Kiss you,Kiss me,Magic 2

 雨は大分弱まっていたが、空はどんよりと曇っている。
 つられて気分も沈みそうになるが、隣の陸は悪天候などお構いなしに楽しそうだ。ビニール傘を手に、飛び跳ねるように歩いている。
「見て一織! こんなところに綺麗な花が咲いてる! 小さくてかわいいね!」
「七瀬さん、ちゃんと前を向いて歩いてください」
「あ、あっちにも!」
「あなた、人の話聞いてますか……って、ほら! 看板にぶつかりますよ!」
「大丈夫!」
「……はあ……」
 陸は興味津々といった様子で、きょろきょろと周囲を見渡しながら歩いている。
「あなた、この世界に来たのは初めてなんですか?」
「うん。こっちの世界に来られるのは、ごく一部の人だけなんだ。行き来するには国家資格が必要だから」
「こっ……国家資格……?」
 いったいどんな資格だと、一織は目を丸くした。
「合格するのは年に一人いるかいないかのすごく難しい試験なんだよ。みんなが憧れる資格だけど、普通は滅多に取れなくて……。あ、でもオレの兄さんは、二年前に史上最年少で取ったんだけど!」
 すごいだろ!と自慢されて、一織は「はあ……」と相槌を打った。
「仮の話ですけど、例えば私が七瀬さんの住んでいた世界に行くことは可能なんですか?」
「うーん……。それは多分、無理だと思う。オレたちが行き来できるのは魔法の力があるおかげだから。こっちの世界の人が、オレたちの世界に来たって話も聞いたことないし」
「なるほど。そうですか……」
 つまり二つの世界を行き来できるのは、魔法の世界の限られた者だけということか。なんだか理不尽だ。
 つい考え込んでいると、陸はいつの間にか散歩中の犬の前に座り込んで飼い主と楽しそうに話し込んでいる。一織は慌てて「行きますよ」と襟首を引っ張った。
 もし今このタイミングで子猫になったら、どうするつもりなんだこの人は。
「七瀬さんって、初めて来たわりにはこちらの世界に随分馴染んでますよね……」
「そう? 学校で勉強してたおかげかな?」
 別に褒めていないのに、陸は嬉しそうに笑う。勉強、というワードに一織は興味を惹かれた。
「あなたたちの学校では、こちらの世界についての授業があるんですか?」
「うん。本で読んだり、実際に行った人から話を聞いたり、いろいろ勉強したよ。オレもできたら資格を取って、いつかは来てみたいって夢見てたんだ。まさかこんな形で来ることになるなんて思わなかったけど……。こうして実際に来てみたら、初めて見るものばっかりだから面白い!」
 陸はそう言って朗らかに笑う。
 その言葉通り、自分だったら見過ごすようなものにいちいち感嘆して足を止めるものだから、おかげでいつもは徒歩十分のスーパーにたどり着くまで倍の時間がかかった。
 店に入るとさらに大興奮。陸のいた世界には、こういう店は存在しないらしい。
「オレ、こんなに広くていっぱい物が売ってるお店初めて!」
「大きな声を出さないで。目立ちます」
「だってすごいんだもん! わあ、あっちにはなにがあるんだろう?」
「待ってください、走らないで……!」
 一織の話も聞かず、陸はさっさと先に行ってしまう。
 まるで小さな子供を持つ親の気分だ。一瞬たりとも目が離せない。
「まったく……」
 連れてきたのを若干後悔しながら、一織ははあっとため息を吐いた。



「楽しかったー!」
「でしょうね……」
「また来たい!」
「もう当分連れてきません」
「えー。なんでだよ」
 帰り際、イートインで買ったソフトクリームを舐めながら陸は口を尖らす。
 結局、必要な日用品と食料を買うのに二時間もかかった。スーパーにこんなに長居したのは初めてだ。
 温かいカフェラテにほっと一息つきながら、一織は幸せそうにソフトクリームを舐める陸を見つめた。
 本人は気付いていないようだが、お約束のように鼻の頭にクリームがついている。ため息を吐いて紙ナプキンで拭ってやると、陸は「ん」と目を瞑った。
 この男、本当に十八歳なのだろうか?
