「(呉といえば、海上自衛隊とか、もっと時代を遡ると旧海軍の基地で有名な地であるというくらいしか知らなかったなあ。)」 ローさんに連れられて森を降りると、森への入口横にあるバス停でバスに乗ることになった。よくわからぬまま下車し、彼は何も言わずに私の手を引いて誘導すると、古い町並みと港町の様子が視界に見えてきた。瓦と木造格子窓の昔ながらの町並みを彼に手を引かれて歩く。静寂が包み、並ぶお店も営業しているのか一瞬わからなくなるほどである。昼下がりの日差しが軒に飾られたカラカラ鳴る瑪瑙の数珠飾りに反射し、時折吹く潮風が風鈴を揺らした。雨がしっとり降った日も素敵だろう。平日のせいか人も数える程しか往来を歩いておらず、私たちが歩く前を三毛猫が横切って行った。なんだか初めて来た土地だというのに、ノスタルジーすら感じる。胸が締め付けられるようで、遠くの陽炎を見つめながら、額の汗を拭った。 「いいところですね。」 そう言ってローさんを見上げれば彼は私を見て笑った。気になって駆け寄った飴細工のお店ではローさんが何も言わずに買ってくれたものだから、なんだかこんな年にもなって子供のお菓子に夢中になる自分に嬉し恥ずかし気持ちとなった。 「あ。ローさん食べます?」 「いらねえ。」 「…そうすか。」 「ガキの頃はよく食った。」 「へえ。」 どうやら彼は昔のことを思い出しているらしく、町並みを望む彼の視線はどこか遠くを見ているようで、何かをいつにもまして口数は少なで、歩調もいつもよりゆったりしているように思えた。至極ナチュラルに私の手を引く彼の手も次第に熱おおびていった(私が緊張して勝手に体温を上げているからか)。 「あ。あの、あそこ何ですか?」 「…ああ、あそこは。」 お土産屋さんのようであるとローさんが説明するやいなや、目を輝かせる。呉は初めて出会えるから、お土産ぐらい、家族や都内に残してきた人々にあげたいものである。もちろんお遊び気分でここに来たわけではないことは重々承知であるが、先程もサービスエリアでご当地限定キ○ィのグッズをローさんに秘密で密かに購入したぐらいには心の余裕はある。 「(迷惑かけてるわけだし…)あ、あのー…」 「行きたいのか。」 「…………」 「別に行けばいいだろう。」 「やった」 お許しも出たところで(こういうことならサービスエリアでも堂々とすればよかった)、たくさんの品物が並んだお店屋さんへと入っていく。こけし人形や竹細工、観光者向けの小物などが並び、中には使用用途のよくわからぬものまでところ狭しと並んでいる。 「…なんかよくわからないお店ですね。」 思わずローさんに耳打ちすればああ、と言いながらローさんは何やら小さな人形を手にとった。 「みかんこれ見てみろ。」 「はい?わっ」 ずいっと目の前に差し出された人形を思わず凝視する。手のひらに収まるほどの小さな人形で、なかなか愛嬌のある顔をしている。まん丸の頬には紅が差され、クリクリの目、座敷わらしのような着物を着た古風な人形である。キーチェーンがついているので、キーホルダーなんだろうが、一体何のキーホルダーなのだろう。こけしでもなく座敷わらしでもない。髪型は完全にこけしだが。 「お前に似てる。」 「……左様ですか。」 「買ってやる。」 「えっ……いらな」 「これいくらだ?」 私が皆まで言う前になぜか楽しそうにローさんはお店の親父さんに値段を聞いてついぞ精算を済ませてしまった。思わず遠い目をしてしまったが、すかさず視界にひときわ目立つ人形が入って思わず私も手に取る。白いもこもこの毛に、もこもこした虎の柄、可愛いフォルムに比べて恐ろしい程に鋭く人を射抜くような目をした虎のぬいぐるみキーホルダーである。 「あ」 「どうした。」 「これ、ローさんに似てます!」 「………似てねえよ。」 「似てますよ!おじさんこれください!」 「はいよー」 私もあっという間に精算を終わらせると、嬉々として直様袋から出すと手に持った。そして鍵につけるとローさんに見せた。 「かわいいですよね!」 「かわいくねえ。」 「えー、」 「それよりこれもつけとけ。