Надеемся
- ナノ -


▼ プロローグ

─────貴女は時に、誰よりも残酷だ。







穏やかな午後。高級住宅街の一角にある家の門の前で、俺は足を止めた。表札には、「森」と書いてある。インターホンを押すと、スピーカーから、「はぁい」と優しい声が聞こえたので、名前を名乗ると、家の中から、パタパタと慌ただしい足音が聞こえてきた。ガチャリと音を立てて玄関のドアが開く。そして、
「四迷君!いらっしゃい!」
俺が誰よりも愛した人が、優しい笑顔を浮かべて現れた。
「お久しぶりです。逍遥さん」
「本当に久しぶりだねぇ。四迷君ったら、全然遊びに来てくれないんだもの!」
逍遥さんが不満気な顔で言う。その表情が可愛くて、美しくて、心の奥底に閉じ込めたはずの想いが暴れ始める。しかし、それを逍遥さんに悟られぬよう、俺は苦笑を浮かべて、すみません、とだけ言った。
本当は、この家に来たくはなかった。愛する人が、「俺以外の人」と幸せになっている姿を、見たくなかったからだ。そんな俺の気持ちも知らず、逍遥さんはにこやかに話を続ける。
「でも、今日会えて嬉しいよ!四迷君に、『私達の娘』を紹介できるんだから!」
「私達の娘」。その言葉に、胸がずきりと痛む。もう逍遥さんは俺の手の届かないところにいるのに、諦めの悪い自分が嫌になる。もう今すぐ逃げ出したい。しかし、きっと逃げ出したら、二度と逍遥さんに会えなくなる気がして、俺は踏みとどまった。
「え、えぇ。ご出産、おめでとうございます。これ、出産祝いとお土産です。」
「わあ、ありがとう!あ、立ち話もなんだから、上がって上がって!」
なんの悪意もない顔で、逍遥さんは俺を家の中に導く。断るのも変なので、俺は彼女に従い、門をくぐった。



「鴎外君は仕事なんだ。きっと会えなくて残念がるよ。」
案内されたリビングのソファーに腰掛けて、逍遥さんの話を聞く。紅茶を淹れ、土産のケーキを切り分けてくれている逍遥さんが話題に挙げたのは、彼女の夫…俺の友人であり、誰よりも憎い恋敵、森鴎外のことだった。逍遥さんは俺と鴎外は仲良しだと思っているが、俺としては鉢合わせなくて良かったと思う。お互いどんな顔して会えばいいのかわからないし。
「またいつでも会いに来ますよ。」
俺は心にもないことを言った。彼女の幸せを喜べない醜い自分を隠す為に。幸い、俺の醜い部分は、逍遥さんに気づかれていない。逍遥さんは、特に俺の態度を訝しがることもなく、嬉しそうに笑って、他愛のない話をし始めた。話から推測できる彼女の日常は、大層幸せそうで、それもまた俺の心を締め付けた。
地獄のようなおしゃべりタイムは、逍遥さんのはっとした顔で中断された。
「あ、そうだ!四迷君に、私達の娘を紹介しなくてはね!」
そう言って彼女は、俺を家の中のある一室に案内した。
そこは、子ども部屋だった。部屋の中心には、ベビーベッドが置かれ、天井からは気球を象った子ども用のモビールが吊るされている。部屋のあちこちにぬいぐるみが飾られ、隅には高価そうなおもちゃが積んである。まだ立てもしない赤ん坊なのに、立派な部屋やおもちゃを与えられているところを見ると、逍遥さんと鴎外の夫婦が、どれだけ生まれてきた娘を溺愛しているかがわかる。きっと、何不自由なく育っていくんだろう。
「四迷君、入って入って」
逍遥さんが小声で呼びかけてくる。娘は寝ているようだ。
「見て。この子が私達の娘…名は、『茜』だ。可愛らしいだろう?」
ベビーベッドをそっと覗くと、逍遥さんの言う通り、とても可愛らしい赤ん坊が眠っていた。まだ夫婦どちらに似るのかは判断できないが。
「えぇ。本当に愛らしい子です。良かったですね。」
「あぁ、私と鴎外君の、絆の結晶だ。」
そう言って逍遥さんは、愛おしげに目を細めて、茜を見た。慈愛に満ちたその目は、もう、「母親」のそれで、俺の心はぐちゃぐちゃになる。ああ、この場から逃げ出したい。もう彼女の幸せを見たくない。
俺がぐちゃぐちゃの心を押さえつけていると、逍遥さんは笑みを消して、俺に向き直った。
「四迷君、頼みがあるんだ。親友である君に。」
「…はい。」
嫌な予感しかしないが、この場から離れられない。だって、このタイミングで頼みだなんて、そんなの…。
「もし、もしも、私や鴎外君に何かあったら…その時は…この子を…茜を、守ってあげてほしい。」
「俺が、ですか?」
あぁ、なんで、なんで。俺はこんな役回りなんだ。誰よりも愛した人と憎き恋敵の子を守れと?それがどんな地獄か。俺はただ恋をしただけなのに、どうしてこんな責め苦を味わわねばならないんだ。
「図々しい頼みだとはわかってる。しかし、一番信頼できるのが四迷君なんだ。どうか…」
「…わかりました。」
母親の顔をした逍遥さんに耐えられず、俺は頷いてしまった。逍遥さんは美しく笑う。
「ありがとう、四迷君!」
「何も起きないことを、願っていますよ。」
その言葉は、偽りのない本心だった。どういう意味かはさておき。




─────あぁ、貴女はなんて残酷な人なんだ!