ジャンが危うく落ちそうになる 目に入った瞬間、思わず「あ」という声が漏れていた。わりに遠くであったがよく目を凝らして見たが予想通りやっぱりそうだ、見間違えるはずがない。例の猛暑のせいで陽炎が視界を邪魔する。耳の奥では始終セミの鳴き声がこだまする。人並みをかき分けかき分け、都会の焼け焦げたアスファルトを踏んでようやっと横断歩道を抜ける。あと数メートル、というところで向こうも気がついたらしい。俺を見た途端にキラキラと目を輝かせるとわざとらしく俺に近寄ってきたかと思えばドヤ顔でこう言い張った。 「えーっと、私の彼氏です。」 ああ、頭が痛いのは強い日差しのせいではなさそうだ。 ・ ・ ・ 「よくもまあ俺をいいように利用してくれたなァ。」 「だから、ごめんて。」 ずるずると横でストローを咥えて女はにぱりと笑う。水滴のついたプラスチックの容器にはかの有名な緑色の女神が微笑んでいる。かく言う俺はコイツがお礼という名目でおごってもらったアイスコーヒーを口に含みながらこの暑さにいらだちを隠すこともなく舌打ちをした。コイツが飲んでるのは確かコーヒーなんとかフラペなんとかとかなんとかとか。とりあえずそんな感じのこじゃれた、女子大生がいかにも好きそうなやつを飲んでいた。ルーペでもフラダンスでもなんでもいい、もうどうにでもなれ。暑いんだよ。 「でも本当にナイスタイミングだったよね。」 「俺にとってはバッドタイミングだったけどな。」 「あの男の人しつこくてさ、何度も何度も断ってるのにお茶だけでもって。」 「面倒だから付き合ってやればよかったんじゃねえか。」 「やだよ。なんか投げやり。」 「投げやりにもなんだろ、なんでお前のモテ期をわざわざ目撃しなきゃなんでんだよ。面白くもなんともねえよ。」 隣の席では俺らとそう年齢の差のないようなカップルが例のフラペなんとかをうまそうに飲んでいて、時折こっちのが美味しいよーなんて飲み会っている。くそう、スタバっていつからこんな非リアに優しくねえ空間に成り下がったんだよ。だいたいせっかくの夏休みなのになんで彼女いねえんだよ、俺には。 「ジャンにも早くモテ期が来ればいいのにねー。」 「馬鹿言え。俺はな、自分から切り捨ててんだよ。」 「何それ。」 「俺結構モテんの知ってんだろ?」 「それって画面の中の話じゃないよね。」 「ぶっ殺すぞテメー。」 青筋立ててそういえば女は再びおもしろおかしそうにケタケタ笑い出した。なにこいつ殴りたい。まあ確かにオタクは否定しねえけど。マガジン欠かさず読むし、コイツに合うついさっきまでアニメイトに寄ろうかなとか考えてたし。ていうかなんで上から目線なわけ?バカのくせに。 「そういうお前だってなんだかんだ彼氏いねえじゃねえか。」 「私はできるけど作らないんですう。」 「んだよそれ。」 「今はフリーでいたいの。別に恋愛体質でもないし、今はジャンやほかのみんなと遊んでたいからさ。」 「余裕っぶっててなんかウゼーな。殴りたい。」 「そういうジャンは真面目すぎるんだよ。」 「あ?」 なまえはそう言ってスマホを取り出すと指先でそれをいじり始める。昼下がりのスタバの店内はわりに活気に満ちているから俺が多少声を荒げても気にならないほどだ。 「一途すぎる。」 「……なんのことだよ。」 「ジャンってわかりやすくて可愛いよね。」 イライラする。こいつのこういう俺のことわかってますよみたいな感じがいけ好かない。何よりもそれが図星なのが気に入らない。なんでコイツは俺をイライラさせるピンポイントを付いてくるのか、ある意味天才である。 「人の勝手だろ、そんなもん。」 「まあ確かにね。ほかの人から好意を寄せられても、ときめかなかったら意味ないもんね。」 「わかってんなら言うな、馬鹿。」 えへへ、と言いながらなまえはスマホをしまうと残りのフラペなんとかを飲み干した。そろそろ店をあとにするらしい。もともと偶然居合わせただけなのだから予定でもあるのだろう。あー、なんで俺には彼女がいなくて、好きな奴には好きな奴がいて、貴重な夏休みをなまえと過ごしているんだろうか。彼女道から生えてこねえかな。くだらないことを考えながらずずずと苦いアイスコーヒーをすする。 「まあ、私は好きだけどね、そういうジャンの真面目で一途なところ。」 「ぶ、」 思わずすすっていたコーヒーを吹いてしまって慌ててそばにあったナプキンで口元を拭った。ああ、今の恥ずかしすぎて死にたい。そんな俺を見ながらなまえは流暢に「あはは、汚な」と、そう言って立ち上がると伸びをした。小さく白い二の腕がするりと顕になって思わず目をそらした。ああ、俺って本当に自分でも憐れむほどに童貞感否めないなって思って切なくなった。なんかもうセミになりたい。 「ジャンはこれから暇でしょ?」 「なんで決定事項なんだよ、巫山戯んなバカ。」 「あはは、でもそうなんでしょ?」 「……まあ、」 「ふふ、かわいそうに。せっかくの夏休みなのに。」 「余計な世話だ。つーかお前も同類だろうが。」 「まあね。でも今日は特別にデートしてやってもいいよ。」 そう言って目の前にもみじみたいな小さな手が差し出される。俺は多分それをバカ家と言いながらパシンとはねのけることだって出来ただろうに、ゆっくりと握ってやってしまったのは多分、夏の殺人的な暑さのせいであると思った。アスファルトの蒸れた空気がハイを犯していく。ああ、このめまいと急な鼓動の速さはきっと、全部、日差しのせいだ。きっとそうに違いない。 2013.07.13. |