 そのままじっと見つめていると、陸はふわっと微笑んだ。
「一織も食べたくなった?」
 そう言って食べかけのソフトクリームを差し出してくる。一織はかあっと顔を赤らめ、「結構です!」と断った。
 外に出ると雨はようやくやんでいた。雲の合間から眩しい光が差し込んでいる。大分買い込んだので、傘をささずにすむのはありがたかった。
 買い込んだ荷物を分け合い、並んで帰り道を歩く。
 なんとなく来た道とは違うルートを歩いていると、公園の横を通り掛かった。
「一織、ここはなんの広場?」
「公園です」
「公園かあ! 寄っていい?」
「え……、あ、ちょっと!」
 いいなんて言っていないのに、陸は勝手に公園に入っていく。
「なんなんですか、もう……」
 この数時間ではっきりしたことがある。
 陸はふわふわしているように見えるが、その実マイペースで強引だ。これから彼と一緒に暮らすなんて、本当に大丈夫だろうか。
 一織はため息を吐きつつ、陸の後を追った。
 住宅街のすぐ傍にあるこの公園は、背の高いもみの木とクヌギの木に囲まれている。天気のいい日は鳥のさえずりが響く静かな公園だ。
 ベンチや遊具も多く設置されており、普段は学生や休み時間のサラリーマン、小さな子供の姿も目立つ場所だ。今日はさっきまで雨が降っていたせいか、珍しく誰も居なかった。
 陸は周囲を見渡しながらゆっくりと歩いている。すぐに追いついて「七瀬さん!」と声をかけると、彼はようやく足を止めた。
「ここ、オレの住んでたところに似てる!」
「え……。この公園がですか?」
「うん。オレが住んでた街も、こんな感じにいっぱいの緑に囲まれた場所なんだ。一年中いろんな花が咲いて、すごく綺麗なんだよ」
「……そうですか」
 魔法の世界と言われて想像するのは、絵本や映画で見る西洋ファンタジーの世界だ。陸の話す世界がそれと同じかはわからないが、さぞ美しい場所なんだろうと一織は思った。
「あそこにある木、すごく大きいね。何の木なんだろう」
 ふと、陸が言った。彼の視線を追って、一織はああと口を開いた。
「あれは桜の木です。樹齢百年だそうですよ」
「さくら?」
 陸は不思議そうにこちらを見る。彼のいた世界には、桜の木はないのだろうか。
「一年に一度、薄紅色の花を咲かせる木です。とても綺麗な花が咲くんですよ」
「へえ! いつ頃咲くの? オレも見てみたい!」
「残念ですが、一ヶ月ほど前に散ったばかりです。次に見られるのは一年後ですね」
「一年後……」
 残念そうに眉を下げる陸に、一織は苦笑した。彼が満開の桜の木を見たら、きっと大はしゃぎしたに違いない。
(見せてあげたかった)
 そう思うと同時、「見たかったな」と陸が言った。そのとき、一織ははっとした。
「七瀬さん」
「なに?」
「一つ目の願い、決まりました」
「えっ?」
 突然の一織の言葉に、陸は驚いた顔で目を瞠る。一織はふっと笑った。
「この桜の木を、もう一度満開にしてください」
「え……でもそれって、またオレの願いだろ?」
「違いますよ。私も桜の花が好きなんです」
 嘘ではなかった。
 陸の願いを叶えたいというよりむしろ、満開の桜の花を陸に見せてあげたいという自分の願いだ。それを見た陸がどんな顔をするのか無性に見てみたくなったのだ。
「わかった。じゃあ、やってみる!」
 陸は笑顔で頷くと、持っていた買い物袋を芝生の上に置いた。
 桜の木の前に進み、瞼を閉じる。
彼が小さな呪文を唱えると、さあっと優しい風が吹いた、その次の瞬間――。
「あ……!」
 二人の目の前で、ピンクの花弁がまるで踊るように一斉に宙に舞う。一織は息を呑んだ。
 ――陸の魔法は、本物だったのだ。
 ひと月前散ったばかりの桜の木は今、大きく広がった枝いっぱいに花を咲かせている。
「わぁ……! すごい! すごいね一織!」
 満面の笑みを浮かべて陸がこちらを見る。すごいのはあなたの方ですと思いながら、予想した通りの反応を見せる彼に一織は思わず笑った。
「すごくきれい……」
 陸の呟きに視線を戻す。満開の木を真下から見上げると、まるで薄紅色の雪の中にいるかのようだ。
 ひらひらと舞い落ちてくる花びらへ手を伸ばせば、それは指の隙間をすり抜けていく。
 そのときふと、隣の陸が何かを口ずさんだ。初めて耳にする旋律とその声に、一織は思わず目を瞠った。
(え……)
 陸の歌は、それこそが魔法のようだった。凛としていながら優しく心に響く、きらきらとした歌声。
 まさに今目の前で咲き誇っている桜の歌声を聴いたような、そんな錯覚に陥った。舞い落ちる花びらさえも、彼の歌に合わせてダンスしているみたいだ。
 ふと気付くと、どこからともなく現れた小鳥が三羽、陸を取り囲み一緒に囀っていた。
 驚いていると今度は蝶が、それから蜜蜂までもが陸の歌声に導かれたかのように集まってきた。
 それに気付いた陸は嬉しそうに微笑んで両手を広げる。彼の歌に合わせて小鳥は囀り、蝶と蜜蜂が花びらと共に舞う。優しく吹き抜ける風さえも、陸の歌声に合わせて踊っているようだ。
 それはまるで、ファンタジー映画のワンシーンのようだった。
 ……優しい夢を、見ているような。
