- ナノ -



プロローグ




「魔族は殺せ!」
「皆殺しだ!」

人間の怒号が聞こえる。
あちこちから火の手が上がっている。
魔王グラマリオンが討たれ、浮遊大陸が落ちた今、魔族に安全な場所はない。
人間は、魔族を皆殺しにするつもりだからだ。

「はあ…っはあ…!」
戦場を、一人の少女が走っていく。足が縺れて転びそうになりながらも、彼女は歩みを止めない。
その少女は、ぼろぼろのメイド服を身に纏い、紫の髪に緑の瞳を持つ、可憐な少女だった。
一見戦場に不釣り合いなその少女は、魔族の象徴である尖った耳を持っている。浮遊大陸の落下に巻き込まれた、魔王城の使用人であることが見て取れた。
息が上がりながらも走り続け、激戦区を潜り抜けた彼女は、手頃な洞窟に転がり込む。
洞窟は広く、奥まで行けば、人間に見つかることはなりそうだ。
「はあ、はあ、はあ…」
洞窟の最深部の壁にもたれかかり、少女は、ズルズルと座り込んだ。

「そっちに逃げたぞ!」
「殺せ!逃すな!」
洞窟の入り口のほうから、人間の怒号が聞こえてくる。少女は、今に自分も見つかるのではないかと震えていた。
今も、逃げ遅れた仲間が殺されているんだろう。
最後の力を振り絞って、戦い抜いて、死んでいっているんだろう。
自分も加勢したい。でも、それはできない。
戦う力はもう残されていないし、今殺されたら、彼女の、「何より大切な人」との約束を破ってしまうから。

─────必ず生き延びろ。俺が迎えに行くまで。

自分を射抜く赤い瞳。凛とした声。
それらは、彼を信じ抜く、そんな強さを自分に与えてくれているようだった。
だから、少女は逃げた。逃げて逃げて、ここまで落ち延びた。
少女は自分の左手を見る。左手の薬指には、自分の髪と同じ色の宝石をあしらった指輪がはまっている。
彼女はそれを見て、息を吸って、吐いた。
魔王グラマリオンが斃れた今、彼女の、「何よりも大切な人」も、窮地に陥っているだろう。しかし、彼は魔界でもトップクラスの実力者。しかも、嘘を吐かない人物だ。
その彼が迎えに行くと言ったのだ。信じるしかない。絶対に迎えに来てくれる。
だから、彼が迎えに来てくれるまで、なんとしても生き延びなければならない。
少女は、両手を複雑な形を作るように組む。それを素早く、形を変えて繰り返す。すると、彼女の姿が見えなくなった。
これで、人間に見つかることはない。
透明になった少女は、そのまま休眠体勢に入る。

─────大丈夫。必ず彼が迎えに来てくれる。

そう信じているはずなのに、少女の心は、寂しさで押し潰されそうだった。
少女は、意識を手放す直前、誰にも見えない涙を流しながら、呟いた。

「会いてぇです…ベリアル様」

こうして、魔族の少女、ヤヨイは、長い眠りについた。


 

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