空耳かと思った。
すれ違う兵士に魔法を放ち、短剣を突き刺し、逃げ惑うメイドは適当に首裏あたりを殴っておく。振りでもいいから、気絶してほしい。 三郎のように、スマートにはいかなかった。何度も言うが、私は元来こういった作業に向いていない。スラムの飲食店経営者ですよ!
顔に飛んだ返り血を手の甲で拭って、荒い息をつく。その際に手の甲がぴりっと傷んで、あぁ、いつの間にか怪我をしていたのか。
「で、勘ちゃ……ん。何、その怪我」
振り返ったら、私よりひどい怪我の男がいた。 剣を払って、勘ちゃんが首を傾げる。二の腕からの出血が痛ましい。
腕を伝うように、ブラウスを赤が侵食していく。その色が袖の終わりまで到達して、液体へと姿を変え、表面張力だけでそこへ留まろうとする。
「あぁ、うん。怪我とかしちゃう俺もカッコイイかなって」 「馬鹿なんじゃないの?」
バングルに手を添えるも、ぐらりと眩暈を覚えて壁に身を預ける。自分のナップにないことはわかっていたので、背負ったままの雷蔵の荷物を漁った。 気力回復の栄養剤を拝借して、瓶のコルク栓を口で抜く。私が吐き捨てて床に転がったコルク栓が、じわりと血を吸い込んだ。
「エリコちゃん、怪我は?」 「私は大丈夫」
この栄養剤も、もう残り少ない。あまり無駄にはしたくないし、擦り傷程度なら走って戦うことに支障はないから。
「で、勘ちゃんさっきなんて言ったの?」
空耳でなければ、先ほど彼は。
「うん、お腹空いたなぁって」 「……そう」
今は、そういうことにしておこう。
自分の荷物を漁って、小さなグミを勘ちゃんに投げる。嬉しそうな声をあげて食べ始めた。
「三郎、大丈夫かなぁ」 「なに?エリコちゃん、あの男とそういう何かがあったの?」 「どういう何かよ。殺すよ」 「口悪くなったね、エリコちゃん……」
およよと泣きマネをしたところで、グミを食べながらじゃ信ぴょう性もない。
「冗談は別として」 「うん。そろそろのはずだね」
グミをごくんと飲み込んだ勘ちゃんは、急に真面目な顔をした。
「そう。あの三郎の言ったとおりにここまで来たし、おそらくこの先も正しい」
あとひとつ、廊下を越えて、その先の部屋。バルコニーへ出れば、その下は赤い花の庭だ。
そこが、不破雷蔵の処刑場。
行こう、なんて言葉は要らなかった。勘ちゃんと目が合うことすらもなく、同時に走り出す。
日が落ちるまで、あと10分もない。 廊下に、栄養剤のコルク栓がふたつ投げ捨てられる。これが私と勘ちゃん、最後の生命線だった。
いつかエリコちゃんにうたってあげたことがあったな。 あれは、ヒョウゴでのことだったか。 今夜は、青い月がでるだろう。この赤い花園に青い月光は、きっとひどく幻想的だ。
訳も分からないまま、勘ちゃんと僕は立花さんに捕まってここへ来た。 エリコちゃんは何か特別な存在らしい。詳しいことは教えてもらえないまま、今朝、僕だけがここへ移された。
エリコちゃんが、来なければいい。勘ちゃんはサルートの貴族だと、立花さんも言っていた。きっと彼だけなら、サルートに帰されるだけで終わるはずだ。
「もうすぐ日が落ちるな」
立花さんは苛立ったように言う。その横で七松さんも、眉を寄せて首をかしげた。
エリコちゃんが、逃げてくれればいい。 僕らのことなど見限って、無事に逃げおおせてほしい。
「どうするんだ、仙蔵。こいつ殺すのか」 「エリコが来なければ、致し方ない」 「長次に怒られるのは嫌だぞ」
処刑台で手首を縛られたまま、ぼんやりと彼らの会話を聞く。 ざくり、ざくりと、処刑台の下からは地面を掘る音だけが響いていた。
「……喜八郎、そろそろいいぞ」
立花さんが何度か声をかけても、その音はやまない。……1体どれだけ深い穴に落とされるのか。
「おい」
背後から、やや幼く尖った声がかかる。 エリコちゃんに、藤内くんと呼ばれていた子だ。
「なんだい」 「なぜあの女は来ない」 「それは、」
僕はやんわりと目を伏せた。
「僕らがそう望むからだ」
庭が静かなので、背を向けていても藤内くんの歯ぎしりが微かに聞こえる。
「……エリコさんは、なぜ」
目を伏せたまま、その言葉を聞く。
エリコちゃんは、どこにでもいそうな、ごく普通の女の子だ。 本人もまわりも、きっとそう感じている。スラムの人間にしては魔法の扱いも護身術もしっかりしていたけれど、旅を始めて、生きるためにさらにそれらに磨きをかけた。努力する子だ。
ごく普通の、どこにでもいそうな女の子で、努力ができる。 それが、今この世界でどれほどすごいことなのか。それは、本人はわかっていないだろう。
もう、日が落ちる。 立花さんが、僕の背後の藤内くんに合図する。それを止めようとしたのか、口を開いた七松さんが突然、背後を振り返った。
最後の細い光が、今にも途切れるその瞬間。
「ッ雷蔵!」
こんな大声を聞いたのは何年ぶりだろう。 驚きで目を見開く。長年僕を教え導いてくれたその人の姿が目に入った瞬間、藤内くんも驚きの声をあげて、そして。
いろいろな出来事が、立て続けにたくさん起こったような気がする。
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