短編格納庫 | ナノ

伊達を救いたい

生きるということは、矢の降り注ぐ先の見えない真っ暗闇を只管歩み続けることだ。

雨が降るのは好かなかった。右目を失ってから幾ばくかは経っているものの、雨時の空気は少しばかり湿っていて、今はもう無くなって空虚と化した眼帯の向こう側が疼く。転がしていたコマにも飽いた。握っていた綱を力なく落とすとそれは力なく畳の上に落ちた。小十郎を呼ぼうかと先ほどから思い立っていたが、今呼べば恐らく否応言わずに漢籍を読めと例の剣幕で叱責されることは目に見えていたので呼ばなかった。だが流石に半時近くコマで遊んでいては流石に飽きてくる。小さな雨音が聞こえてきたのは溜息を吐いたとほぼ同時であった。机上に置かれた硯には未だに墨がすられてはいない。得体のしれない憂鬱は勉学をする意思さえ喪失させた。手持無沙汰になった両手を注視した。小さいそれは紛れもなく自身のものだ。ここ最近は剣術の稽古で所々に硬いたこが出来ていた。そして、この齢には不似合いなほどに関節が太くなっていた。片眼で見る世界にはとうに慣れた。慣れたが、未だしっくりと来ない。とてつもない空虚感と倦怠感、恐怖感にジンジンと目の奥が熱くなってくる。空腹にも似た、腹を数度釘にでも刺されているかのような感覚に吐き気さえ催しそうになる。苦しくて、眩暈さえ感じる。この感覚から―いつしたくとも、完全なる孤独の中では自身をこの苦しみから脱出させる術もなければ、わが身を助けてくれる救済さえなかった。

――……政宗様

何かに縋りたくて、瞼を閉じて脇腹を抱えたまま、這いつくばる様に障子に手を伸ばせば、ふと暖かな感触が伸ばした指先から感じ取れた。指先から伝わるそれは突き刺さる様に冷たい雪を溶かすような温かさと、自分の全てのを包み込んでくれるような心地よい感じがした。暗く息苦しかった視界が、一気に白く霞んでゆく。自分の中のきんと冷たくて暗い部分が、溶かされてゆくような感じがした。そしてとてもいい香油の香りが鼻孔に幽かに広がってゆくのがわかった。何となく、自分は今、ここに確かに生きているのだと実感して、無性に嬉しかった。






「……確かアンタはあの時そう言った。」
「もうずいぶんと昔のことにございます。」

いつもと変わらぬ室の畳みの上にはもうあの小さなコマは無かった。かわりに積み重なった書籍が乱雑に積み重ねられ、机上には書きかけの公書があった。相変わらず硯には墨がすられることなく真っ新だった。夕刻の暖かな橙色に染め上げられた世界は何とも言えないくらい美しかった。山の向こうに消えてゆく斜陽を見ながら、暫くはずっと黙っていた。遠くで一羽の烏が泣いている声が聞こえてくる。いつか見た随筆の情景が浮かびだされるようで、何時になく粋だなあ、とぼんやりと思った。隣では乱雑に置かれた書籍をため息交じりに整えようとする女の姿があった。女はあの頃とは少しばかり歳はとったものの、あまり変わらない風にも見えた。時折、女が動くたびに幽かに嗅ぎなれた香油のいい香りがして心地よかった。もう女とは長い付き合いになるせいか特に気には留めない。それはどこか長年連れ添った熟年の夫婦にも見て取れる。嫁を未だにとっていないせいか余計にそう感ぜられた。

「生きることは逆境の連続です。」
「……ああ。」
「でも、」

女は積み上がった書籍の塔の上に最後の一冊をゆっくりとおくと、一呼吸置いた。本当に不思議な女だと思った。女は久しくこちらをちらりと見遣ると柔らかく笑って見せた。頬に刻まれた笑窪はあのころと変わっていなくて少しだけ安心した。

「でも、歩み続ければいつかは光が見えてきます。希望は絶望の中で一等光ります故。」

女はそれだけ言って立ち上がった。そして少し肌寒いからと言って自分の羽織っていた絹の羽織を俺の肩に掛けた。俺はその動作をどこか他人事のように横目で見ていた。傍らに置かれた湯呑の中の茶は緑ではなく橙色に染まっていた。小さなアキアカネが湯呑にとまると暫くは羽をはたはたさせながらゆっくりと羽を休めていた。だが暫くするとどこからともなくもう一匹のアキアカネが飛んできて、共にどこかに行ってしまった。連なった遠くの山々の上をつがいらしい鳥が優雅に旋回しているのが小さく見えた。それが少しだけ羨ましく感じて、気付けば自分の手は傍にいた女の手を握っていた。

「俺の光は今も昔もアンタだ。」

女は少しだけ驚いた表情をした後、今にも泣きそうな、嬉しそうなわけのわからない妙な表情を見せた。あの頃とは比べ物にならないくらい大きくごつごつとした手で包み込むように触れた女の手は驚くほどに繊細で小さくて愛おしかった。

「私如きに、そのようなお言葉を。なんて勿体無い。」

それから力なく手を握り返した。懐かしい、あの感覚が蘇る。泣きながら笑顔をみせたこの女がこの世の中で一等光って見えた。夕日が沈んでゆく。


2012.03.14.

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