「エリコちゃん、使いたい名前ある?」
「は?」

店を出る前、土井さんに聞かれた私は、首をかしげた。

「私はツチイと名乗るつもりだ、もちろんきり丸もね。尾浜はビヒン」
「ビヒン」

備品……?
いやでもなるほど、そういうことか。本名フルネーム、サルート王政府にバレてるわけだし。
じゃあハチさんはチクタニ?雷蔵は確か、不破だっけか。ブ……ハ……?

私は曖昧に笑った。私に名乗る苗字なんて、ないから。

「えっと、じゃあ……ヨシノリ、で」

土井さんは少し不思議そうな顔をしたけれど、うんと頷いてくれた。うん。
ヨシノリ。懐かしい名前だけど、彼は元気かしら。












船の旅は思った以上に快適だった。

「偽名使わなきゃいけないくらいだから倉庫に潜り込んだりするのかと思ったら」

部屋の隅で呟く。さすがに男女別は無理っした!と笑うきり丸くんを仕方なくの体で許したが、正直、部屋をもらえただけでありがたい。

今部屋にいるのは私と、真っ青な顔で眠りこける雷蔵、荷物の整理をする土井さんだけだ。
きり丸くんはあっさりと商売にでかけ、何故か元気いっぱいの勘ちゃんは七松さんから逃げるように船を探検しに行った。
ハチさん?船をだす前から青い顔で甲板から動かない。胃の中すでに空っぽじゃないのかな。

「君は、海を知っていたのかい?」

やはり乗り物酔いで呻いている雷蔵に気休めの回復魔法をかけていると、土井さんに問いかけられる。

そりゃあ……いかにも体力ありそうな雷蔵やハチさんがこの調子だ。サルート出身と聞いたら、船で酔わない方が違和感が残る。

「勘ちゃんだって元気いっぱいですよ」

質問には答えないまま、それだけ言う。
船室の中だ、偽名は使わなくても大丈夫だろう。
背後で土井さんは、柔らかく笑ったようだった。

「私は長いこときり丸の面倒を見てきたが、情報屋の商売は手伝ってないよ」
「……それが?」
「伝手も多い。仲間が世界中にいてね」

だから、なんだと言うのだろう。
雷蔵の手首を放し、首だけで振り返る。

土井さんは、面白いものを見る目をしていた。

「王政府には潜り込めないが……困った時は、頼ってほしいところだ」

なるほど、大人の力ってヤツかしら?
実際、このご時世にあんな幼い子供を連れて行商の旅が出来ているというのは、彼の強さを示しているだろう。

なにか、土井さんに気に入られるようなポイントでも、あったかしら。
思い当たらないなぁ。

私は首だけで振り返ったまま、微笑みかけた。

「残念、土井さんってば、あんまり私のタイプじゃないんです」
「それは、残念だなぁ」
「ふふっでも、困った時はうっかり口を滑らせて、名前を呼んでしまうかも」

彼の名前が、一体どれだけの効力を持つのかわからないけど、でも。
きり丸くんの伝手だけでも、今まで随分助けられてきた。
きり丸くんは私の素性を少し知っているようだったけど、土井さんはどうなのかしら。

全部知っていても、王政府より私を選べるのかしら。

「楽しみにしておこう」

土井さんと2人、目を伏せて笑う。

勘ちゃんの勢いだけが全てのこの旅、何が起こるかわからない。
使えるものはすべて使うべきだ。でも、きちんと選んでいかないと。

「さて、そろそろ七松が戻ってきてしまうよ。見つかる前に、他の連中の様子でも見に行った方がいい」
「そうですねぇ」

土井さんがいるから、雷蔵は大丈夫だろう。寝ることで少しでも楽になればいいんだけど。
ハチさんは胃の中のもの、全部吐ききったかな。そちらの様子を見に行くか。













船室をでてすぐ、何やら甲板が騒がしいことに気づいた。
嫌な予感がする。階段を全速力で駆け上がる途中、すれ違った船員の叫び声を聞いた。

「ーーモンスターだ!」

自分の血の気が引く音が、聞こえた。

ハチさんも雷蔵も船酔いだ。勘ちゃんだって、最初は元気だったけど、もともと海は知らないはず。電池が切れたら……ってことも考えられる。

なにより、きり丸くんだ。

甲板はたくさんの人が走り回っていて、ヒョウゴタウンの人混みを思い出させた。

私もとにかく足を動かして、甲板の隅々へ目を光らせる。
名前は、呼べない。呼べないけれど、

「……いた!!ちょっと、おいで!」

行商の荷物を抱えたきり丸くんを、とっさに荷物ごと抱えあげる。

「は!?ちょ、……えーと、……ヨシノリさん!」
「ここは危ないよ、ツチイさんと一緒にいな!」

そのままダッシュし、階段の上まで行く。下に黒い衣の裾が見えたので、きり丸くんを勢いよく投げ落とした。

「っはーー!?」
「お願いします!」
「君も早く!」

きり丸くんを見事にキャッチし、片手できり丸くんの荷物までも無事救出した土井さんが、こちらを見上げる。

「いいえ、私は大丈夫です」

彼の両手が埋まっているうちに、ドアを外側から閉めた。

あとは、船酔いの男共を同じように、ここから投げ落とさねば。