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ある日の朝。 魔王城の廊下を、ふらふらとおぼつかない足取りで歩く人影があった。菫色の艶やかな髪はボサボサで、いつもは美しく輝く金色の瞳も、焦点が合っていない。 そう、三魔将の一人であるアスタロトは、いつもなら仲間に絶対見せないような弱々しい姿で廊下を歩いていた。 「あー…」 身体が重い、寒気がする、視界が霞む。やはり、薬品の実験で夜更かしした上机に突っ伏してうたた寝したのがいけなかったのか。 そんなことを考えていると、頭まで痛くなってきて、アスタロトは顔を顰めた。 完璧に体調を崩した、ということをアスタロトは理解していた。しかし、魔王軍の幹部として、やらなければならない仕事はたくさんある。こんなことで休んでいられないと、彼は思うように動かない身体に鞭打ち、執務室に向かっているのだった。 と、廊下の向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。しかし、霞む視界では誰なのかはっきりしない。唯一判別出来るのは、歩いてきた人物が纏っているのだろう青いコート。この色の服を着ている人物を、アスタロトはよく知っていた。 「アスタロト、おはよう…って、ちょっと、顔が真っ赤じゃないか!」 「オルフェウス、さん…」 予想通り、自分の恋人の声が聞こえる。しかし、愛おしい声ですら、頭に響いて頭痛を悪化させる。そして、ついにアスタロトに限界が来た。 視界が真っ暗になり、恋人、オルフェウスの慌てた声が遠くに聞こえ、アスタロトは意識を失った。
温かく、柔らかいものに身体が包まれている感覚に、アスタロトの意識が浮上した。ゆるゆると目を開けて、周りを見る。自分の寝室だった。額に、何かが載せられているが、怠くて手足を動かすのも億劫で、取り払うことはできなかった。 と、ガチャ、とドアが開く音がして、誰かが入ってきた。そちらに目を向けると、青いコートと銀髪が見えた。 「アスタロト、気がついたか。」 先程廊下で会った恋人、オルフェウスが桶とタオルを持ってアスタロトを覗き込んできた。 「いきなり倒れたから驚いたよ。ここまで運ぶのも骨が折れた。ティターニアが診てくれたが、風邪だそうだ。」 「すみません…」 オルフェウスが苦笑して言うので、アスタロトは素直に謝罪する。自分のミスで、愛しい人にまで迷惑をかけてしまった。自分が許せないと、アスタロトは感じた。 しかし、オルフェウスはアスタロトを安心させるように微笑んだ。 「責めてるわけではないんだ。みんな君を心配していた。魔王様からも、今日は君をゆっくり休ませるように言われた。」 「しかし…」 食い下がるアスタロトに、オルフェウスはぴしゃりと言った。 「そんな身体で何ができる。今日は休むんだ。俺が側にいるから。」 オルフェウスはアスタロトの額に置かれていたものを手に取る。濡れたタオルだった。タオルを桶の中に入れたオルフェウスは、アスタロトの額に手を置く。ひんやりとした恋人の手が気持ちよくて、アスタロトはゆっくり息を吐いた。 「まだ熱があるな。もうしばらく寝ているといい。」 そう言われたアスタロトは、怠い身体に鞭打ち、オルフェウスの服の袖を掴んだ。 「もう少し、ここ、に…。」 なんとか口を動かして、オルフェウスにおねだりをする。オルフェウスは、とろんと蕩けたアスタロトの顔を見て、優しく微笑んだ。 「いつもこれくらい、甘えてくれたらいいのに。君は無理をしすぎだ。周りを、俺を頼ってくれ。」 そう言って、オルフェウスはアスタロトの頬に手を添えた。 「オルフェウスさんの、手、ひんやりしてて、きもちいい…」 アスタロトは、頬を手に擦り付けて甘える。 「そうか?氷の魔法を使っているからかな…ほら、そろそろ寝るんだ。」 オルフェウスが優しい手つきで頭を撫でてくれるのを感じながら、アスタロトは眠りに落ちていった。
次にアスタロトが目を覚ましたのは、部屋に夕日が差し込む時間だった。 身体の怠さは消えて、視界も良好。アスタロトは、ゆっくりベッドから身体を起こして、部屋を見回した。部屋は自分しかいない。 そう思ったとき、ドアが開く音がして、オルフェウスが入ってきた。 「起きたか。顔色も良さそうだな。果物を持ってきたが、食べれるか?」 「ええ。」 アスタロトが頷くと、オルフェウスはベッドサイドの机にお盆を置き、その上に載っていた皿をアスタロトに差し出す、が。 「……。」 アスタロトは受け取らない。オルフェウスが訝しげな顔をすると、アスタロトが口を開いた。 「食べさせてください。甘えていいんでしょう?」 そう言われて、オルフェウスはようやく合点がいったようだった。切り分けた果物をフォークで突き刺し、アスタロトの口元に持っていくと、アスタロトは素直に果物を食べた。 「元気になってくれて良かったよ。まあ、今日明日は安静にしているように、とのことだ。」 「明日もですか?」 アスタロトが不満そうな顔をする。オルフェウスは苦笑して言った。 「完治するまでは我慢するんだ。その間、俺が思いっきり甘やかしてやるから。」 そうして、またアスタロトの頭を撫でるオルフェウス。そして、とどめとばかりに頬をキスをした。アスタロトは真っ赤になったが、すぐに言い返した。 「なら、明日も目一杯あなたをこき使ってあげますよ!」 そう言って笑ったアスタロトの顔は、とても幸せそうなものだった。
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