06 あのポスターはまだ完成していない。乾ききっていないポスターをカンバスに置いたまま美術準備室に置いて帰り支度をする。乾ききる前に筆を洗おうと制服の腕をまくり、蛇口をひねる。開いたままの扉からは真っ暗な廊下が見える。窓の外はすっかり橙色ないし群青色に染まっている。一番星がうっすら見えている。ポケットの中の携帯を取り出しメールを確かめれば三件の受信。一件はメルマガ、一件は家康に私が送った先に帰ってというメールの返信、もう一件は、 「今日はもう終えたのか。」 突然の声に咄嗟に振り返れば暗闇の廊下を背景に浮かび上がる美しい銀色。 「なんだ、石田君か。」 「なんだとは何だ。貴様の条件とやらで来てやった。」 「ああ、そっか。」 ぱちんと教室の電気を消すと暗闇が世界を包み込む。彼の言う条件とやらは私がこのポスターをやる代わりと言って提示した例の約束のことだと思われる。そういえばそんな約束したような、ぼんやりと思い出す。条件といってもそんな大層なものではない。ただ一緒にうちに帰ろうという、どうってことのないしかもこのポスターが書き終わるまでという期間付きのものである。彼は案外すんなりと受け入れたらしいので正直驚く。 「石田君約束守るんだねー」 「当然だ。貴様と一緒にするな。」 「私だって守るよ。だから今だってポスターやってたのに。」 トントンと靴のつま先をつついて先に昇降口に出ていた石田君の後を追う。この時間帯になると部活動もほとんど終わっているらしく人もまばらで駐輪場には自転車もほとんどなかった。石田君は電車通学なのだが駅までは自転車で通っているらしい。私と帰り道の方角は同じだ。 「歩いてくの?」 「貴様は自転車じゃないだろう。」 「うん、まあ。」 「何だその不満な表情は。」 「……別に。」 私は専ら家康と同じく石田君が後ろに乗せてくれるものだと思っていたのだが彼が自転車を押して歩きだしたのを見るとなんだかなあ、と思いつつも隣についていった。彼は今一人暮らしだそうで、同級生の大谷君ちが持ってるマンションに下宿してるらしい(大谷くんがお金持ちなのもよくわかった)。 「一人暮らしじゃ大変でしょう。」 「刑部がいつも余計な世話をするので特に不満はない。」 「へえー……。大谷君は学校以外でも大変なんだね。」 「どう言う意味だ。」 「あて、」 ゴツンと頭を叩かれて思わず間の抜けた声が出た。片手で頭をさすりながら彼を横目に見る。そうしたら目があって普通に反らされた。しかもうすら笑いを浮かべて。とんでもない奴だ。ぶつくさ文句を垂れながら空を見上げる。あ、ポラリス。 「ポラリス?」 「北極星だよ。」 「そんなもの分かっている。それがどうした。」 「ううん、意味はないけど……。小学校の頃、夜、道に迷ったらポラリスを見つけなさいって。おばあちゃんが教えてくれたの。それを頼りにすればいま自分がいる場所も、進む道もわかるでしょう、て。」 両手で額縁を作って、濃い紫の空に浮かぶポラリスを収めてみる。まばゆい光と同じくまぶたを瞬いて、少しだけ立ち止まる。隣にいた石田君も立ち止まる。かちかちと鳴っていた自転車のタイヤの音が消えて、街の喧騒が間遠に聞こえてくる。自分の呼吸音さえもよく聞こえるくらいなのにそばにいる石田君の呼吸音は聞こえなくてまるで死んでいるんだか生きているんだかわからない。 「綺麗でしょう。たまには何も考えず上を見上げてみるのもいいもんだよ。毎日違う表情があって。」 指の額縁を今度は石田君に向ける。私が告げれば額縁の中でいつもの仏頂面をした彼が私を見ている。 「全て同じだ。」 「違うよ。全然違う。」 「貴様に何がわかる。」 「わかるよ。毎日見てるから。」 「暇人め。」 「あはは。」 石田君はまた先に自転車をおして歩き出した。カチカチという音がまた耳に届く。細く、そして猫背の背中を眺めて、それからまた空を仰ぐ。 「……いつまで見れるかな。」 呟いても、ポラリスも石田君も、相変わらず口を閉じたまんまだ。 2013.01.29. |