童貞ジャンとこしょばゆい 「よ、よお。」 びくり。そのオノマトペがしっくりくるほどに肩を震わせてぎこちなくこちらを振り返ったその瞳は不安げに揺れていた。だが直様俺と視線を合わすと「お疲れ様」、と静かに一言言った。教室は地平線の彼方に見える山の峰々のあいだに傾く太陽の橙色で染まっている。がらりと開けた扉を閉じると、自分の席へと向かう。チラリと視線をさりげなく彼女に向ければ、彼女はもう俺の方は見ておらず、先程からしていたらしい作業に戻っていた。確認のために黒板を見れば、日付の下には彼女とは違う別の人間の名前が書いてある。それからまたもう一度彼女の方を見た。自分の席からからはちょうど彼女の横顔が見える。長く美しい黒髪が、窓から差し込む橙色に照らされている。髪の毛一本一本丁寧に描いたような繊細なそれは他の女子にはない彼女の美しい所有物の一つだと、初めて彼女を見かけた当初から思っていた。ミカサのそれも負けず劣らず美しいが、彼女のそれは他のものと比べられぬ程にたおやかで、墨絵のようにみずみずしいのだ。話したことはほとんどなく、クラスも同じではなかったのだから話しかける機会も接点もなかった。だが進級した今期から初めて彼女と同じクラスになった。とはいえ、まだ新学期になって日も浅いせいか今だに打ち解けてはいないが。黒板のとおり、彼女は今日日直でもないが、教室の花にふざけたような子供騙しの象のイラストが入った、小さな如雨露で水をやっている。しかも熱心に。花が好きなんだろうか。 「……みょうじ、なまえ。」 「はい。」 今度はこちらが肩を震わせる番だ。心の内で小さく呟いたつもりが声に出ていたらしい。とはいえ、たった二人きりの静かな教室内では聞こえてもおかしくなはい。視線を向ければ再びばちりと視線があった。今度はその黒い瞳はしっかりと見据えているものの、やはりどこか他人行儀だ。慌てて続きを何か口にせねばと考えあぐねくが、とっさのことで続きが出てこない。彼女は首をかしげた。 「……キルシュタイン君?」 「ああ、なんつうか、お前、なんでこんな時間までいんだ。」 キルシュタインくん。彼女の紡いだその言葉がなんとなくくすぐったい。苗字では呼ばれ慣れてないからかもしれないけれど、初めて自分の名前を呼ばれたからかもしれない。彼女は俺の質問にえ、と声を漏らすと、ええっと、と言って自分の手元を見た。 「日直じゃねえんだろ。」 「ううん、」 まさかユミルの奴が押し付けたのか、いや、でも黒板には違う名前が書かれている。いくらなんでも花の水やりだけを押し付けるのはおかしいか。 「私、環境委員だから。」 「そうかよ。」 日直の仕事じゃないのか。そうぼんやり納得して、視線を窓に向ける。この季節はまだ有日が沈むのが速いので、もう橙が山の端にあともう少しで顔を隠しそうだ。忘れ物のノートをを取ると、急いで鞄に押し込む。彼女は水をやり終えたらしく、空の如雨露を棚に置いた。もともと目立つタイプではないが、環境委員なんて率先してするタイプだとは思わなかった。 「……花好きなのか。」 「え。うん、まあ。」 「(あ、笑った。)」 嫌いじゃないよ。言葉はどこかぎこちないけれど、彼女ははにかみながらそういった。笑った顔は初めて見た。可愛いと思う。 「キルシュタイン君は、忘れ物?」 「おう。」 「そっか。気を付けてね。」 「…おう。」 がらり、教室の後ろの扉を開けて、それから廊下に出る。 「なまえ。」 へ、という間の抜けた声が聞こえた。廊下はもう薄暗い。 「……ジャンで、別に構わねえよ。」 「え、」 また明日な、そう言い放って少し急ぎ足で廊下を抜けていく。まるでピンポンダッシュをしたみたいに少しだけドキドキして、耳の奥がこそばゆかった。このような新鮮な気持ちは久しぶりな気がする。それから少し後になって冷静になれば、自分の一連の行動が童貞丸出しな気がして、何だか無性に泣きたくなった。 2014.02.10. |