リクエスト | ナノ

▼ (後編)
「もう……今日は一体なんなのよ」

地獄のような休憩時間が終わり、逃げるように職務に戻ったしおりは大量の洗い物を洗濯機に放り込みながら息をついた。
荒北にしろ、新開にしろ、今日の彼らは奇行が目立ちすぎる。

もしかして暑さでやられてしまったのだろうか。だったら今後のメニューを考え直さなければならない。
だって、この暑さの中で我武者羅にペダルを回したとしても決して集中は出来ないし、効率の良い練習になるとも思えないのだ。

……今日は、強化トレーニングではなくストレッチ中心の練習に切り替えよう。
そんなことを考えていると、不意にバタバタとこちらへ駆けてくる足音がして、しおりは何事かとそちらへと振り返った。

ひょこりと顔を出したのは、部の先輩だった。その姿を見てしおりは、おや、と首をかしげる。彼は確か、最近平坦のタイムが思わしくないとのことで他の先輩にペースメーカーを頼んで学校の外周を走っている筈ではなかったか。部室にあるホワイトボードにも『外周中』と書かれていたはずだが。

そんな彼女の疑問をよそに、先輩はしおりの顔を見るなり「おー、いたいた!」と嬉しそうに顔をほころばせる。どうやらしおりを探しに来たらしい。
何の用だろうと改めて先輩に向き直れば、彼は突然パン、と勢いよく顔の前で手を合わせ、懇願のポーズをとりながらしおりに頭を下げてきた。

「佐藤!今からオレのペースメーカーしてくれ!」
「え……?」
「相方がこの暑さでやられちまってさ。オレ、少しでも早くカン取り戻したいんだ。頼むよ!」

なるほど、そういえば来週は隣町で個人戦の大きなレースがあり、この先輩を含め、我が部からも多くの選手が参加予定なのだ。個人戦ということもあり、レースに参加する他の部員は皆自分の調整に余念がない。そんな中でスランプ脱却のための練習相手を失った彼の焦燥と言えば、想像に難くなかった。

女とはいえ、ブランクがあるとはいえ、しおりとて自転車乗りの端くれである。そんな自分でも役に立てるなら、と快く受け入れようとすれば、彼女が応えるより早く、低い声が返事をした。

「それならオレがやりましょう」

驚いてそちらに顔を向けると、いつからそこにいたのか。そこには福富が立っていた。
彼からの突然の申し出に狼狽えたのはしおりだけではない。ペースメーカー代理の話を持ちかけた先輩も、彼の姿に困惑を隠せないようだった。

何故なら、福富も来週のレースに参加予定なのだ。彼と先輩は、いわばライバル同士。いくら同じ部の先輩後輩とはいえ実力主義の箱根学園自転車競技部では、自身の参加するレースを何より優先するというのが暗黙の了解なのだ。
福富とて、今までそうやってのぼりつめて来た。なのに、何故いきなりこんな行動に出るのか。

あれやこれやという間に、結局福富がペースメーカーをするということで話がまとまったらしい。去っていく二人の後姿を見送りながら、しおりはモヤモヤする胸を誤魔化すように、洗濯機のスタートボタンを押した。

水が洗濯機内を満ちていく。洗濯物がプラスチック窓の奥でぐるぐると回っている。

「本当に、皆どうしちゃったの?」

揃いもそろってらしくもない。いつもの無鉄砲で、破天荒な彼らではない。何だか急に別の人になってしまったみたいだ。
言いようのない虚しさを感じて、ずるずると力なく洗濯機の傍にしゃがみ込む。寸胴な鉄の胴体にピトリと額を押し付け、目をつむった。

……ひんやりとしていて気持ちが良い。

中で回る洗濯物の振動が頭の芯を揺らして、まるで酔ってしまったかの様に思考がボンヤリとしてくる。

遠くで聞こえるセミの音が。誰もいない洗濯室のガランとした空気が。悲しくて寂しくて、酷く心細くなった。

ふと見上げた部屋の片隅の設置された温度計は37℃を示している。
――こんなに暑いのに、酷く寒い。

膝を抱えて暖を取ろうとしたが、ダランと伸びきった肢体は、伸びきったまま思い通りに動いてはくれない。
メニュー変更を、皆に伝えなければいけないのに。午前中に干した洗濯物を取り込まなければならないのに。

急激に暗くなっていく視界に、抗うことも出来ずに意識を手放したのだった。










コツ、コツ、コツ、コツ。
頭の中で、足音が聞こえた気がした。その音が、迷いなくこちらへ向かってきてしおりのすぐそばで止まる。しゃがみ込んだ優しい気配が、顔に張り付いた髪の毛をそっと払うように触れてきて、しおりはいつの間にか閉じていたらしい重い瞼を微かに開けた。

見覚えのある顔だった。
普通にしていれば綺麗な顔が、苦々しく歪んで泣きそうにこちらを覗き込んでいる。

「とうどう、くん」

掠れた声で呼べば、その人は尚更表情を堅くして、弛緩したしおりの身体を気遣うように自分の方へと引き寄せた。

「……馬鹿者。皆の世話ばかり焼いて、自分の体調の変化にも気が付かないのか」

そう言われて、初めて自分が体調不良を引き起こしているということに気が付いた。
いや、多少はおかしいと感じていた。けれどそれはマネージャー業の忙しさによる疲れだとか、この暑さからくるダルさだと思い込んでいたのだ。

そんなしおりに、東堂は呆れたように息を吐く。

「少しの無理ならオレたちだって目をつむる。けど、しおりのこれはやりすぎだ」

厳しい言葉とは裏腹に、しおりの背中をさする手の動きは優しい。その感触に少しだけ体が楽になる気がして、熱い息を吐き出しながら、しおりは今日のことを思い出していた。

そうか。無理やりドリンクを飲ませてきた荒北も、ジャージを着せてきた新開も、ペースメーカーを肩代わりしてくれた福富も。
皆、しおりの変化に気が付いていて、だからあんな不器用なフォローをしてくれていたのだ。

おかしかったのは、彼らではない。
……自分だ。

やっと合点がいって、しおりは自嘲気味に笑う。
自分の体調不良にも、彼らからの気遣いにも気が付けなかった自分が酷く情けなかったのだ。

流れ落ちる涙は、涙腺が壊れてしまい止まることも知らずに溢れてくる。荒い息と、苦しげな嗚咽。子供のように泣きじゃくる彼女を、東堂は黙って背負い、持ち上げた。

背中に感じる彼女の体温は、猛暑の気温よりも熱く、そして酷く軽い。力の入らない彼女を落としてしまわないように慎重に歩を進めていると、不意に背中の彼女がうわ言を漏らす。

「と……どう、くん。東堂、くん」
「どうした」

自分の名を呼ぶ彼女に返せば、可哀そうなくらいに息も絶え絶えの彼女が小さな声でつぶやいた。

「迷惑かけて、ごめんなさい」
「……なあに、構わんよ」

早く元気になってくれればそれでいい。皆もそれを望んでいるのだ。

言えば、また背後から彼女の情けない嗚咽が聞こえてくる。なりふり構わず泣く彼女の普段とのギャップに、東堂は少し笑って、慰めるようにしっかりと背負い直した。






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