こっちのがいいだろうが。」 「え、いいです。」 「お前ェな、」 「ローさんの鍵につけてください。もうこっちの鍵はムー○ンとスナ○キンが付いてるので定員オーバーです。」 「俺もつけたくねえよ。」 「ひどいです!私に似てるって言ったくせに!お守りになりますからつけてください!」 「…お守りか。」 「きっとご利益があるはずです!」 「ご利益か……」 「はい。」 「…座敷わらし(小声)」 「何ですか?」 「いや、」 私がじっと見ていればローさんは至極面倒くさそうな顔をしたが、彼はポケットの中から自分が買ったそれをつけるとなんだか不満そうな顔でそれをしまった。ポケットからしろくまのキーホルダーとともにポケットから出るそれが、なんだか間が抜けてて可愛らしい。そのまま彼の誘導で歩き続けると、いつの間にやら自然公園に入り込んでいたらしく、視界が緑がちになってきた。ここも観光地らしく、ちらほら人がいる。アイスクリーム屋やジュース屋さん、クレープ販売のワゴンも見えてワクワクする。この辺りは高台らしく、ずんずん進んでいけば港を一望できる開けた場所へと出た。 「わあ!すごい!あれ軍艦ですか!?」 「ああ。呉には海自の基地があるからな。」 「初めて見ました!」 まるで幼い男の子のようにきゃっきゃと喜べば後ろでローさんが笑った気がした。水平線が真っ青で、小さい頃見た海の景色と重なる。大きな入道雲と一緒になって、素晴らしいコントラストを生み出していた。すぐそばでこのあたりに住んでいるらしい家族のお父さんも、軍艦の様子を小さな息子に指差して説明していた。水兵さんのような可愛らしい帽子をかぶった大変に可愛らしい男の子で、見ていて思わず微笑みたくいなる。ローさんは私の隣まで来ると、柵に手をかけてしばらく黙ったまま眼下の景色を眺めた。私はチラチラと彼に視線を送りつつも初めて見る呉の海に興奮した。あれなんだろう、と小さくつぶやけばローさんがさりげなく洋風の煉瓦の建物は旧海軍学校なんだと教えてくれた。やはりこの街はなかなか面白そうな町である。風が吹いてきて、昼下がりの気持ちのいい太陽とも相まってなんだかいい気分だなあ、と日向ぼっこをする猫のようなまどろむ心地で、ぼんやりしておれば、徐に隣で黙っていたローさんが口を開いた。 「海自の知り合いがいるって話覚えてるか。」 「あ、はい。面白い人なんですよね。」 「ここで勤務してるんだ。」 「へえ!すごい、ここってあれですよね。海自のことよくわからないけど、でも海自からすれば聖地みたいなものですよね?」 「まあな。その知り合いがコテージの主で例の“ロシナンテ”なんだが、」 「え!その人だったんですか?」 「ああ。はからずもみかんと会うことになって、俺としては良かったと思ってる。」 そういえば彼は前にも合わせたいみたいなこと言ってたもんなあ、とぼんやり思い出す。そんなにいい人なのか、イケメンだといいなあなんて流暢な考えが浮かぶ。 「私も是非会ってみたいです。お肉やお魚の差し入れとか色々お礼しなきゃだし。本当にいい人ですね。」 「ああ。……本当にあの男の弟とは思えねえくらいにな。」 「あの男……?」 ふと彼を横目で見ればとても凶悪な目つきになっていたのでそれ以上問いかけるのはやめよう、と思った刹那、急に強い風が吹いた。わあ、と思って履いていたスカートを抑えたが、視界の端に先ほどの男の子の帽子が風で巻き上げられ、そのままふわりと宙に舞うのが見えた。あ、と思ったと同時に反射的に右腕をぐい、と伸ばし、左手で私の胸の高さの柵に捕まる。指先に帽子が触れて、それ、ともう一息弾みをつければついぞそれは捕まると思って思い切り体を伸ばした。 「、」 ほんの一呼吸。となりの家族が息を飲んだ気がした。私も思わず息を呑む。勢い余って半分以上柵を飛び越え、宙へと放り出された体は重力に逆らうことはなかった。私の指先は男の子の帽子を掠めた。 落ちる 視界が空と海の青でいっぱいになったかと思えば、今度は背中に何かが覆いかぶさったかと思えば、上半身がぐいと抗えぬ力で後ろに引っ張られ、指をかすめたはずの帽子が自分よりも長く大きな指によって捉えられた瞬間を垣間見た。