Kiss you,Kiss me,Magic 4
「――では、歌います!」
「はい」
ラグの上に正座した一織の前に立つ陸は、若干緊張した面持ちだ。けれどそれは最初だけで、歌い始めた彼はすぐに楽しげな笑顔を浮かべた。
あの日聴いたものと同じ、伸びやかで美しい歌声がまっすぐ心に届く。
叶うなら、このまま一緒にいたかった。
いつまでもこんな風に、彼の歌を聴いていられたらどんなに幸せだっただろう。
ふと、どこからか風が吹いた。
窓も開けていないのにどうしてと目を瞠ると、風と共に薄紅の花びらが舞い踊った――桜の花だ。
「あ……!」
気が付くと、陸の歌声に合わせて、たくさんの花びらが宙を舞っていた。音符が花になって具現化したようなそんな光景に、一織は目を見開いた。
(すごい……)
息を呑む一織を見つめ、陸はふふっと笑う。まるで悪戯が成功した子供のような顔だ。
一織が微笑むと、彼はいっそう嬉しそうな顔になった。
彼の歌声は、今日も一織の胸を震わせた。
知らない国の、知らない歌。
この歌は、離れた場所にいる大切な人を想って歌う歌だと陸は言っていた。
なら自分は、この歌を一生忘れずにいよう。いつでも陸を、彼との記憶を思い出せるように。
一織はひそかにそんなことを思った。
陸が歌い終えると、花びらははらはらと床に落ちて降り積もった。部屋中桜まみれになってしまったが、一織はぱちぱちと拍手をした。
「えへへ、ご清聴ありがとうございました!」
照れた顔でお辞儀をする陸に、一織はふわりと微笑んだ。
「こちらこそありがとうございます。とても素敵な歌声でした。……七瀬さん?」
顔を上げない陸が気になった。
立ち上がって傍に行くと、彼は小さく声を漏らす。聞き取れなくて「え?」と訊ねると、陸は俯いたまま震える声で言った。
「やっぱり、帰りたくない。オレ、一織とずっと一緒にいたいよ……」
「……七瀬さん……」
それは嬉しい言葉のはずだった。
それなのに、心臓にずきんと刺さされるような痛みが走る。一織は何も言えず、陸の前に立ち尽くした。
「こんなに、大好きなのに」
震える声で陸は言う。けれど顔をあげてはくれない。
一織は彼の肩に両手を置いて、「七瀬さん」と優しく呼びかけた。
するとようやく陸は顔を上げる。思った通り涙に濡れたその瞳を見つめて、一織はわずかに息を吐いた。
「私も、あなたが好きです」
一織の言葉に、陸はびくりとした。
「初めて人を好きになりました。私がこんなに誰かを好きになれるなんて、正直自分でも驚いています」
「……いおり……」
ひくっとしゃくりあげながら陸がこちらを見る。
一織は小さく笑って、彼の眦に唇を寄せた。
震える陸の涙は塩辛い。眉を顰めて「しょっぱいですね」と告げると、陸は一瞬驚いたように目を瞠り、そしてふっと笑った。その笑顔を見つめ、一織も微笑む。
「やっぱり私は、あなたの笑った顔が好きですよ。だからどうか、笑っていてください」
そう告げると、陸は再び泣きだしそうな顔になる。
ひたすら胸が切なくて、一織は彼の頬を両手で包み、その潤んだ瞳をまっすぐ覗き込んだ。
「……陸さん」
祈りを込めるようにその名を呼ぶと、陸は大きな目をさらに大きくしてこちらを見つめ返す。一織はそんな彼を、どうしようもなく愛しいと思った。
「私はずっと、あなたを好きでいます。あなたがどこへ行っても、この先何が起きても、きっとこの気持ちは変わりません」
「一織……」
「ですから、あなたにかけられたその呪いが解けたら、また私に会いに来てください。これが私の三つ目――最後の願いです」
一織の言葉に陸はぽかんとする。
けれどそれは数秒で、彼は慌てた様子で声を上げた。
「そっ……そんなの、魔法と関係ないし、叶えられるかわかんないよ! オレたちの世界からこの世界に来るのは、ものすごく大変なことだって前に話しただろ……!」
「大変でもなんでも、どうにかして叶えてくださいよ。あなたのお兄さんにできるんですから、あなたにだってできるでしょう」
「天にぃは特別優秀なんだよ! オレに同じこと求められても困る……」
そう言って眉を下げた陸に、一織は短く息を吐いた。
「私だって、できることなら自分からあなたの傍に行きたいです」
