男はそれきり私の言葉を無視して、さらに路地裏を突き進む。
「ねぇっ、ちょっと、待ちなさいよ!」 「お前、うるさいぞ。騒ぎを起こしたくない、静かにしていろ」 「お前じゃなくて、」 「エリコだろ」
ちろ、と振り返った目線に息が詰まる。鋭く細められた目、……雷蔵の顔のまま、なんてことを。 同じ顔でも、雷蔵なら、こんな目はしないはずだ。
「……知っていたの」 「監視対象の名前も知らないでどうする。……っと、ここらだな」
日は完全に落ち、松明の少ない路地裏では月明かりが頼りだ。今夜も赤い月なので、だいぶ見えづらい。 三郎とやらは私より視力がいいらしく、古びた扉の前で立ち止まった。
「余計なことは言うなよ」
何か言い返す前に、彼が扉を叩く。 ……余計なことって、なによ。今、もう、なにがなんだかわからなくて、大パニックなんですけど。
「はい、急患ですかぁ?」
開いた扉の先には、誰もいなかった。 というのも一瞬で、幼い声に目線を落とせば、黒髪の少年がまったりとこちらを見ていた。 随分と、小さい子供だ。まるで、
「きり丸の馴染みだ、中にいれてくれないか」
きり丸くんの、ような。
三郎の言葉に、子供は驚いたように扉を大きく開く。中へ一歩入って、三郎はすぐに荷物から1枚の紙を取り出した。
「お前が伏木蔵で間違いないな?これを」 「はいぃ、僕は伏木蔵ですが……」
三郎から紙を手渡され、伏木蔵くん?は燭台を寄せる。
「確かに土井先生の文字ですねぇ」
それから、彼の目は私へ。 三郎の目も、私へ。
「……えーっと」
慌てて、ナップザックを開く。何か、何か……あぁ、これが一応。
「きり丸くんのとこで買い物した、領収書なら……」
伏木蔵くんは手を伸ばしてくれたので、握らせてやる。やはり燭台の明かりで確認したあと、彼はこくりと頷いた。
「今夜の食事が少しですが残っています。よろしければ」 「そいつはありがたいな」
どうやら、伏木蔵くんの検閲はくぐり抜けることができたようだ。 装備を外して上着を脱ぎながら、三郎は室内へ進む。私も遅れて、それに倣った。
サルートの璧内も、こうなのだろうか。 オロゴスタ、大都市の内部とは思えないほど、大門の近くは荒んだ空気を感じる。壁の内部といえど、1番外郭の部分はスラムとそう変わらないのだろうか。 古ぼけた木材がむき出しになった室内に、暖かく伏木蔵くんが存在している。……不思議な空間だ。ふしきぞう、だけに。
「こちらへどうぞぉ。僕は少し、仕事をしますねぇ」 「遅くに悪かったな、ありがとう」
驚いた。短い間に受けた印象だと、三郎って謝ったり感謝したり、しないのかと思ってたから。 幼い子供には、優しいのかしら……。
仕事をすると言った伏木蔵くんは、部屋の奥でゴリゴリと何かを擦り始めた。うーん……臭いからして、薬草か何かかしら。 先程の第一声も「急患ですか」だったし……。ふと、かの男のことが頭をよぎる。
森に置いてきたけれど、……無事だといいな。
「で、あなた、なんのつもりなの」 「まぁ食えよ、せっかくの伏木蔵の好意だ」 「……いただきます」
三郎は相変わらず、雷蔵の顔のまんまだ。どういう原理で作っているのか知らないが、とかく腹が立つ。
硬いパンと、水っぽくて具の少ない粥。それでも、いつぶりの食事だろう。 空腹は一番のスパイス、なんて言葉を思い出す。あぁ、食事って、最高だ! 三郎に対する怒りも和らぐってもんだ。伏木蔵くん、本当にありがとう。
「ところで、お前が入り込んだことは今頃すでに立花には知れているだろうな」
やたら固くて臭みのある穀物が、気管に詰まる。ゲホゴホと、抑えきれない咳がでた。 突然そういう話をされるとむせるので、やめていただきたい。
「な、に、とうと、つに」 「おやぁ、お水をどうぞ」 「ありが、とう」
たたたっと寄ってきた伏木蔵くんに差し出された水を、一気に飲み切る。 三郎はテーブルに肘をついてニヤニヤとこちらを見ているだけだ。腹が立つな。
「で、なんですって?」
落ち着いてからにらめば、肩をすくめる。行儀悪く肘をついたまま、器用なことだ。
「お前、自分の状況を自覚しているのか?ここはオロゴスタだぞ」 「現在地くらいわかってるわよ。それとお前って言わないで」 「王政府が作った第二のサルートだ。敵地にのこのこと入り込む危険はわかっているのか?」 「話聞いてる?」
食事は終えたらしい三郎が、荷物から世界地図を取り出して広げる。 テーブルの上の皿を避けてやるついでに、三郎が残したパンを自分の皿にちょろまかした。
「太るぞ」 「刺すよ」
三郎の細い指が、世界地図をなぞっていく。 あんなに強そうな弓を、こんな細い指で扱っているのか。……武器は見掛け倒しってオチじゃなかろうな?
「ここが、サルート」 「……知ってる」 「お前と赤毛の男、それから、ライゾー?はここからヒッポタウンへ、そして、ヒョウゴ」 「違う、ここの沼地は突っ切った」 「……マジかよ」 「ヒッポグリフよ」 「あぁー……?」
傲岸不遜なこの男も、知らないことはあるらしい。 なんだかちょっと、その、嬉しいぞ。
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