こうして抱き合っているとそれだけで、自分の中で不足しているものがゆっくりと満たされていくのがわかる。まるでこの世界に足りないものなんて何ひとつないような気分にさえなって、一織はゆるゆると息を吐いた。
 陸はいつだって、一織の世界のすべてを支配している。
「……七瀬さん」
 もう一度。思わず呟いたその声に返ってきたのは、先をねだるような甘い視線だったから。
 一織は小さく笑って、陸に覆いかぶさりながら、彼の唇を深く塞いだ。

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