友達じゃない

 その日一織がホットミルクを作って部屋を訪れると、陸は明らかに様子がおかしかった。
 いつもなら満面の笑顔で「ありがとう!」と招き入れてくれるのに、今夜の彼はどこか表情が暗く、こちらと視線を合わせようともしない。
「七瀬さん、どこか具合でも悪いんですか?」
 心配になって訊ねる一織に、陸はううんと首を横に振る。
 耳をすませば、確かに呼吸音は正常だ。
 ほっとしながらも腑に落ちない気分で隣に腰を下ろすと、陸はびくりとして膝を抱え丸くなった。やはりどこか変だ。
「どうしたんです?」
 答えはない。一織はわけがわからず、無言で彼を見つめた。
 ついさっきまで、自分たちはそれぞれの部屋で環の誕生日を祝うグループチャットに参加していた。誕生日当日はまだ先だが、恒例となったRe:valeやTRIGGERを交えてのグルチャである。月に一度のこの機会を、陸はいつも楽しみにしていた。今日だって、楽しげに会話に参加していたはずだ。
 チャットが終わったのはほんの三十分ほど前だというのに、その間にいったい何があったのだろう。
「……さっきの」
 重苦しい沈黙を破って、ぽつりと陸が言った。
「グルチャ……ショックだった」
「はい?」
 一織は眉を寄せた。
 さっきのグルチャに、彼がショックを受けるような会話などあっただろうか。いつもは冷たい彼の双子の兄も、今日は比較的柔らかな態度だったように思うのだが。
「なんのことですか。九条さんも、今日は優しかったでしょう」
「天にぃは関係ない! オレが言ってるのは一織の答えだよ!」
 ばっと顔をあげた陸は、眉を吊り上げむっとした顔をしている。一織はぽかんとした。
 今年のグルチャは、誕生日を迎える人物からの質問に答える形式になっていた。環の質問は『何のランキングなら自分が1位になるのか』というもので、一織は『同世代の友達ランキング1位』と答えたのだが――。
「どうしてあなたがショックなんです?」
 わけがわからず訊ねると、陸はきゅっと唇を結んだ。
 見つめる先の頬は赤い。触れたら熱そうだ、などと思っていると、陸は小さく口を開いた。
「だって……一織と一番仲良しなのは、オレだって思ってたのに……」
 陸はそう言うと、一織から隠すように抱えた膝に顔を埋めてしまった。
「一織の一番は、環なんだろ……」
 しんと静まった部屋にくぐもった陸の声が響く。その明らかに拗ねた声色に一織は一瞬固まったが、やがてふっと笑ってしまった。
「っ……笑うとこじゃないだろ!」
 真っ赤な顔を上げて陸がこちらを睨みつけてくる。正直迫力はない。そればかりか、キッと吊り上がった眉も、潤んだ瞳も、震える唇も、逆効果としかいいようがなかった。
「すみません。七瀬さんがあまりにも……」
 かわいいことを言うので――とは声にならなかった。代わりに手を伸ばし彼の頬に手をあてると、陸はびくっと震えこちらを見る。
「同世代の友達ランキング1位は、やはり四葉さんです」
 一織は陸の瞳を見つめ、はっきりとそう告げた。陸は何か言いかけたが、すぐに口をつぐんで切なげに眉を下げる。
 ……かわいい。
 ついそう思ってしまった自分にコホンと咳払いをひとつして、一織は話を続けた。
「七瀬さんは友達ではありませんから」
「えっ……」
 大きな目がさらに丸く見開かれる。
 明らかにショックを受けたその顔にずきりと胸が痛んだが、同時に薄暗い喜びを抱いている自分に気付き、一織は短く息を吐いた。
 泣かせたいわけでも、傷つけたいわけでもない。陸にはいつだって、笑ってほしいと思っているのに。
 自分を情けなく思いながら、けれどそれ以上に陸への愛しさが膨れ上がって、一織はたまらず彼に顔を寄せた。
「いお……、っん」
 陸が名前を呼ぶより早くその声を塞ぐ。唇が重なった瞬間、びくりと強張った肩を引き寄せると、彼は甘えるように寄り掛かってきた。
 かわいい。七瀬さん、かわいい。
 胸のうちで繰り返し、小さな音をたてながら何度も唇を啄んだ。
 唇の表面を撫でるだけの口付けに、体温は一気に跳ね上がっていく。いつの間にか腕を掴んでいた陸の手に、ぎゅっと力がこもった。
「……いお、り」
 そっと唇を離すと、はあっと息を吐きながら陸が名前を呼ぶ。
 上気した頬と潤んだ瞳、そしてその声にどきりとした。一織は自分も呼吸を整えながら、親指の腹で濡れた彼の唇を拭った。
「ん……!」
「友達とは、こんなことはしないでしょう?」
 囁くと、陸は耳までかっと赤くなる。
 自分も顔が熱くなるのを感じ、一織は彼から離れようとした――が、それはままならなかった。突然ぎゅうっと抱きつかれ息を呑むと、陸は一織の肩口に顔を埋める。
「七瀬さ……」
「やっぱり、一織の一番はオレじゃなきゃいやだ……」
 彼の口から出た小さな声に、一織はびくっとした。目を見開いて見つめると、陸はそうっと顔を上げる。
 火照った頬も、潤んだ瞳もさっきと同じ。けれどこちらを見据える視線はまっすぐで、目をそらすことができない。
 絡んだ視線が、舌に乗せた綿菓子のように甘くとろけた。
「オレじゃなきゃ、だめだからな」
 言い聞かせるように、命令するように陸が言う。
 いくらなんでも、我儘にもほどがあるのではないか。そう思いながらも、一織は何も言えず固まった。すると陸は、それが不服のように眉を吊り上げる。
「もっかいキスして、一織」
 不機嫌な声で、もうひとつ命令が下された。
 ――なんて面倒くさい人なんだろう。
 思わず眉を顰めるけれど、その言葉に逆らうことはできなくて。
 一織は短く息を吐き、強欲な王様にそっと顔を近付けていった。

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