「……一織……」
「ですがその方法はないんでしょう。だったら、ここはあなたに頑張っていただくほかありません」
「っ……、だけど……」
「私の願いは、あなたが叶えてくれるんでしょう?」
自分でも傲慢だとわかっている。けれどそれは、一織の心からの願いだった。
挑発するような一織の言葉に陸は唖然としたが、いつの間にかその目から涙は引いていた。
代わりにそこに浮かびあがってきたのは、きらきらと輝く意志の強さだ。一織がはっと目を瞠ると、陸は意を決したようにこちらを見つめた。
「わかった。一織のお願い、オレが絶対に叶えるよ」
「本当ですか?」
「うん。約束する!」
頼もしい返事につられ笑顔を浮かべると、陸は少しだけ甘えた声で言った。
「その代わり、一織も約束して。オレが会いに来るまで、ずっと待ってるって」
「はい。約束します」
「……そんな即答していいの? 絶対って言ったけど、いつになるかわからないよ? 一織がおじいちゃんになっちゃうかも……」
自分から言っておいて弱気になる陸に、一織は小さく笑った。
「何年かかっても構いません。あなたを信じます」
「……っ、絶対だよ! かわいい女の子に好きって言われても、絶対絶対なびいちゃだめだからな」
あなたよりかわいい人なんていませんよ。
そう思ったけれど、さすがに恥ずかしくて口には出せない。自分の思考に照れてしまい、一織はそれを誤魔化すようにコホンと咳払いした。
「私と他の人を取り持とうとした人の言葉とは思えませんね」
「えっ。なにそれ……いつの話?」
「初めて会ったときですよ。あなた、私に好きな相手はいないのかと聞いたでしょう。正直あのときは、人を運命の相手だとか言っておきながら、この人いったい何を言っているんだと思いました」
陸はすぐに思い出したようだ。たちまち気まずそうな顔になって目をそらした。
「だ、だってあのときはまだ、会ったばっかりだったし……。てか、今その話しなくてもいいだろ! 一織って結構根に持つタイプだよな」
「今頃気付いたんですか」
一織はそう言って陸の頭に手を伸ばした。
汗で湿ったその髪を指先に絡めると、陸はびくりとしてこちらを見る。
「私は諦めが悪いんです。……ですからあなたも、覚悟してください」
その囁きに、陸はわずかに眉を寄せた。けれどすぐに小さく笑って「わかった」と返事をする。
まっすぐ見つめると、同じように強い視線が返ってきた。
彼の潤んだ瞳は、確かな熱を含んでいる。一織はそっと目を細めた。
こんなに愛おしく思う人は、あなたをおいてほかにいません。これからだってきっと。
心の中でそう囁きながら、一織はもう一度陸に顔を近付けていった。
「――驚いた」
宣言通り、きっかり二十四時間後に現れた天は、帰る準備を整え待ち構えていた陸を見てそう言った。
「陸のことだから、絶対に行かないって駄々を捏ねるのを想定していたんだけど」
「何それ。無理矢理にでも連れていくって言ってたくせに」
そう言って口を尖らせる陸にふ、と笑い、天は一織を振り返った。
「キミが陸を説得したの?」
「七瀬さんが自分で決めたんですよ」
「……そう」
天はそう言うと、じっと一織を見つめる。昨日の出来事を見透かされそうで、一織は少しだけ気まずさを覚えたが、天はすぐに微笑んだ。
「改めてお礼を言うよ。陸を助けてくれてありがとう。本当に感謝してる」
「いえ。七瀬さんのこと、よろしくお願いします。またおかしなことに巻き込まれないように、しっかり見張ってあげてください」
自分が言える立場ではないと思ったが、一織は天にそう告げた。天は少しだけ面白くなさそうな顔をしたが、「わかった」と頷く。
すると陸が横から「オレ、そこまで子供じゃないんだけど」と口を挟んだ。
「こんな状況を生み出しておいて何を言ってるの」
「まったくです。少しは自覚してください」
天に同調して頷くと、陸はう、と言葉に詰まる。一織と天はそんな陸を見て小さく笑った。
「それじゃ行こうか、陸」
「あ……天にぃ、ちょっとだけ待って!」
陸はそう言うと一織の前に進み出た。
彼が身に着けているのは、一織が買い与えてあげたお気に入りの一着だ。
