Wish

 新曲の衣装合わせの日。真新しい衣装に袖を通し、ヘアメイクを終えて控室に向かった私は、先に準備を終えていた七瀬さんに「うわぁ!」と大きな声で出迎えられた。
 他のメンバーはまだメイク中だ。一人で暇を持て余していたのだろう、七瀬さんは席を立つとこちらに駆け寄ってくる。まるで飼い主を見つけた犬のようだ。
 七瀬さんは目の前に立つと、私の頭のてっぺんから足のつま先までをぐるりと見渡し、それからふわっと笑った。
「一織、めちゃくちゃ格好良い! 王子様みたい!」
「な……っ」
 まじまじと見つめられてそんなことを言われると、思わず顔が熱くなる。
 まったく、恥ずかしい人だな。
 私は彼から目を逸らし、コホンと咳払いした。
「……どうも。七瀬さんもよく似合っていますよ」
「ほんと? オレも格好良い?」
「ええ。それこそ王子様みたいです」
 視線を戻し頷くと、彼は嬉しそうにえへへと笑う。
 その姿は格好良いというより可愛らしいという表現の方がぴったりだったが、白と黒を基調にフリルとビジューがふんだんにあしらわれた今回の衣装は、彼にとてもよく似合っていた。
「一織もオレと同じ黒の手袋なんだね」
「そうですね。二階堂さんも黒でしたよ」
「大和さんもなんだ! 黒手袋って、なんかいいよね。大人の男って感じ!」
「はあ」
 よく分からない。適当な返事をすると、七瀬さんはむっとした顔でこちらを睨んだ。
「なんだよその気のない返事。黒い手袋、格好良いだろ! ……って、一織、指輪してるの!?」
 突然声を張り上げられてびくりとする。驚く私の左手を、七瀬さんは両手でがしっと掴んだ。
「な……なんですか。たかが指輪くらいで騒がしい人ですね。これはピンキーリングといって、願掛けの意味合いを持つそうですよ。スタイリストの方が今回の曲にぴったりだと仰って──」
「よっ、よかったぁ……!」
 七瀬さんはほっとしたように声をあげ、私の説明を遮った。
 いったい何が良かったのだろう?
 訳が分からず眉を顰めると、私の手を凝視していた彼は、掴んだ手をそのままにそろそろと顔を上げた。
「一瞬、薬指に指輪してるのかと思って焦った……」
「は……」
 左手の薬指。そこに指輪をすることがどんな意味を持つのかは言うまでもない。
 ぽかんとしたのは一瞬。私は即座に眉を吊り上げた。
「あっ、あなたバカですか!? 私たちはアイドルで、これは新曲の衣装なんですよ! そんなところに指輪なんてするわけがないでしょう!」
「わ……わかってるよ! だからびっくりしたんじゃん!」
「驚く前に、常識的に考えればわかるでしょう!?」
 彼の早とちりは今に始まったことではないが、大概にしてほしい。
 私の言葉に、七瀬さんはうっと押し黙る。それから少しの間を置いて、私の手を掴むその手にぎゅっと力を込めた。
「七瀬さん?」
「……一織」
 呟くような声に、どきりと鼓動が跳ねる。見つめる先で、飴玉のような赤い瞳が揺らいだ気がして、私は思わず息を呑んだ。
 ──とそのとき、ドアの外から話し声が聞こえてきた。私たちは互いにびくりとしたが、七瀬さんは手を離そうとはしない。私は焦ったが、話し声はすぐに遠く離れていった。
 控室は再びしんと静まり返る。しかし沈黙は、そう長くは続かなかった。
「……ここ」
 少しの間の後、七瀬さんが口を開いた。
「これからも、空けておいて」
 息を呑むほど真剣な顔でそう言って、彼は私の指をきゅっと握った。
 そこは左手の薬指。
 思いがけない言葉に目を見張ると、目の前の彼はたちまちかあっと赤くなる。そうしてぱっと離れた七瀬さんの左手を、私は咄嗟に捕まえていた。
「一織……?」
 掴んだ手をぎゅっと握ると、七瀬さんは小さく息を呑む。私はその瞳をじっと見つめた。
「……あなたも」
 囁いて、掴んだ手を口元に引き寄せる。そして手袋の上から薬指の付け根に口付けると、七瀬さんはびくりと震えた。
「あ……」
 見つめる先で、彼の顔はますます朱に染まっていく。
 かわいい。……思わず口元を緩ませると、七瀬さんはキッと眉を吊り上げた。
「……っ、お前、ずるい……!」
「は……? 私のどこがずるいんですか」
「だってずるいだろ! こんなの……格好良すぎてむかつく!」
「なんですかそれは……」
 無茶苦茶な話に私は呆れかえった。しかしそれ以上にこみ上げてくるのは、くすぐったい感情だ。
 ふ、と笑うと、七瀬さんはますます膨れっ面になる。けれどそれはすぐ、ふにゃりと下がり眉に変わった。
「……一織」
 静寂にとけるほど小さな彼の声は、確かに甘い響きを帯びている。
 胸の奥が、じんと熱をもつのがわかった。
 返事をする代わりに瞳を見つめると、胸元できらめくビジューより強い光を宿したそれがまっすぐ私を見つめ返す。
「誓うよ」
 小さく、けれどはっきりと彼が言った。
 迷いなんて少しもない、まっすぐな視線と声に、どうしようもなく胸が震えた。
「……七瀬さん」
 たまらず名前を呼ぶ私の手を、彼はぎゅっと握り返す。はっとして目を見張ると、七瀬さんはふ、とはにかんだ。
「一織は? 約束してくれる?」
「……はい」
 頷くと、七瀬さんは嬉しそうにふわっと笑った。

 私が誓いを立てたのは、とうの昔です。
 あなたは何も知らない。……知らなくていい。

 じっと見つめると、七瀬さんはそっと瞼を閉じる。
 そんなつもりで見つめたわけではないけれど、そんな彼がどうしようもなく可愛くて。
 私は導かれるように、ゆっくりと彼に顔を寄せていった。


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