素晴らしい発音と君の貴重な笑顔
「はい。黒君」
白い小さな紙袋が目の前に突き出される。
顔を上げると、そこにはいつものようにユルい空気を纏った名字さんが立っていた。
「チョコクッキー作ってみた。味は保証するよ」
「……ありがとうございます名字さん」
受け取った包みは華やかな装飾などされておらず、口がテープで留められているだけだった。
別にそれが不満な訳ではないが、そのことを聞くと「過剰包装は地球の敵」と言っていた。
やけに自信満々だった名字さんの顔はしばらく忘れられないだろう。
「私も乗っかってるからあんまり言えないけどさ……バレンタインってだけでこんなに浮き足立つもんなのかね」
本命が、義理が、と盛り上がる教室内を見回しながら名前さんが呟いた。
確かに、女子も男子もそわそわとしてどこか落ち着きがないように見える。
まあ、恋愛絡みのイベントだから仕方ないとは思うが。
「……名字さんは他に誰に渡す予定ですか?」
「え?あーえっと黒君とクラスの友達には渡したから……あとは征十郎君、青峰君、桃井ちゃん。あと紫原君あたりは喜んでくれそうだから渡そうかなって」
「あれ、緑間君と黄瀬君には渡さないんですか?」
名字さんの目線の動きに釣られてクッキーの包みが入ったバッグに目をやる。
「一応あの二人の分も作ったけど……黄瀬君はいっぱいもらってうんざりだろうし、緑間は……ねえ?」
あんまりいい顔されないんじゃないかな、と名字さんが苦笑しながらバッグから二つの紙袋を取り出す。その紙袋はそれぞれ黄色と緑のテープで封がされていた。
……改めて見ると僕の手元の紙袋の口は水色のテープで留められている。
残りのバッグにある紙袋は、青、赤、ピンク、紫のテープで。
(何だかんだで、黄瀬君や緑間君を友達認定してるんですよね……)
「……。黒君その顔何」
「……何か変な顔してましたか?」
「すごいにやついてた」
思わずにやついてしまっていたようだ。
誰にも気づかれないような表情の変化も、名字さんには気づかれてしまうから困る。
「……緑間君も、黄瀬君も」
「ん?」
「名字さんからのものなら喜ぶと思いますよ」
これはお世辞でも何でもなく、心からの言葉だった。
緑間君は言うまでもないし、黄瀬君は黄瀬君で名字さんをある種特別な存在として見ているのが分かる。
そんな二人がどうして名字さんからの贈り物を拒否するだろうか。
「……また黒君は口がお上手ですこと」
にやり、まさにそんな笑みを浮かべる名字さんも満更ではなさそうだ。
名字さんが僕の微妙な表情の変化を鋭く読み取れるように、僕もまた名字さんの微妙な表情の変化を読み取ることができた。
周りの空気こそ、いつも通りのユルい、気の抜けるようなものだが、彼女の顔は明らかに喜んでいる。
「…なら、渡してこようかな」
「はい、そうしてあげて下さい」
「今行ってくる」
名字さんがいつもより早歩きで廊下に消えていくのを見送った後、何となくもらったクッキーの紙袋を開けた。
中のクッキーは何故か全てクマの型抜きがされていた。
一つ取り出してまじまじと見てみると、顔がやけにリアルだった。
(何でクマなんでしょう……?)
「あっ、黒君黒君!」
突然廊下から大きな声で名前を呼ばれた。
顔を向けると、そこには名字さんがいた。
行ったんじゃなかったのか。
「何ですか?」
「言い忘れてた!Happy Valentine!」
素晴らしい発音と共に、名字さんはニッコリと笑った。
バレンタインでした。
尻切れ感がはんぱない
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