こんなはずでは

「一織、どうしたの!?」
 仕事を終え寮に帰ると、リビングで寛いでいた七瀬さんは私を見るなり文字通
りソファから飛び上がった。
「どうって、なにがですか」
「頭! くるくるしてる!」
 言いながらこちらに駆け寄ってきた彼は、私の頭に手を伸ばすと無遠慮に髪を撫で回してくる。私は逃げるように仰け反ったが、七瀬さんは両手で私の頭をがしっと掴んだ。痛い。
「ちょっと! やめてください……!」
「ふわふわだー! これ、パーマかけたの!?」
「はあ……。これはヘアアイロンで巻いているだけですよ。メイクの方が、今日はいつもと雰囲気を変えようと仰って……」
「そうだったんだ! すごいね、いつもと雰囲気全然違う……!」
 まるで真新しい玩具を見つけた幼子のように、大きな瞳をきらきらさせて七瀬さんが言う。私は少しだけ気恥ずかしくなり、それを誤魔化したくてコホンと咳払いした。
「そこまで変わらないでしょう。まったく、一々大袈裟な人ですね」
「変わるよ! なんだか一織じゃないみたい……」
 言いながら七瀬さんはまじまじと私を見つめてくる。
 至近距離からのまっすぐな視線はやはりこそばゆく、私は彼から目を逸らした。
「あんまり見ないでもらえますか」
「やだ。見てやる! こんな一織貴重だもん! ねえ、写真に撮っていい?」
「駄目です」
「えー」
 言いながら七瀬さんはパーカーのポケットから自分のスマホを取り出す。
 この男、駄目だという言葉の意味がわからないのか。
「ね、一枚だけ!もう見ないから、一瞬だけこっち見て!」
 写真を撮るのにもう見ないはないだろうと思ったが、言い出したら聞かないのが七瀬さんだ。私が渋々向き直ると、七瀬さんは嬉しそうにふにゃっと笑ってカメラを構えた。
「撮るよー! はい、チーズ!」
 朗らかな声に続いてカシャッとシャッターの機械音が響く。一枚だけと言ったのに二枚、三枚、四枚、五枚(嘘吐きにも程がある)とシャッターを切って七瀬さんはようやくスマホを下ろした。
「……気はすみましたか?」
「うん!」
 まったく、自由な人だな。
 ふうと息を吐くと、「一織」と名前を呼ばれた。まだ何かあるのかと顔をあげれば、こちらを見つめる七瀬さんと視線が絡む。
 その眼差しに、どうしてかどきんと鼓動が跳ねた。
 私は七瀬さん、と名前を呼ぼうとしたが、先に口を開いたのは彼だった。
「今日の一織、めちゃくちゃかっこよくてドキドキした。他の子に見せるの、もったいないって思っちゃうくらい」
 まるで囁きのような小さな声で、七瀬さんはそう言った。
 思いがけない言葉に面食らっていると、彼はえへへとくすぐったく笑う。
 私はかあっと顔が熱くなるのを感じながら、一呼吸遅れて口を開いた。
「私はいつも格好いいですけど!?」
 そう言うと七瀬さんはぷっと吹き出す。そして「そうだね」と笑った。
「一織、面白い……! ふふっ、あはは!」
 ここは笑うところではないだろう。
 心底楽しそうに笑い続ける七瀬さんに私は腹立たしくなったが、すぐに仕返しを思いついた。
「七瀬さん」
「なに?」
 笑いすぎて潤んだ目で七瀬さんがこちらを見る。
 私は答えなかった。
 何も言わず顔を寄せると、七瀬さんは笑うのをやめてはっと息を飲む。そして私の意図を理解したのか、ゆっくりと瞼を下ろした。

 ……こんなはずではなかった。

 仕返しをしてやるつもりだったのに。
 重ねた唇の柔らかさとそのぬくもりに、私はなにもかもどうでも良くなって、七瀬さんの背中に腕を回した。

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