背中に背負ったリュックは、彼が好きなお菓子と本を山ほど詰め込んでやったのでぱんぱんに膨れ上がっている。陸は遠足に出かける子供のように嬉しそうにはしゃいでいたけれど、それがかえって悲しかった。
「……じゃあ、行くね」
一織の瞳を見つめて陸が言った。
「はい。そのお菓子、いっぺんに食べちゃ駄目ですよ」
「わかってるよ。もったいないから少しずつにする!」
まるで親子の会話だ。最後までこれかと思い苦笑すると、陸もふ、と笑った。
「本当にいろいろありがとう。一織と一緒に過ごせて、すごく楽しかったし、毎日が幸せだった」
微笑む彼の目が微かに揺らぐ。光る雫にはっとしたけれど、一織はそれに気付かないふりをした。
「さよならは言わない。あの約束、絶対に守るから」
「はい。私も守ると約束します」
一織の答えに陸は微笑み、もう一歩前に出た。
そしてわずかに顔を傾けると、一織の頬にちゅっとキスをする。挨拶のようなそのキスは、今までのどれよりも一織の心を締め付けた。
「ありがとう一織。ずっと、ずっと大好きだよ」
離れた唇の先で陸が言う。
切なさを押し殺したその声に思わず手を伸ばすと、陸の姿がぼやけて見えた。
「ッ、七瀬さん……! 私も――」
大好きです、と言うのと同時、陸の姿も、そして天の姿も一織の目の前から忽然と消え失せた。
声が届いたかはわからなかった。
しん、と静寂が落ちる。
一織はしばし呆然としていたが、やがてぐるりと部屋を見渡した。
この部屋は、こんなに広かっただろうか?
いつもは狭く感じていたのに、やけにがらんとして見える。
長い夢から覚めたかのような気分だった。
もしかしたら本当に、全部夢だったのではないか。
ついそんなことを考えて視線をさまよわせると、テーブルの上には二人分のマグカップが並んでいた。ひとつは自分の、そしてもうひとつは、初めて陸と買い物に行った日に彼が選んだカップだ。
しゃがみこんで真っ赤なそれを手に取ると、中に桜の花びらが一枚落ちている。
それを見た瞬間、目の奥がじんと熱くなった。
「七瀬さん……」
呟きは思いのほか大きく部屋に響く。
一織はふと、いつかのやりとりを思い出した。
――一織、どうしたの。元気のない顔して。
――あ……いえ、なんでもないです。
――嘘。何かあったって顔に書いてある!
――だからなんでもないですってば。
――よーし、オレが元気出させてあげる!
――ちょっと、やめてください!
陸にくすぐられ笑い転げて、結局あのときはどうして落ち込んでいたのかも覚えていない。
彼はいつもそうだった。
明るくて楽しくて、一織に元気がないときはいつも以上に笑顔をくれた。
もちろん楽しいことばかりではなく、時々は喧嘩もしたけれど、それもすべて愛しい思い出だ。
たとえようもなく、陸との生活は楽しかった。
でももう、彼はここにいない。
手の甲に残る、ひっかき傷が鈍く痛む。魔法の効果も、陸と共に消えてしまったのだろうか。
この部屋は彼が来る前に戻っただけなのに、一織は生まれて初めて、独りぼっちになってしまった気がした。
「七瀬さん……。……陸、さん」
下の名前で呼んでも、返事はかえってこなかった。
Epilogue
残業を終えて駆け込んだ最終電車。
最寄り駅に到着した頃には、既に日付は変わっていた。
三月の終わり。年度末ということもあって、繁忙期を迎えた仕事は今日でひと段落し、一織はようやく人心地がついていた。
明日は休日だ。改札を出てスマホを確認すると、数時間前に兄からラビチャが届いていた。
『久しぶり! 最近顔見せないけど、元気でやってるか? 母さんが寂しがってるから、今度の休みに帰ってこいよ。連絡待ってるな』
ウサギが飛び跳ねるスタンプと共に送られたメッセージに一織は小さく笑った。
返事をしようとしたが、この時間はもう寝ているだろうと思い直す。起こしては悪いので、明日にすることにした。
大学を卒業し、就職して二年が過ぎた。
大学時代から住むこの街から会社までの通勤時間は一時間。もっと近い場所に引っ越そうかとも思ったが、一織はこの街から離れられずにいた。
自炊する気力はなく、駅前のコンビニでサラダとお茶を買って帰路につく。今はまさにお花見の季節ということで、コンビニの棚には桜の関連商品がたくさん並んでいた。