 しばし彼の歌声に聞き惚れていた一織は、ふと後方から聞こえてきた「嘘!」「桜が咲いてる!」という声にはっとした。
 通行人が満開の桜に気付いたのだろう。大きな声をあげながらこちらに近付いてくる人たちの気配に、一織は慌てて買い物袋を手に取った。
「七瀬さん、行きましょう」
「え、もう?」
 まだ見ていたいというように陸が言う。正直自分も同じ気持ちだったが、一織はええと頷いた。
「ここにいたらまずいです」
 一ヶ月前に散った桜が再び満開になるなんて話、聞いたこともない。これはきっと大騒ぎになってしまうだろう。
 考えが足りなかったことを悔やみつつ、一織は「行きますよ!」と陸をせかして足早に反対側の出口に向かった。
「桜の花、すごく綺麗だった! ありがとう一織!」
「お礼を言うのは私の方ですよ。あなた、本当に魔法が使えたんですね」
 歩きながら感心して言うと、陸はふふっと笑った。
「なんだよ、信じてなかったの?」
「正直、半信半疑でした」
「もー」
「本当にすごいです。それに……」
「それに?」
 どうしようもなく、胸がどきどきしている。
 それは彼の魔法を目の当たりにしたせいだけではない。
「七瀬さん、とっても歌がお上手なんですね。正直、感動しました」
 少し気恥ずかしかったが、素直な感想を口にすると、陸は照れたようにかあっと赤くなった。
「ほんと?」
「ええ」
「ありがとう! オレ、歌うの大好きなんだ!」
 くすぐったく笑う彼の赤い髪に桜の花びらがひとつ乗っているのを見つけ、一織も小さく笑った。
「あの歌詞は、あなたの国の言葉ですか?」
「うん。離れた場所にいる大切な人を想って歌う歌なんだよ」
 離れた場所にいる大切な人を想って歌う歌――。
 なら彼は、家族を想って歌ったのだろうか。
 そう思ったら、少しだけ胸が痛んだ。
「これでひとつめの願いはクリアしましたね。魔法の力は強くなりましたか?」
「うん! だいぶ戻った気がする!」
 陸はそう言うと、一織の顔を覗き込んで笑った。
「残りふたつ、大切に使うんだぞ」
「はい」
 頷きながら一織はふと足を止めた。
 雨上がりの空を見上げ、大きく目を見開く。
「七瀬さん、あれ……!」
「うん?」
「あれも魔法が関係しているんでしょうか?」
 思わずそう訊ねてしまったのは、目の前の抜けるような青空に、今まで見たこともない大きな虹が空にかかっていたからだ。
「わあ……! 虹だ! おっきい!」
 一織の視線を追った陸も、驚いたように目を丸くする。
 どうやら魔法は関係なかったらしい。
「こんなに大きな虹を見たのは初めてです」
「オレも! オレたちラッキーだね!」
 嬉しそうに弾んだ声を上げる陸に、一織は「そうですね」と笑った。




2



 その日一織が家庭教師のアルバイトを終えて部屋に帰ると、午後九時を回っていた。
 いつもより遅くなったなと思いながら玄関のドアを開けると、ぱたぱたと足音を立てて陸が駆け寄ってくる。
「おかえり一織!」
「ただいま帰りました」
 飛びつかんばかりの勢いでやってきた陸に微笑んで、彼の頬に手を伸ばす。わずかに傾けて顔を寄せ、ふわりと唇を重ねた。
「ん……」
 鼻にかかった甘い声が陸から零れる。
 どきんと跳ねる鼓動に気付かない振りをして、一織は彼の唇をやわく食んだ。
 陸がここにやってきてあっという間にひと月が過ぎた。
 あれから何度か願いを口にしているが、『心からの願い』という基準がクリアできないのか、現状はひとつも変わっていない。
 少しでも早く陸を元の世界に帰してあげたいと思うのに、思えば思うほど自分の本当の願いがわからなくなる。
 気持ちは焦るばかりで、願いごとが失敗するたびに一織は落ち込んだ。「次はきっと大丈夫だよ」と陸から励まされる始末だ。
 その一方で、陸との生活は上手くいっていた。
 一織が大学に行っている間、陸は洗濯や掃除を引き受けてくれている。買い物も一人でできるようになったが、不必要に外には出ないようにという言いつけを守り、たいていはひとりこの部屋で過ごしているようだ。
 最初はテレビ番組に夢中になっていたが(彼の世界にはないらしい)、最近ではタブレットの使い方を覚えて、様々な動画を見てこの世界のことを勉強しているようだ。
 ずっと引きこもっていては息がつまるだろうと、休みの日は連れ立って外に出かけるようにした。
 近所を散歩したり、図書館に行ったり。その程度の外出でも陸はいつも楽しそうで、一織はそんな彼を見るのが好きだった。
 彼の周りにはいつも、笑顔の花が咲いている。
 一緒にいると、自分も自然に笑顔が増えて気持ちが安らぐのを一織は感じていた。
 元の世界に帰してあげたいと思う気持ちは嘘じゃない。けれどそれと同じくらい――もしかしたらそれ以上に、この時間が続けばいいのにと思ってしまう自分も存在していた。
「……ん」
 重ねた唇から、じわりと熱が生まれる。
 一つ目の願いを叶えたことで陸の魔法の力は強くなったらしいが、呪いを跳ね返す力はそれとは別のようだ。相変わらずふとした拍子に子猫になってしまうので、それを未然に防ぐため、一織は一日三回陸とキスするようになった。