後ろの地面に倒れこむと思いきや、それは体に回された腕の本人によって阻止された。ぎゅう、と後ろから強い力で抱き寄せられて、それから腰の抜けた私は彼の腕によって支えられる形となった。本の一瞬の出来事だ。耳をつんざくほどの蝉の声も、波の音も、頬を撫でる風さえも全て止まってしまったかのような気がした。 「大丈夫ですか!?」 「…あっ、」 隣の家族のお父さんらしき人の声によって、停止していた私の時間は再び動き始めた。横を向けば随分焦燥したお父さんとお母さん、きょとんとしている男の子が見えた。 「どうぞ。」 頭上で低い声が響いたかと思えば、私の代わりに帽子のキャッチに成功したらしい男が何事もなかったかのように男の子の帽子をお父さんに手渡した。お父さんは丁寧に例を述べると、心配そうに私を見やった。 「大丈夫ですか?」 「え?ああ、ええ…」 「そうですか。すみません、帽子のために…。でも、恋人の方がいて本当に良かったです。ありがとうございました。」 「ありがとうございました。」 お父さんが礼を述べれば、彼の隣に居た奥さんも頭を下げてお礼をした。男の子はお母さんの足元でこちらの様子をじっと見ていた。今起きたことを整理するので思わず停止をしていれば、頭上からやや不機嫌そうな声が再び鼓膜を震わせた。 「………おい」 「あ、…はい。」 「…大丈夫か。」 「はい…もしかして私、死にかけました?」 思わずそういえば、頭上からは今度はため息が聞こえた。あははは、と少し笑ってはたと気がついたが、あのお父さんは間違いなく私とローさんを恋人と言っていたし(なんと恐れ多いことか!)、私は今ローさんに後ろ抱きにされているという状況下で間違いはないだろうかと思わず視線を胸の下へと移せば、私のおっぱいの下には間違いなくガッチリとローさんの腕が回されていて、背中からはドクドクとした心音と、汗ばむような背中の暑さを感じることができた。 「あああああ!あの、あの!」 「うるせえ騒ぐな。」 「う、む!…あの、たすけてくれてありがとうございます、です…」 「…もう少し考えてから行動することだな。お前のその短い腕を伸ばしたところで無理だったろう。」 「反射的に反応してしまいまして…」 「俺がいなかったら今頃数十メートル下に急直下だ。」 「ひ、ひええ…!」 「ま、飛び降りてえっていうなら邪魔しねえけどな。」 「……い、命拾いしました。」 今更ながら心臓がドクドクしてくる。ここまでくるともはや死に対するドクドクなのか、ローさんにあすなろ抱きにされてるドキドキなのか、暑さによるドキドキなのかよくわからなくて胸が苦しい。心なしか彼の心臓もドクドクいっているように思えたが、見上げれば涼しい顔が見えたのでおそらく私の見当違いだろう。今頃膝がガクガクしてきて、ローさんに寄りかかる体を立たせようにも力が出ない。 「(うおおおお!力よいでよ!)」 「何だ、腰でも抜けたか。」 「あ、ご、ごめんなさい。」 「いい、無理するな。」 ローさんはそう言うと私の体を横抱きにしてそれから傍にあったベンチへと私を下ろした。少し待ってろ、とローさんはそう言うとどこか足早に行ってしまったので私はおとなしくベンチで休んだ。木陰の涼しい場所である。ひゅうひゅうと吹く風が髪を弄び、緊張した体にはちょうど良い。間遠に広場で遊ぶ子供の声がする。 「(なんだか、眠いかも…)」 車の中ではやはりしっかり体を休めることはできなかったらしく、だんだんうつらうつらとしてくる。 「ねえ、お姉さんとあのお兄さん付き合ってるの?」 「はい?」 となりから声がしたので思わず視線を横にする。しかしそこには何もなく、そのまま視線を下ろせばいつの間にやら見慣れぬ子供の姿が見えた。ピンクのくまみみのついた子供服に身をまとった、青い髪の奇抜な幼女である。幼女はニコニコしながら足をふらつかせ、クレープを頬張っている。 「(…よ、幼稚園児…?小学生?)あの、迷子?」 「ううん。」 「パパとママは?」 「子供扱いしないで。」 