報われない猿飛 好きの反対は何と聞かれたので、何となしに嫌いかなと答えれば彼女は心底可笑しそうに笑って、それからすこしだけ寂しそうな笑い交じりの声色で無関心だよ、と答えた。なるほどねと内心感心したけれど、それ以上は追及しなかった。手渡された鋏は以外にも普通のそこらへんにあるような鋏ではなくて、本当にしっかりとした銀色に光るそれらしい鋏だった。そっと触れればひんやりとして冷たくて、太陽の光に反射してきらりと光る刃の部分は実に切れ味が良さそうで少しだけ緊張してくる。 「これ美容院の本物の鋏?」 「うん。何か家にあったから。」 「あれ、実家美容院か何かなの?」 「違うよー」 目の前の歳の変わらない女は淡々と答えて、あらかじめ持ってきていたらしい手作りの大きなゴミ袋に首と両腕を通せるように穴を開けた物を何のためえらいなしに被った。見た目は正にテルテル坊主か、出来そこないのレインコートをポンチョにしたものにも見える。昼間の公園にこんな変なのが出現したら周りの人に何か言われないか何となく心配になったが、もとより彼女は人の目を気にするような性質ではない。それを今まで腐れ縁とはいえ長いこと付き合っている自分としては十分に分かっていたのであえて突っ込まなかった。 「よし。じゃあまず霧吹きで水掛けなきゃだから、なまえちゃんそこ座って。」 「はあーい。」 まるで幼い幼稚園児がお母さんやお父さんに返すような間延びした返事をすると、彼女は傍にあった公園に設置されている木製の小さなまるたの椅子に腰かけた。椅子は全部で四つあって、木製の丸いテーブルを囲うように土に直接埋め込まれている。このような椅子とテーブルがセットになったものがこの公園にはあといくつかあった。傍のテーブルには新聞紙を敷いた上に先ほどの鋏(プロ仕様)、水の入った霧吹き、ファー/ファーで洗ったふんわりとしたいいにおいのタオル、鏡にコームなどの櫛がいくつか並んでいる。昼下がりの日差しがそれらを優しく照らしていて、触るとどれも温かくなっていた。 「つめたー」 「我慢我慢。」 シュッシュッと丁寧に毛先を中心に霧吹きを彼女に掛けてゆく。その都度なまえは冷たいだとか、くすぐったいだとか言っては首をよじったり肩をすくめる。それを何とか制止して全体になじませると、今度はコームで手際よく髪の毛をといてゆく。しんなりとした髪は、少しの風では靡くことなく、すんなりとコームの言うことを聞いてくれる。しっとりとした髪の毛はつるつるとして間の抜けたような心地よさそうな表情で遠くの方でブランコに乗って遊ぶ小さな子供たちを黙ったまま見つめていた。いて気持ちがいい。#nama#の方も触られて気持ちがいいのか、かれこれ半年以上切っていないらしい髪の毛は当初パサついていて、烏のように真っ黒だった。なまえの髪の毛に振れているうちに、せっかくここまで伸ばしたのに本当にいいのだろうかと何となく躊躇われた。 「本当にいいの?」 「いいの、バッサリいっちゃって。」 「あとで後悔しても知らないからね、俺様。」 「しないしない、それより佐助さっさと切ってよ。」 「人使い荒くない?真田の旦那と変わらないよ。」 「っはは、」 溜息をつくと、今度はついに鋏を手にとった。ちょきん。ためしに空気を切ってみたらなんだか本当に空気さえ真っ二つにしてしまえるような気がした。一束、彼女の髪の毛を掴むと、ゆっくりと刃を開かせる。そう遠くない距離から、ブランコかーしーてーという小さな子供の声が聞こえてくる。長閑だと思った。 「どれくらい?」 「佐助の親指の長さ。」 「えー、もっとわかりやすく。」 「じゃあ十センチくらい。」 「十センチでこれくらいかな?」 「知らないよ、そんなの。適当でいいから。任せる。」 「それが一番困ること知ってる?」 そういえば彼女はまた屈託のない風に笑って見せた。ここのアングルから彼女を見ると、まつ毛の長さがよく分かる。とりあえず仕方なしに言われた通り自分の親指の長さを計ってゆっくりと指を動かす。ちょきん。乾いた音と共に一束の黒い髪が芝生の上に落下してゆく。そのさまがまるでスローモーションに見えた。そして切り落とした丁度の刹那、あっ、というなまえの声が聞こえて思わずぎょっとした。 「え、切りすぎた?」 「ううん。違うの。今髪の毛の叫び声が聞こえた気がして。」 「何それ。」 「何かそんな気がしたんだよ。ごめん邪魔して。続けて。」 「うん。」 言われた通り今度は黙々と続けてゆく。髪の毛がなくなっていくにつれて、足元には黒くてもしゃもしゃしたものが増えていった。緑の芝生の上に積もってゆく黒のそれはあまりにも不自然でみていると気色悪いような、でも不思議な気持ちになる。なまえは珍しく黙ったまま髪の毛を切られていた。最初は眠ってしまったのかと思ったがどんどん変わってゆく自分の姿を黙ったまま手鏡で確認している姿を見ていたのを見て少しだけ緊張が増した。本当にこれでいいのか、彼女が求めているのはこれなのか。心配で仕様がなかったが、もうここまで豪快に切ってしまえば後の祭りだ。 「……髪の毛切るだけでも印象って変わるんだね。」 「まあ、あれだけ伸ばしてたからね。」 「そっか。」 彼女はそう言って足元に落ちた自分の残骸をじっと見つめた。そして今度はバッサリ切った(切りすぎた)前髪を摘まむとくるくると弄んだ。二人頭上にはぽっかりと綿菓子の塊みたいな雲が一つ浮かんでいる。少しだけ肌寒い風は、切りすぎたなまえの前髪を優しく撫でた。 「……これで少しは忘れられるかな。」 本当に小さな声で呟いた彼女の声は、遠くで飛んでいる飛行機の音でかき消された。それを聞いて思わず切ろうとした手が止まる。そして鏡に映るなまえを気付かれないよう覗き込んだ。鏡の中には見慣れないバッサリと髪を切った短いなまえしかいなかった。あの男が好きだといった綺麗な黒髪で長髪のなまえの姿はもう、いなくなっていた。 「失恋して髪を切るなんて何かベタ過ぎない?」 「でもけじめはつけたいし。いつまでも噛み切らずにいたら諦められない女みたいで重いし。」 でしょ、と言ってなまえは椅子から立ち上がると、肩にかかった最後に切り落とした髪を払った。その様子を見ていたら無性に居た堪れないような、不甲斐ないような気持ちになって、彼女から視線を話すと、テーブルに並べられた道具を片し始めた。なまえは何事も無かったかのようにうーん、と唸りながら伸びをしていた。こうしてみると案外ショートヘアも似合うんじゃないだろうかとぼんやり思った。 「……俺様にしとけばよかったんじゃない。」 「え、」 ショートヘア嫌いじゃないし。小さくそういえば、彼女は目を丸くして此方を注視したまましばらく動かなかった。そして一息吐くといつものような屈託のない笑顔を見せた。 「からかわないでよ。佐助は私の親友だもん。」 「……そっか。ごめん。」 「うん。」 頷いたなまえの声が少しだけ震えていた気がして、やっぱり報われないなあ、と少しだけ心臓が苦しくなった。 2012.02.25. |