NAGISA Night Temperature

「七瀬さん、危ないですよ、気をつけて!」
「大丈夫だよ! ほらこっち、早く!」
 歩くには少しばかり険しい岩場を通り抜けて、陸は危なっかしい足取りで前に進んでいく。こんな場所で転んで万が一怪我でもしたらどうするんだと、一織は焦りながら彼の背を追った。
 新曲のМV撮影で訪れた初夏の海。撮影はついさっき無事に終わったばかりだ。宿泊地に移動するまでのわずかな空き時間、一織は「ちょっとあっちの方に行ってみようよ」という陸に強引に付き合わされて、撮影現場から離れた岩場に足を伸ばしていた。
 まったく、毎回世話のやける人である。
「こんな場所で急かさないで。七瀬さん、ちゃんと足元を見て歩いてください!」
「わかってるってば」
 いったいどこまで行くつもりだと一織は眉をひそめたが、岩場を抜けたところで陸は足を止める。そしてくるっとこちらを振り返り、前方を指さし「一織、前見て!」
 陸の声につられて前を見る。その瞬間思わず、うわ、と声がこぼれた。
 ずっと足元ばかり気にしていたので気付かなかった。顔を上げれば、視界を遮るものは何もない。目の前に広がるのは、広い海と空だけ。
 太陽は水平線の向こうに姿を隠し、青とオレンジが混ざりあった空は、まばらな雲に反射してきらきらと輝いている。撮影のときは橙一面に染まっていたはずなのに、陽が沈むと青くも見える空が不思議だった。
「綺麗だね」
 感動しきった声で陸が言う。彼の言う通り、とても美しい景色が広がっていた。
「……こんな場所、よく知っていましたね」
 ここを訪れたのは彼も初めてのはずだ。感心しつつも不思議に思って訊ねると、陸はえへへと笑った。
「撮影前に話したおばあちゃんが教えてくれたんだよ。ここから見える景色が一番綺麗だって!」
 そういえば、と思い出す。
 撮影が始まる前、陸はたまたま現場に居合わせた地元の人と何やらにこやかに話をしていた。それでこんな場所を教えて貰えるなんて、いかにも彼らしい。
「そうだったんですね。確かに、この景色は素晴らしいです」
 そう言いながら岩場をおりて隣に立つと、陸は一織を見てくすぐったく笑う。そして視線を前に戻し、「オレね」と言った。
「一織と一緒に見たいって思ったんだ」
「……え?」
 どきん、と鼓動が跳ねた。

 ――それ、どういう意味ですか。

 一織はそう思ったが、返事のタイミングを逃してしまった。会話はそこで途切れ、沈黙が落ちる。
 そのまま陸の横顔を見てはいられなくなって、一織は視線を前に戻した。
 鼓膜を震わせるのは、寄せては返す静かな波音だけ。空の色はゆっくりと、青からオレンジ、濃い赤へと変わっていく。それはとても美しく、心を和ませる景色に違いないのに、一織はどうにも落ちつかない気分だった。
 視線を落とすと、所在なげな自分の左手と陸の右手が目に映る。あとほんの少し近付けば触れてしまうその距離を認識し、またひとつ鼓動が跳ねザザーッと寄せては返す波の音を聴きながら、ぎゅっと拳を握りしめ、また開くのを三度繰り返す。するとはずみで指先が、ほんの少し陸の手に触れた。
 その瞬間、びく、と陸が反応したのがわかった。
 けれど顔は見られない。今のは違う。そんなつもりはないのだと言い訳でもするように、一織はただ前を見つめ続けた。
 とそのとき、ふいに陸の手が一織の指先をきゅっと握った。
「……!」
 驚いて隣を見ると、こちらを見つめる陸と正面から視線が絡む。まるで世界で一番美しい宝石を埋め込んだような真っ赤な彼の瞳に、どきんと鼓動が跳ねた。
 七瀬さん。
 その呼び掛けが声になったかはわからない。けれど陸は、少しだけ赤く染まった顔でえへへ、とはにかんだ。
 途端、胸の奥から甘やかな感情が湧き上がってくる。一織はその衝動を抑えきれなくなって、指先に絡む陸の手をほどくと、今度は自分から手のひらを合わせて陸の手を握った。
「……あ」
 陸が小さく声を漏らした。吐息のようなその声に、思わず体が震える。
 一織は何も言わなかった。陸も無言だったが、すぐに繋いだ手をぎゅっと握り返してくれる。
 自分よりもわずかに高い彼の体温が、繋いだ手を伝わって体中を駆けめぐっていくのがわかった。
 くすぐったくて恥ずかしくて、ふわふわと甘ったるくて居た堪れない。
 こんな感情は知らない。
 ……知らないふりを、ずっと続けていたのに。
 見つめる先の陸の頬は、今の空と同じくらい赤く染まっている。それはおそらく自分も同じだろう。
 どきん、どきんと高鳴る鼓動は、いつの間にか波音よりも大きくなっていた。繋いだ手と額にじわりと汗が滲む。全身が脈打ち、燃えるように熱い。けれど今なによりも熱いのは。

「七瀬さん」

 一織は今度ははっきりと、声にのせて彼の名を呼んだ。
 なに、と答えるように、何かを求めるように陸がこちらを見つめ返す。
 彼の望むものが何なのか、一織にはすぐにわかった。いつもより潤んだその瞳を見たらもう、気付かないふりなど出来るはずもなくて。
 一織は繋いだ手はそのままに、もう一方の手を、陸の頬にそっと伸ばした。

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