そういえば、さっき電車の中で他の乗客がこの辺の桜もちょうど満開だと話していたのを思い出す。ここ 数日は仕事に追われて花見どころではなかったが、一織はふと思い立って、桜の木がある公園を通って帰ることにした。
満開の時期とはいえ、終電も過ぎた真夜中の公園はしんと静まり返っていた。外灯のおかげで明るいが、 さすがに人影はない。一織は公園の中央にある桜の木の方へ歩いた。
この公園の桜は、『奇跡の桜』と大仰な異名をもっている。
五年前に一度散った桜が、同じ季節にもう一度花を咲かせたという不思議な現象が起きたことから名付けられたのだが、その奇跡が起きたのはただの一度きり。今ではすっかり過去の名声となっている。
奇跡の桜は、大々的にライトアップされ満開の花を咲かせていた。
この光景を独り占めできるのはなかなか贅沢だなと思いつつ、一織は近くのベンチに腰かけた。
風がそよぐと、ひらひらと花びらが舞い踊る。
この季節が来るたび、一織はいつかの春を思い出した。
……あれからもう、五年が過ぎたのだ。
大抵のことは自分の力でなんとかしてきた一織にとって、ただ待つことしかできないというのは、考えていたよりも辛い時間だった。
魔法の世界からやってきた青年と一緒に暮らした一ヶ月半。
あの出来事は本当に現実だったのか。もしかしたら、ただの夢だったんじゃないかと何度も思った。
別れの前日、陸が歌ってくれたあの曲も、今はもうふんわりとしか思い出せない。
このまま記憶が薄れて、やがて忘れてしまうのかと思うとぞっとする。
けれど一織は、心の底から信じていた。
いつかきっと、陸は自分に会いに来てくれる。
それが何年後かはわからない。
もしかしたら、あと何十年も先かもしれない。生きているうちに叶うかどうかもわからないけれど。
「――一織」
そのときはきっと、軽やかな声で名前を呼んで、とびきりの笑顔を見せてくれるに違いない。
「一織?」
そう、例えばこんな風に。
「一織ってば! 聞こえてないの?」
「……は?」
思わずぽかんとしたのは、現実と妄想の区別がつかなかったせいだ。突然目の前に現れた人物の姿に、一織は大きく目を見開いた。
「え……」
嘘だ、と思った。
そんなはずがない。彼がここにいるはずが――。
自分はまた、夢を見ているのかもしれない。彼に会いたいあまり、幻覚を見ているのかも。
最近休みもなく働き詰めだったから、疲れが溜まっているのだろうか。
そんなことを思って茫然としていると、目の前の陸はもう一度「一織!」と名前を呼んだ。一織ははっと我に返り、目の前の彼をじっと見つめた。
「……ななせ、さん……?」
「もう。何ぼんやりしてるんだよ。……久しぶり」
満開の桜の下、照れた顔ではにかむ陸がそこにいた。
記憶の中の彼より幾分大人びているが間違いなく彼だ。
「一織、大人っぽくなったね。恰好良すぎて、最初人違いかと思っちゃった」
わずかに頬を赤らめ、陸はそんなことを言う。その表情は昔見た彼のそれと変わりない。
――夢じゃない。目の前に陸がいる。
そう認識すると同時に、一織は弾かれるようにベンチを立った。ほとんど反射的に腕を伸ばし抱きしめると、陸の体は一織の腕の中にすっぽり収まる。
五年前はほとんど変わらなかったのに、今は一織の方が背が高い。
けれど抱きしめる感覚はあの頃と同じで、一織は陸に回した腕に力を込めた。
「本当に……? 本当にあなたなんですか」
みっともなく声が震えてしまう。陸の体はあたたかく、その肩口に顔を埋めると懐かしい香りがした。
「うん。オレだよ、一織」
背中に陸の手が回る。同じようにぎゅっと抱きしめられて胸が震えた。
「オレ、約束守ったよ。もう一度一織に会うために、一生懸命勉強したんだ」
ちょっと時間かかっちゃったけど、と肩口で笑う陸に、一織はそっと顔を上げた。
「これ……夢じゃないですよね?」
「夢じゃないよ。オレ、ちゃんとここにいるだろ?」
一織の背をぽんぽんと叩いて陸が答える。
それは自分たちが初めて会ったときの会話に似ていて、一織は思わず目を細めた。
話したいことはたくさんあった。聞きたいことはそれ以上にある。それなのに、そのどれもが声にならない。