 一回目は、朝起きたとき。
 二回目は、帰宅したとき。
 三回目は、夜眠りにつく前。

 最初は出かける前と帰宅時の二回だったが、一度寝ている間に子猫になっていた陸をつぶしてしまいそうになり、寝る前のキスが追加された。
 そもそも一人で寝てくれれば問題ないのだが、客用の布団を敷いているというのに陸はいつも一織のベッドに入ってきた。ベッドがいいのかと思って逆にしたら、今度は布団に入ってくる始末だ。
 18歳にもなって一人で眠れないのかと問い質すと、元の世界ではいつも双子の兄と一緒に寝ていたのだと陸は言った。そのせいで、無意識のうちに人肌が恋しくなってしまうのかもと。
 家族と離れ、一人ぼっちで異世界に来た寂しさもあるのかもしれない。
 そう思って、一織は別々に寝るのを諦めた。
 一日三回のキスを毎日繰り返していれば、さすがに行為自体に慣れてくる。初めのうちはひたすら緊張しぎこちなく触れることしかできなかったが、最近は何でもないことのようにこなせるまでになっていた。
 もっとも、それはあくまで表面上のことだったけれど。
 唇が離れると、陸はふわりと微笑んで一織の腕をぎゅっと掴んだ。
「ご飯作っておいたよ!」
 褒めてくれと言わんばかりの顔だ。一織は小さく笑いながら「何を作ったんですか」と訊ねた。
「オムライス!」
 その返答に「またですか」と心の中でため息を吐く。
 ここ最近陸は、魔法を使わず料理する方法を覚え、それが楽しくて仕方ないようだった。
 一織が不在の間も、ネットの料理動画をお手本にいろいろと試しているようだ。それなりにおいしい料理を作って一織を驚かせたこともある。
 しかし彼は、思った以上に不器用だった。
 手先の器用さを要求される料理は苦手なようで、大好きなオムライスを作ると豪語して、最初に出来上がったのは殻入り卵の焦げ風味ケチャップライス添えだ。
 本人も落ち込んでいたが、それを全部食べた一織の方もしばらく落ち込んだ。
 それから二日と空けず、陸はオムライス作りに挑戦している。しかし成果は五十歩百歩。いまだにオムライスと呼べるものを食べられた試しはない。このままではトラウマになってしまいそうだ。
「今日は上手くできたと思う!」
「はあ……。本当だといいですけど」
「ほんとだってば!」
 軽口を叩き合いながら手を洗って部屋に入ると、テーブルの上にはオムライスとサラダ、それにスープが用意されていた。
 上着を脱いでテーブルに着くと、向かいに座った陸は期待に瞳をきらきらさせてこちらを見た。
 黄色い卵焼きの上にケチャップで『いおり』と書かれているそれは、なるほどきちんとオムライスに見える。少し破れて中のチキンライスが見えているが、焦げてはいないことに正直感動した。
「綺麗にできていますね」
「だろ!? 今日は卵もうまく割れたんだ! 殻も入ってないよ!」
 それは威張るところだろうか。そう思いながらも嬉しそうな陸に微笑んで、一織はスプーンを取った。
「いただきます」
「どうぞ!」
 一口食べて陸を見る。
 こちらの反応を伺っている顔は不安と期待が入り混じっていて、思わず返事を焦らしたくなった。
「ねえ、どう? おいしい?」
 何も言わない一織に焦れて、陸が身を乗り出す。
 意地悪するのをやめて「おいしいです」と答えると、陸はぱあっと破顔した。
「やったー!」
 よほど嬉しいのか、万歳をするように両手を突き上げている。一織はふっと笑った。
「そんなに喜ぶことですか」
「だって初めて成功したんだもん! 一織においしいって言ってほしくて一生懸命頑張ったんだよ。卵で包むの、すごく難しかった。だからめちゃくちゃ嬉しい!」
 素直な陸の言葉に一織はそっと微笑んだ。
 お世辞ではなく、本当に美味しいと思った。ごく普通のオムライスと言ってしまえばそれまでだけれど、今までの失敗作と比べたら雲泥の差だ。
「よくできましたね」
 褒めてやると、陸はえへへ、とくすぐったく笑う。
 そうして一織はふと、陸の前にサラダとスープしかないことに気付いた。
「あなたはもう食べたんですか?」
「オレは後で食べるから、気にしないで」
「どうして一緒に食べないんです。食欲がないんですか?」
 具合でも悪いのかと心配になって訊ねると、陸は気まずそうに俯き、ぽつりと言った。
「上手にできたの、それだけだったから」
「え?」
「だから……オレのは、ぐちゃぐちゃになっちゃったの!」
「なんだ……」
「なんだってなんだよ!」
 失敗作は見せたくなくて隠していたなんて彼らしい。一織は小さく笑った。
「笑わなくてもいいだろ!」
 陸はかあっと頬を赤らめる。一織は「すみません」と言って、オムライスの乗った皿を彼の方に寄せた。
「一織?」
「これは半分ずつにしましょう。失敗した分も分け合えばちょうどいいでしょう?」
「えっ……」
「せっかく美味しくできたんです。次回に活かせるよう、ご自分でもちゃんと味わってください」
 そう告げると、陸はとびきりの笑顔で、うん!と頷く。
 ――次回。
 自らの言葉が、少しだけ胸に引っかかる。自分たちはいったいいつまで、こんな時間を過ごせるのだろう?