「すみませんでした…」 「いいのよ。連れはここにはいないけれどいるから心配しないで。訳あってここに来れるのは私だけなの。」 「はあ……」 幼女はそう言うと口の周りについたクリームを指先に絡めて舐めた。どっからどう見ても幼女なのになんだか妙な落ち着きがある。地元の子だろうか。ていうかいつの間にいたんや、と思わず思案してたが、彼女は別段気にするでもなくくつろいでいる。無邪気なようにも見えるが、それもなんだか嘘っぽいような妙な感じを受ける。 「あなたはここの子?」 「違う。観光しにきたの。」 「へ、へえ。」 「お姉さんは恋人と観光?」 「まあそんなところなんだけど…、てか、私とあのお兄さんは恋人じゃないよ?」 「でもさっき後ろから抱きしめられてたし、お姫様だっこされてたし、恋人にしか見えなかったよ?」 「ぎゃあああああ!」 「な、何ッ!?」 「あ、いえ、それは不可抗力で、兎に角!お姉さんは、ローさんとは恋人ではないの。うん。」 「…そう、」 幼女は私の驚愕した顔にびくりと反応したが、直様落ち着きを取り戻した。しかし私の顔を見ると急ににたりと笑った。思わず今度は私が肩を震わせる番である。 「でも、まんざらでもないんだ。」 「えっ」 「それに、あのお兄さんの方も貴方には気を許しているように見えたよ?」 「そ、それは、私があんまり頼りないから良くしてくれるだけで…」 「そう?お似合いだと思うんだけどなあー」 「え、お似合い…?」 「うん。とっても!」 「そう、かな…」 えへへへ、と後頭部を掻きながら、気恥かしさに思わず身をよじる。幼女相手にだらしがないとわかっているがおだてられると調子に乗るタイプである。そんな私を幼女はうんうんと頷き頷き見ながら、笑顔で口を開いた。 「さっさとくっついちゃって、子供産んじゃえばいいんだよ。」 「…えっ」 思わずぎょっとして視線を再び幼女に向ける。幼女はニコニコしたままこちらを依然と見上げている。 「こ、子供?」 「うん。」 思わず顔が火照って、頭を抱えたくなったが、瞬時に、相手は子供であることを思い出してはたと気がついて。そうか、この子は子供であるがゆえに純粋にそう言っているのであろう。子供がどういったプロセス経て人体に宿るのか、きっと知らないのだ。純粋無垢とは時として恐ろしい力を発揮するものである。 「でも、子供はそう簡単にできるものじゃないのよ。」 「なんで?」 「なんでって…それは複雑な手続きを経て、できるものなのよ。ていうか付き合ってもないのにできないよ…」 「できるよ?付き合ってなくたって。でしょう?じゃなきゃ、出来ちゃった婚はこの世にないじゃない。」 「なんですと……」 この子、本当に何者なんだ、この幼女は。間違いなくその幼女の笑みは、“複雑な手続き”を知っている顔である。なんだか嫌な予感がして思わず彼女から後ずさって距離を取る。幼女は私の行為を意に介さず、続けた。 「お姉さんだって、あの男の人が好きなんでしょ?」 「いいって…彼の意志だってあるんだから、」 「……いいのよ、ローの意志なんて。」 突然低い声がしたかと思えば幼女は食べ終わったクレープの紙くずを地面にぐしゃりと丸めて落とした。割れた卵のようにくちゃりとぐちゃぐちゃになったそれは溶けたクリームがべたりと絡みついて地面を汚した。視線でそれを追って、直様彼女の方へと視線を戻した。 「兎に角、あの男を押し倒すの。」 「なん、で。」 「いい?既成事実を作るの。」 なんだか体が言う事を聞かなくて、額に暑さとは違う汗が滲んだ。そして幼女は私に向かって手を伸ばした。だんだん気が遠くなって、自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえた。頭の裏で、いつか全く同じことを言われたような気がした。意識が遠のいて言って、蝉の声が小さくなってくる。どうにもならない、抗いきれない力によってこの世界が支配されているような感覚になった。声にならない声で彼の名を呼び続けた。視界が、白く霞んでいく………―― 2015.11.25. |