短編格納庫 | ナノ

石田が見た夢

其処は確かに見慣れた石畳であった。私は何故か心持が好くて、着流しを着ながら散歩なのか歩いていた。時折主観から客観的になれるのは、私は頭のどこかでこれが夢であるのだと分かった。時折音もなく風が流れて、着流しの裾を揺らすのが不思議に思った。何となく袂に手を入れれば、そこには小さな何かがあった。はっとしてそれを取り出してみれば、それは小さな櫛であった。朱色の、綺麗な歯並みのそろったそれは、紛れもなく彼女のものであった。私は確かに、あの女から受け取っていた。しかしながら、私はそれを常に持ち歩いている訳ではなかったので、何故袂に入っているのか皆目見当がつかない。キツネにつままれたような心持で歩いておれば、気が付けば視界に真っ青な海が広がっていたのだ。そこは崖で、私はその崖の上で海を見下ろしている形となっている。潮風の温かさが塩梅良い。掌の中の櫛を握りしめながら、眼下に広がる青を改める。海猫が遠くで鳴いているのが聞こえる。白い雲が空高くに浮かんでいる。太陽の日差しは優しい。海を臨んでみると、不思議と懐かしい気持ちになる。すべてを包み込むそれは、まるで母の中の記憶を思い起こさせるようだ。もちろんそのような記憶などあるはずがないのだが、理屈ではない、もっと根本に近い何かが私にそう諭してくれるような気がするのだ。


「―――、」


誰かに名前を呼ばれたような気がした。私は呼ばれた通りに後ろを振り向いた。後ろには女が一人、こちらを見ながら立っている。女は表にいるにもかかわらず、なぜか寝巻の姿であった。そうして頻りに腹を押さえている。そして愛おしそうに、まるでいたわる様に摩る。潮風に吹かれて、その度に髪が靡いて、そうして心地よい香りさえする。その甘い人工的な香りと、潮の香りがあいまって目がちかちかとくらみそうになる。女は私をしっかりと見据えると、私の右手を見た。手の中には櫛がある。女は全てを悟った様な、非常に穏やかな表情を浮かべていた。私は瞬きを数回した。刹那の出来事であったが、瞬く速さはどこか長い間に感ぜられた。そうして数回と瞬いたのち、女の腕の中には突然塊が収まっていた。女は赤ん坊を抱いていた。女はそれを私に見せると一礼して、そうして泣きながら笑った。私はそれを見て目の奥が熱くなるのを感じながら、そうして足元から崩れそうな感覚を必死にこらえた。強く握りしめたせいか、掌の中の櫛は少しだけ湿気を帯びていた。ああ、身籠っていたのだ。紛れもなく、私の子を身ごもっていたのだ。私は誰も気づかなかったであろう女の秘め事を、初めてそこで知ったのだ。


「―――――、」


女は何かを一言いうと、微笑んだ。波の音と海猫の音とでそれは残念なことにかき消されてしまったようだ。照りつける太陽を臨んだ。視界が白く溶けてゆく。そこで私は重要なことにようやっと気が付いた。今一度前を向けば、そこには彼女の姿は無かった。唯一、淡い香りだけがそこに彼女が確かにいたのだと私を慰めた。掌の櫛を改めながら、頬に伝う涙を出まかせにした。


今日はたしか、妻の三回忌だった。


2012.04.28.

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