 一織はぼんやりと、そんなことを考えた。



『お前今日、家庭教師の日だっけ?』
 陸が一織のもとへやってきて、一ヶ月半が経ったある日のことだった。
 夕方大学の授業を終えてスマートフォンを確認すると、三十分前に兄の三月からラビチャが届いていた。
『返信が遅くなってすみません。今授業が終わったところです。今日バイトはありませんが、どうかしましたか?』
 返事を送ってすぐ既読がついた。
『よかった! オレ今日休みでさ、一緒に遊んでた友達と別れたとこなんだけど、一織のマンションのすぐ近くなんだ。せっかくだからお前の顔見て行こうと思って。ついでに夕飯作ってやるよ。今から行くな!』
 兄からの返信にふ、と頬が緩んだのは一瞬。
 一織ははっと我に返った。
 部屋には陸がいるのだ。鉢合わせになっては困る。非常に残念だが、今日は都合が悪いと言って帰ってもらうしかない。
 そう思って三月に電話をかけたが、兄の電話はどういうわけか圏外だった。
(え?)
 たった今ラビチャしたばかりなのにどうしてだろう。
 ラビチャにもメッセージを送ったが、それも既読にならない。一織は急いで大学を飛び出した。
(まずい……!)
 兄にはいつでも来てくださいとスペアキーを渡してあるのだ。店が忙しいこともあり、これまで来たことはなかったが、まさか今このタイミングで実現することになろうとは。
 何度も電話をかけるが繋がらない。
 どうか自分より先に部屋につきませんようにと願いながら、一織は帰路を急いだ。



「おかえり一織!」
「おかえりー」
 願いはむなしく、マンションに帰った一織は三月と陸の二人に揃って出迎えられた。
 こうなることもシミュレーションしながら帰ってきたが、いざ目の当たりにすると言葉が出てこない。
「お前なあ、友達が泊まりに来てるなら先に言えよ。部屋に入ったら知らない奴がいるなんて、びっくりしたじゃんか」
 呆れ顔でそう告げる三月に、一織は思わず陸を見た。目が合うと、陸はにこっと笑ってみせる。
 ――よかった、うまく誤魔化してくれたようだ。
 陸のことだから馬鹿正直に全部話してしまうかもしれないと心配していた一織は、ほっと胸を撫で下ろした。
「兄さんこそどうしたんですか。あの後すぐ電話したのに繋がらなかったんですよ」
「え?」
 一織の言葉にすぐさまスマホを確認した三月は「あ、電源切れてる」と呟いた。
「悪い一織! 無意識に切っちゃってたみたいだ!」
 顔の前で両手を合わせる兄に、一織ははあ、とため息を吐いた。
 そんなことだろうと思った。
「オレもいきなり玄関が開いたからびっくりした! 最初泥棒が入ってきたのかと思ったよ」
「失礼な人ですね」
 よりにもよって人の兄を泥棒扱いとは。眉を顰める一織に、三月は「そうだそうだ」と同意した。
「ほんとこいつ、失礼な奴だよ。オレ見て最初になんて言ったと思う? 真面目な顔して、『ボク、迷子?』だぞ。ある意味泥棒と間違えるより失礼だろ」
「だからそれはごめんってば」
「笑いながら言うな!」
 三月に叱られて陸はますます楽しそうに笑う。
 兄は一織の四つ上の成人男性だが、小柄な体格と童顔のせいで昔から幼く見られる。二人並んで兄弟だと言うと、必ずと言っていいほど一織が兄に間違えられるほどだ。
(だからって、迷子はないでしょう)
 そのときの状況がありありと目に浮かぶ。一織は小さくため息を吐いた。
 ――それにしても。
「お二人、ずいぶん打ち解けていますね」
 三月がここに来て、さほど時間は過ぎていないはずだ。
 それなのに陸と三月の間には、まるで以前からの友達のような空気が漂っている。
「そう? さっき会ったばっかだけどな」
「随分と親しそうに見えますよ」
「だってこいつ、人懐っこくてかわいいんだもん」
 三月はそう言うと、陸の頭をわしゃわしゃと撫でた。陸はくすぐったそうに身をよじりながら「三月の方がかわいいよ」と笑う。
「だろー? って、嬉しくねーよ!」
 三月のノリツッコミに陸は声をあげて笑った。
 まったく妙なことになったなと思いながら、一織もつられて笑みを浮かべた。すると三月は、にやにやしながらこちらを見る。意味ありげなその笑みに、一織は「なんですか」と訊ねた。
「べっつにー」
 そう答えながらも、三月はどこか嬉しそうだ。そして首をかしげる一織をよそに、彼は立ち上がって宣言した。
「今日は腕によりをかけて、うまいもん作ってやるからな。二人ともいっぱい食えよ!」
「やったー!」
「私も手伝います」
 そう言って自分もキッチンに向かおうとすると「一織」と陸に袖を掴まれた。「なんですか」と振り返れば、その瞬間目の前に影が落ちる。
「は――……」
むに、と押し当てられた唇に、一織は目を見開いた。
 一秒にも満たないような、短いキス。
「忘れてただろ」
 唇をわずかに離し、どこか拗ねた顔で陸が言う。
 確かに今日はいつものキスを忘れていた。それどころではなかったのだから仕方ないだろうと思ったが、そんな顔をされたら何も言えなくなってしまう。
(七瀬さん……)
 なぜだろう。
 どうしようもなく、かわいいと思った。
 目をそらすことができず見つめると、陸もじっとこちらを見つめ返す。
 どきん、どきんと心臓が飛び跳ね、一織はほとんど無意識に陸の肩を掴んだ。
「……っ」
 びく、と陸が震える。その瞳が揺らぐのを至近距離に見つめながら、そっと顔を近付けたそのとき。
「一織ー! 引っ越しのとき、圧力鍋持ってきたよなー?」
 ふいにキッチンから聞こえてきた三月の声に、一織ははっとして手を離した。
「……っ、あ……」
 自分はいったい、何をしているんだ?