何も言えずに見つめていると、陸がふわりと微笑んだ。
「一織」
あたたかいその声に、とくんと鼓動が跳ねる。
ただ名前を呼ばれただけ。それなのに、泣いてしまいそうになった。
「七瀬さん……」
「違うだろ」
「え?」
「七瀬さん、じゃなくて!」
むう、と膨れ面をする陸に戸惑ったのは数秒。
一織はすぐに、ああと理解した。
「陸さん」
名前を呼ぶと、えへへと陸が笑う。
その笑顔は五年前と少しも変わらず、一織はもう一度彼を強く抱きしめた。加減なんてできるはずがなかった。
「ん、ま、待って一織! 苦しいよ……!」
「あ……、す、すみません!」
慌てて力を緩めると、陸はほっと息を吐く。
それから一織の顔を見つめ、「何か忘れてない?」と笑った。
「え……」
またも何のことかわからない。ぽかんとする一織に、陸は瞼を閉じてみせる。
その姿は、一緒に暮らしていたあの頃の彼を一織に思い起こさせた。
いつもこうしてキスをねだる彼に、自分は必死に何でもない顔をして応えていたのだ。
今になって思えば、自分の気持ちに気付かない振りをしたまま、よくも一日三回のキスをこなせていたものだ。当時の自分を思いやって、一織はゆるゆると息を吐いた。
今はもう、隠す必要はどこにもない。
一織は手を伸ばし、陸の丸みを帯びた頬に手を宛てた。
手のひらから伝わる温度が愛おしい。顔を傾け、薄く開いた彼のそれにそっと唇を重ねる。
「……ん」
五年ぶりのキスは、初めてのときのようにぎこちなく、震えていた。
震えているのが自分なのか、それとも陸なのかもわからない。
けれどその柔らかさに、その温もりに、溜め込んでいた想いが堰を切って溢れ出すのがわかる。一織は怖くなって、すぐに唇を離した。
「七瀬さん」
唇の先で名前を呼ぶと、陸は瞼を上げた。
またつい七瀬さん、と呼んでしまったが、彼は咎めなかった。長い睫毛に覆われた真っ赤な瞳と、まっすぐに視線が交差する。
「あなたが好きです」
頭で考えるより早く、口をついて出たのはそんな単純な言葉だった。
五年前からずっと、その気持ちは変わっていない。
見つめる先で、陸は頬をわずかに染めながら「オレも」と微笑んだ。
「大好きだよ、一織」
知っています。
あなたが最後に伝えてくれたその言葉が、この五年間私をずっと支えてくれていたんですから。
そう返事をする代わりに、一織はもう一度陸を強く抱きしめた。密着した体から伝わる彼の鼓動が、どうしようもなく愛おしい。
「七瀬さん」
熱のこもった声で囁くと、陸は「なに?」と優しく答えを返してくれる。それだけのことがたまらなく幸せで、一織はもう一度、今度は「陸さん」と名前で呼んだ。
陸は一瞬驚いた顔になったけれど、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせる。それからふふ、と笑って、「せっかく恰好いい大人になったのに、ちっちゃい子みたいだよ」と一織をからかった。
誰のせいだと思ったが、一織にはそれよりも伝えたいことがあった。
無言で見つめると、陸は笑うのをやめてこちらを見つめ返す。一織は短く息を吐き、胸に浮かんだそれを口にした。
「もう二度と離しません。ずっと一緒にいてください」
まるでプロポーズのようだと、声にしてから気が付いた。
それでもそれは、一織の真剣な気持ちだった。
陸は一瞬泣きそうな顔になったが、すぐにふわっと微笑んでくれる。そして一織にぎゅっと抱き着き、小さく囁いた。
「いいよ。その代わり、オレも一生離してあげないからな」
覚悟して、と続ける陸を、一織は強く抱きしめた。
覚悟なんて、とうの昔にできている。
「はい」
返事をすると、さあっと風が吹いて桜の花びらが一斉に宙を舞った。
それこそ魔法を使ったかのような光景に、陸はわあ、とはしゃいだ声をあげる。
「すごい! また一緒に見られたね」
嬉しそうに、幸せそうに笑って陸が言う。
その姿に胸いっぱいに愛しさが膨れ上がって、一織は思わず目を細めた。
「一織?」
どうしたのというように陸が名前を呼ぶ。
一織は何も言わず顔を近付け、もう一度そっと、陸の唇にキスをした。
――三つ目の願いが、今ようやく叶った。