ひみつの恋人

 いつもと同じ朝だった。
 登校前の忙しい時間、準備をすませ、玄関口で四葉さんを待っていると、「一織!」と名前を呼ばれた。
 その声に振り向くと同時、スマホのシャッター音が鳴る。驚いて目を見張ると、不意を突いて写真を撮った犯人はへへっと得意気に笑った。
「隙あり!」
「七瀬さん……」
 私はため息を吐きながら、体ごと彼に向き直った。
「何度言えばわかるんです。被写体の許可を得ず勝手に写真を撮らないで下さい」
「では撮り直しをします。許可下さい!」
「却下します」
「えー」
 口を尖らせながらも、七瀬さんは楽しげに笑う。
 ……まったく、朝からかわいい人だな。
 つられて微笑みそうになり、私は慌てて顔を引き締めた。今ここには私と七瀬さんのふたりきりだが、それはそれ、である。
「ね、一織もオレの写真撮って!」
「は?」
「お願いー」
「なんなんですか……」
「かっこよく撮って!」
 七瀬さんはにっこり笑うと、顔の前でピースサインを作ってみせる。私は眉を寄せて彼を見つめた。
 私同様、今日は丸一日オフである七瀬さんは未だ寝間着姿のままだ。Tシャツにスウェットというラフな出で立ちに加え、洗顔時に結わえたのであろう前髪が頭のてっぺんで揺れている。
 普段は前髪で隠れた額が全開になると、童顔がいっそう際立つことに、この人は気づいていないのだろうか。はっきり言って、かっこいいとは真逆の位置にいる。
「早くー」
 動こうとしない私に焦れたのか、七瀬さんが急かし立てる。
 どうして私が……と思ったが、こんな事で朝から喧嘩はしたくない。私は渋々制服のポケットからスマホを取りだした。
「撮りますよ」
「うん!」
 カシャッという機械音と共に、画面いっぱいに七瀬さんの笑顔が映し出される。すると彼は「見せて!」と、私の手からスマホを奪った。
 ……この人、どれだけ自分が好きなんですか?
 そういうところもまあ、かわいくないといえなくもなくないですけれども。
 撮った写真を転送しているのか、七瀬さんは自分と私のスマホを両手に持ち、何やら操作をしてから「はい!」とこちらにスマホを戻した。
「どうも。……っ!?」
 返ってきたそれを何気なく見て、私はぎょっとした。スマホの壁紙がさっき撮った七瀬さんの写真になっていたからだ。
「ちょっと七瀬さん! 何するんですか!」
「なあ一織、今日何の日か知ってる?」
「は?」
 的外れな答えに眉を顰めると、七瀬さんは照れた顔でこちらを見る。そして「今日、恋人の日だって」と囁いた。
「は……」
 ――コイビトの日。
 こいびと……恋、人。
 理解するのに、少し時間がかかった。
「さっきテレビでやってたんだよ。今日は恋人同士が写真を交換する日なんだって。だからさ……」
 ほら、と言って七瀬さんは自分のスマホ画面をこちらに向けた。彼の壁紙はいつの間にか、さっき撮られた私の写真になっている。不意を突かれて、間の抜けた顔だ。
「今日だけ特別! いいだろ?」
「っ……」
 いいわけがない。万が一この画面を他の誰かに見られたらどう言い訳するつもりなんですか!?
 いくら同じグループでユニットを組んでいると言っても、こんな写真を壁紙にしているなんて不自然にもほどがあるでしょう! せめてもう少しまともな写真にしてください!
 そんな言葉が喉元まで込み上げたが、えへへ、とはにかむ七瀬さんを前にしたら、それは声にはならなかった。
「……今日だけ、ですからね!」
 コホンと咳払いしてそう言うと、七瀬さんは嬉しそうにうん!と頷く。はじけるような笑顔を浮かべる彼に、私は言葉を失った。
 じっと見つめると、七瀬さんもこちらを見つめ返す。絡んだ視線が甘くとけたその瞬間、頭で考えるよりも早く手が伸びた。
理由はない。ただ無性に、彼に触れたくなったのだ。
「七瀬さ……」
「いおりん、おまたせー」
 突然飛び込んできた呑気な四葉さんの声に、私ははっとして腕を引っ込めた。七瀬さんも大袈裟なくらいビクッとして、慌ててスマホを後ろに隠す。
 そういう反応が逆に怪しいというんです!
 思わず眉間に皺が寄ったが、幸い相手はそういったことに無頓着な四葉さんだった。
「あれ、りっくん見送り?」
「う、うん! オレ今日オフだから!」
「いーなー。俺もオフの日くらい休みてえ……りっくん俺の代わりに学校行ってきて」
「あはは、いいなそれ! オレも久しぶりに学校行きたい!」
「マジか。りっくん物好きだな」
「バカなこと言ってないで、行きますよ」
 呆れる私に眉を下げて、四葉さんはのろのろとスニーカーをひっかける。まったく、人を待たせておいてマイペースな人だ。
「いってきまーす」
「行ってらっしゃい! 勉強頑張れよー」
 七瀬さんの元気な見送りに、四葉さんは「おー」と力の抜ける返事をして先に外へ出ていく。その背に続きながら、私はもう一度七瀬さんを振り返った。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
 にっこり微笑んで手を振る七瀬さんに、自然と笑みが零れる。私は少しの間を置いて、口を開いた。
「帰ったら……」
「うん?」
 今日は二人だけで、過ごしませんか。
 そう言いかけて、急に気恥ずかしくなった。
「いえ、何でも――」
 誤魔化そうとしたそのとき、七瀬さんが笑って言った。
「待ってる!」
 まるで心を読んだかのようなその返事に、私は固まった。
 この人はいつも、こんな風に私の心をぎゅっと掴む。まっすぐに、そしてしっかりと掴んで、離してくれない。
「……はい」
 ただそう返すと、七瀬さんはくすぐったく笑った。そんな顔を見たらじっとしていられない。私はほとんど無意識に彼に手を伸ばした。
「ん? わっ……!」
 掴んだ腕を引き寄せ、近付いた唇に触れるだけのキスをすると、七瀬さんはどんぐりのような目を大きく見開く。離れた唇の先で、たちまち顔を赤く染める彼を見つめながら、自分の顔も同じように赤くなるのがわかった。
「……この続きは、帰ってからにします」
 こみ上げる衝動を必死に抑え囁くと、七瀬さんはびくっとする。そしてますます顔を赤らめ、「うん」と頷いた。
 普段は少しの遠慮もなくべたべたとくっついてくるくせに、こちらから触れると途端に恥ずかしがるのはなんなのだろう。
 ……そういうところがかわいくて仕方ないなんて、口に出しては言えないけれど。
 私は後ろ髪を引かれる思いで、七瀬さんからそっと手を離した。
「いおりん何やってんだよー、置いてくぞー」
 外から四葉さんの声がする。私は呆れて眉を寄せた。
「散々人を待たせておいて良く言えますね……」
 照れ隠しに呟くと、七瀬さんがふふっと笑う。私は短く息を吐き、彼に向き直った。
「では、行ってきます」
「うん。……一織」
「はい?」
「早く帰ってきて」
 飴玉のような赤い瞳が揺らめいた。
 甘えるような、それでいてどこか誘うような眼差しに心臓が跳ねる。私はそれを必死に宥めながら、「はい」と頷いた。

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