 すぐそこに兄がいるのに、陸にキスしようとするなんて、自分で自分が信じられない。
 呆然と見つめる先で、陸の顔がかあっと赤らむ。つられて自分の顔も熱くなるのを感じ、一織は陸から顔を背けた。
「すみません……」
「あ……ううん」
 何を謝っているのか自分でもよくわからない。陸もおそらくわかっていないだろう。
 気まずいような、くすぐったいような空気が二人を包んだ。再び視線が絡んで、息が止まる。
「…………あの」
 二人ほとんど同時に口を開いて声が重なった。
 一織も陸もぽかんとしたが、それは一瞬だ。
 思わずふっと笑うと、陸もあははと笑う。笑うところではないと思うのになんだか妙におかしかった。
「お前ら、なにやってんの?」
 キッチンから顔を覗かせた三月が、訝しげにこちらを見る。
 一織は慌てて「なんでもありません」と顔を引き締めた。



 ほんの一時間ほどで、テーブルの上にはハンバーグ、トマトとモッツァレラのカプレーゼ、ミネストローネ、一口サイズのじゃがいもコロッケが並んだ。調理師免許をもつ三月の料理は見た目も抜群、味も絶品だ。
「すっごくおいしい! オレ、こんなにおいしいハンバーグ生まれて初めて食べた。三月、天才だよ……!」
 ハンバーグを一口食べて陸は瞳を輝かせる。
 誇らしくなって「そうでしょう」と一織が答えると、「お前が言うな」と三月に肘で小突かれた。
「へへ、ありがとな! そこまで褒めてもらえると照れるけど嬉しいよ」
「ねえこれ、どうやって作るの? オレにもできるかな?」
 陸は興味津々といった様子で三月からレシピを聞き出している。まさか次は、これに挑戦するつもりだろうか?
 どうか無茶だけはしないでほしいと思いながら久しぶりの兄の手料理を味わっていると、突然陸が「ねえ三月、一織はどういう子供だったの?」と話を切り出した。
「はっ……?」
 いきなり何を言い出すんだと固まる一織の横で、陸は口を尖らせた。
「一織いっつもオレのこと子供扱いするんだよ。オレの方が年上なのに。だからオレも、一織のこと子供扱いしたい!」
「あなた馬鹿ですか? 子供の頃の話を聞いて子供扱いしても何の意味もないでしょう」
「意味なくないよ! あとバカっていうな!」
 二人のやり取りに、三月はぷっと吹き出すと、にこやかに昔話を始めた。
「一織は昔からかわいかったよ。ちっちゃい頃は何をするにもオレの真似して、ほんとかわいかったなあ……。オレが学校行きだしたころは、自分も一緒に行くって毎日大泣きして大変だった。オレが家出る前に、靴履いて玄関先で待ってんの」
「うわあ……。一織、かわいい……!」
「かわいいだろー」
「や、やめてください……!」
 いくら幼少期の話といっても目の前で聞くのは恥ずかしい。
 眉を寄せると、三月は「照れるなよー」と笑う。
 そんな二人を見て、陸がふふ、と笑った。
「二人とも、本当に仲がいいんだね」
「まあな。陸は一人っ子?」
「ううん。双子の兄さんがいるよ」
「へー。双子ってことは、やっぱりすげえ似てたりするの?」
「うーん、そんなには似てないかも。オレと兄さんは二卵性だから」
「そっか。でも双子って、なんかかっこいいよな」
 三月の言葉に陸はえへへと笑う。
 誇らしげな彼の瞳に少しだけ寂しげな色が混じっていることに気付いて、一織は黙り込んだ。



「じゃあオレ、そろそろ帰るな」
 食事の後片付けを終えると、三月はそう言って席を立った。
「もう帰っちゃうの? せっかく来たんだし、もう少しいたらいいのに」
 陸が残念そうに声をあげる。相当三月が気に入ったようだ。
「兄さんは店の仕込みがあるので朝が早いんですよ」
 一織は三月に代わってそう説明した。
父と兄は毎朝七時には厨房に入っているのだ。
「そっか……じゃあ仕方ないね。お仕事頑張ってね、三月」
「おう! 陸、今度一織と一緒に店に来いよ。オレの作ったケーキ、腹いっぱい食わせてやるからさ」
「ほんと!?」
 跳ねるように声をあげる陸に、三月は一織と顔を見合わせて笑う。そして陸に向き直り、「一織のこと、よろしくな」と言った。
「うん。よろしくします!」
「はは、ほんとお前って面白いやつ。また会おうな。おやすみ!」
「おやすみ!」
「兄さん、下まで送ります」
「いいよいいよ。気にすんなって」
「いえ。送らせてください」
 一織が言うと、三月は仕方ないやつ、と笑った。
「よかったな、一織」
 一緒にエレベーターに乗り込むと、ふと三月が言った。
