変態という名の紳士マルコ 彼女は特に爪を気にするタイプではなかった。今流行りのネイルを塗ることはおろか爪やすりで削ることもしない。冬になれば水仕事で少々あかぎれる。一年を通してササクレがでいている。オロナインを塗ればと勧めてもちっとも聞きやしない。彼女はピアノを幼い頃に習っていたらしいのだが、その指を見ただけではにわかに信じ難い。それほど彼女のては小さくて、お世辞にも美しいと言えるような指ではない。今日も相変わらず筋のはっきりと見える桜貝のような淡い桃色の爪である。 「カサカサするの。」 「だから、ハンドクリーム塗れって言ってるだろう。」 「違うわ、唇よ。血が出てるみたい。」 皿洗いを終えた手を不衛生にも着ていたエプロンで拭いながらなまえはこちらに向かっいてくる。午後三時を過ぎた室内は実に穏やかだ。遠くで火にかけた薬缶が少しずつ鳴いている声がか細く聞こえる。そろそろ頃合なのだろう。なまえは壁にかけられたかg身の中を熱心に覗きながら、切れた唇をしきりに気にしているようであった。人差し指の腹で何度も唇にできた傷を撫でては滲む赤を唇全体に広げるようにする。その様子をしばらく目を細めて見ていたのだが、なんだか変な心持ちがした。薬缶が次第に大きい悲鳴を上げていくのが少し近くで聞こえる。 「リップクリーム持ってたりする?」 「ごめん、持っていない。」 「だとおもった。だからいつもキスするとき痛いのよ。マルコの唇乾燥してる。」 「そんなあ。唇もそうだけど、手をもっと労わらないと。」 「平気よ、もう手はなれているんだから。」 「だめだよ。」 思わず顔をしかめて怒ったように視線を本に戻した。ため息を吐き出すと同時に薬缶が大きく声を上げた。いけない、彼女はそう言ってまたキッチンに戻っていく。それからしばらくして仄かにアップルティーの芳しい香りがしてきた。そうしてなまえは銀のトレイに可愛らしい陶器のティーセットを載せて戻ってきた。そして僕の目の前のテーブルにそれを並べる。ちらりと盗み見た手は小さくそしてや指先が真っ赤でカサカサとあかぎれている。ササクレからは小さなピンク色の肉が垣間見れた。思わずその手を捕まえればなまえはギョッとしたように目を見開いて僕を見る。 「何、」 「あったかいね。」 「マルコの手が冷たすぎるんだよ。」 笑うなまえを他所に、その指先をぺろりと舐めれば今度はあ、と小さくなまえが鳴いた。かさかさとした指ちつるりとした爪の感触とが、ざらざらとしたした先ではっきりと感じることができた。味はどことなくしょっぱい。仄かに石鹸の香りと、苦さを感じる。不思議なことに、そのうちにだんだんと甘くなってきた。 「もう、やめてよ。」 照れたように、呆れたようになまえが手を引っ込めて、それからまたキッチンへと消える。再びやってきたなまえが持つトレイの上には先程作ったらしいチーズケーキが乗っている。 「お茶にするよ。」 「うん。」 なまえはそう言って隣に座った。あかぎれたその手でチーズケーキにフォークをさしてく。手持ち無沙汰になった僕の手を見る。白くて生気の感じられない、何も生み出さない白くて骨ばった大きな手。なまえのフォークの握られていない片方の手を握る。そうすればなまえは何も言わずに紅茶をすすりながら手を握り返した。自分の手よりよほど暖かい手だった。 2013.10.11. |