 何のことかわからず「え?」と訊ねれば、彼はこちらを見てにかっと笑う。
「陸のことだよ。お前に家に泊まりに来るような友達ができたなんて知らなかったぞ」
「あ……いえ、あの人は……」
 そういうんじゃないんです。
 彼は友達じゃない。そうじゃなくて――。
 言おうとしたけれど、言えなかった。
 三月には陸とは大学で知り合ったと説明したが、実際のところ自分と陸がどんな関係なのか、自分でもよくわからなかったからだ。
 口ごもると、三月は優しく「うん?」と顔を覗き込んでくる。一織は「なんでもありません」と答えた。 三月は何か言いたげな顔になったが、追及はしなかった。
 エレベーターはすぐに一階に到着した。
 並んでロビーに出ると、三月はぴたりと足を止め一織を見上げる。
「お前さ、昔から友達作るの苦手だっただろ? 優しいし、面倒見もいいのに、それをわかってくれる奴がいないこと、兄貴として歯がゆかったんだ。だから今日、お前と陸が仲良くしてるの見てすげえ嬉しくなった。一織のいいところ、ちゃんと見てくれてる奴がいるんだって」
「兄さん……」
 一織と目を合わせ、三月はふわっと笑った。
「お前、ちょっと雰囲気変わったよ」
「……そう、ですか?」
「うん。なんていうか、口当たりがやわらかくなって、甘さが増したって感じ?」
「人をリニューアルしたてのケーキのクリームみたいに言わないでください」
 眉を顰める一織に三月はあははと笑う。
「うまいこと言うなあ。でもほんと、変わったよ。いい感じ!」
 本当にどこか変わったのだろうか。自分ではよくわからない。
 神妙な顔をしていると、三月は優しく微笑んだ。
「あいつのこと、大事にしろよ」
「……はい」
 本当のことを言えない心苦しさはあったが、一織は素直に頷いた。三月はそんな一織を見て、満足そうに「よし!」と笑う。
「ここでいいよ。じゃあな。おやすみ一織」
「おやすみなさい。お気をつけて」
 ひらひらと手を振って三月は帰っていった。
 その姿が見えなくなるまで見送ってから部屋に戻ると、陸はぼんやりクッションを抱きしめて座っている。
 心細げなその姿が頼りなく思えて、一織が「七瀬さん」と声をかけると、彼ははっとしたように顔を上げた。
「三月、優しいお兄さんだね」
「ええ」
 寂し気な彼が気になって隣に腰を下ろす。すると陸は、一織を見つめふわっと笑った。
「三月といるときの一織、いつもよりかわいかったな。珍しい一織が見られて得した気分」
「なんですかそれ……」
 眉間に皺を寄せる一織を見て、陸はあははと笑う。
 いつもの笑顔だけれど、一織にはどこか空元気に見えた。
「七瀬さん」
 呼びかけると、陸は「なに?」とこちらを見る。一織は黙り込んだ。
(あなたも、お兄さんに会いたくなりましたか)
 思わず訊ねてしまいそうになる。
 ……そんなこと、聞かなくともわかっているのに。
「次の日曜、少し遠出しましょうか」
 少しの間を置いてそう言うと、陸は「え?」と目を丸くする。一織はコホンと咳払いし、なんでもない風を装い話を続けた。
「七瀬さん、前にテレビで見た動物園に行きたいと仰っていましたよね。そこにしましょう。それとも、他に行きたい場所はありますか」
「で……でも一織、人が多いところは駄目だって……」
「最近は猫になることも減りましたし、気を付けていれば大丈夫ですよ。それに七瀬さん、もうすぐお誕生日でしょう? 少し早いですが、誕生日のプレゼントだと思ってください」
 本当はあまり人目に触れさせたくない。
 頻度は減っているとはいえ、ふとした拍子に猫になってしまう陸の困った体質はそのままなのだから。
 それでも、今はただ彼を元気づけたかった。陸が喜ぶことをしてやりたいと思ったのだ。
「本当にいいの……?」
 期待と不安が入り混じった目で陸が問う。
 一織がはっきり、「ええ」と頷くと、彼はたちまちぱあっと笑顔になった。
「オレ、本当はすごく行きたかったんだ!」
 陸はそう言って、やったー!と両手を挙げる。子供みたいにはしゃぐ陸が可愛くて、一織はふ、と微笑んだ。



 入浴をすませ寝室に戻ると、陸はタブレットを手にベッドの中でうとうとしている。
 よほど楽しみなのだろう、来週行くことになった動物園の情報を見ているようだ。
 こんなに喜んでくれるなら、もっと早く連れていってあげればよかった。そう思いながら、一織は部屋の明かりを消して彼の隣に潜り込んだ。
 今夜は満月だ。明かりを消しても、カーテンの隙間から差し込む月明かりが、ぼんやりと陸の顔を照らしている。
「七瀬さん、もう寝ますよ」
「……うん……」
 呼びかけても反応は薄い。半分夢の世界に落ちているようだ。一織は陸の手からタブレットを取りあげ枕元に置くと、代わりに彼の頬に手を宛てた。
 瞼を閉じる陸に、そっと顔を寄せる。
 そうして薄く開いた彼の上唇をやわく食むと、陸は小さく息を吐いた。
「いおり……」
 吐息混じりに名前を呼ばれ、どきりと鼓動が跳ねる。次いで陸の腕が伸び、一織の首に絡んだ。
「……ん」
 離れかけた頭を引き寄せられて、もう一度唇が重なる。
 ちゅっと甘く吸い付かれて、思わず肩が跳ねた。
 キスに慣れたというのは嘘じゃない。もう二ヶ月近く日に三回キスしているのだ。もはや習慣。嫌でも慣れる。
 けれどいつだって、鼓動は高鳴り、胸は熱く震えた。
 回数を重ねれば重ねるだけ、それは強くなっている気がする。
 このキスに意味はない。
 必要だからしている。それだけのこと。
 そう自分に言い聞かせながら陸の唇を吸うと、彼はびくっと震える。一織ははっとして、慌てて唇を離した。
 自分でも驚いた。今のはほとんど、無意識だった。
「あ……」
 微かに声を漏らし、陸が瞼を開く。唇をなぞる彼の吐息に、交わる視線に、ぞくりと震えが走った。
「……っ」
 キスしたい、と思った。
 ――もう一度。もっと。
 陸に触れたいと、衝動のような熱い感情が胸の奥から押し寄せてくる。一織は咄嗟に彼から手を離し、くるっと背を向けた。このままではまずいと、本能が察知したのだ。
「お、おやすみなさい!」
 一織はそう言って、ベッドの端に寄った。
 少しでも離れなければと思ったのに、陸はそんな気も知らず背中にぴたりとくっついてくる。ぴしっと体が硬直した。
「いおり……」
 小さく名前を呼ばれ、一織はこわばったまま「はい」と返事をした。すると陸はふふ、と笑い、「キス、上手になったね」と言う。
「……は……」
 いきなり何を言い出すんだと思ったが、後ろは振り返れない。そんな一織の肩に、陸は甘えるように頬をすり寄せてくる。
「だからかな。なんだか前より、呪いを跳ね返す力が強くなった気がする。それに……」
 陸はそこまで言うと、ぴたりと黙り込んだ。
 しん、と静寂が落ちる。続きが気になって、一織は小さく口を開いた。
「なんですか。言いかけてやめないでください」
「ん……あのね……。一織とキスするの、きもちいいな、って」
「……は……」
 どくん、と心臓が跳ねる。
 ――気持ちいいって、なんですか。
 訊ねようとしたけれど、一織にはできなかった。
 もぞ、と背後で陸が動いて、彼の腕が前に伸びる。脇の下を通って差し込まれた腕にぎゅっと抱きつかれて、一織は再び固まった。
「な、七瀬さん……!」
 毎晩同じベッドで寝ているけれど、ここまで密着するのは初めてだ。背中越しに感じる陸の体温に、彼の吐息に、どくん、どくんと心臓が跳ねる。
 こんなにくっつかれたら、とてもじゃないが眠れない。
 そう思うのに、一織にはなぜか、陸の腕を振り払うことができなかった。何も言えず、身動き一つできないまま、時間だけが流れていく。
 どのくらいそうしていただろう。
 背後からはやがて、すうすうと健やかな寝息が聞こえてきた。
「……っ」
 一織はゆるゆると息を吐き、前に伸びた陸の腕をそっと外した。そうしてゆっくりと体を反転させると、陸の寝顔がすぐ前にくる。
 一織は小さく息を呑み、陸の寝顔をじっと見つめた。
 細い月明りに照らされたそれは、普段にもまして幼く見える。
 実際、陸は子供のように無邪気で、一織が知る他の誰より純粋だった。
 一織は手を伸ばし、人差し指で陸の唇に触れた。
 やわらかな感触。
 この唇といつもキスしているのだと思ったら、胸がかっと熱くなる。
「……いおりぃ……」
 むにゃむにゃと口を動かしながら、陸が突然名前を呼んだ。
 起こしてしまったかと思い慌てて手を引っ込めたが、どうやらそうではないようだ。陸はまたすぐ、すうっと寝息をたてる。何か夢でも見ているのだろうか。
(この男は……人の気も知らないで)
 そんなことを思ってどきりとした。
 人の気も知らないで――?
 いったい自分は彼に、どんな気持ちを知ってもらいたいのだろう?




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