リクエスト | ナノ

▼ (前編)
自転車乗りにとっての最大の敵とはなんだろうか。
『自分自身』?『弱気な心』?いや、違う。別にそんな詩人のようなことを問うているのではない。

答えは酷く簡単だ。『気候』なのでである。
だって良く考えてみて欲しい。ロードバイクというものは、トップスピードこそ自動車のそれと同等の速さになり得る乗り物だが、その運転手は鉄の塊に身を守られているわけでも、エアコンで温度を快適に調節できるわけでも、はたまたガソリンを原動力として動くわけでもなく、ただただ丸腰なのである。

激しい雨も忌々しい風も、夏の暑さも冬の寒さも。厳しい自然からの試練を全て身ひとつで受け止め、ペダルを回し続けなければいけない。
よって、自転車乗りの敵はいつだって『気候』なのだ。



――眼下に広がる炎天下の街を、部員たちはただボーッと眺めていた。

気温は何度だろう。考えたくもない。目の前に続く道には蜃気楼が揺らめき、今朝打ち水をしたばかりのそこは完全に干上がっている。その事実だけで、今日の暑さの凶悪さは容易に想像がつくというものだ。

走ることだけが取り柄の自転車馬鹿な男たちも、さすがにこの気候というやつには抗えない。照りつける日の光に身を焼かれ、熱風と呼んでも差し支えない風を浴びれば、どんなに屈強な男たちと言えどもたちまちに参ってしまうのだ。

けれど、そんな暑さなど感じていないとでも言うかのように真夏のカンカン照りの下を走り回っている少女が一人。
彼女こそ、箱根学園自転車競技部のマネージャー。佐藤しおりその人だった。

「ドリンク足りない人はすぐ言ってください!保冷剤もあります!」
「マネージャー、保冷剤の数足りないよー」
「じゃあ冷えピタ貼ってください。そっちも冷えてるから!あ、塩アメ欲しい人誰でしたっけ?」

タオルやドリンクを配り歩いては、暑さで気力を削がれて死にかけている男たちに喝を入れて回る彼女の姿は爽快だ。
部員たちの様にロードバイクに乗っているわけではないとはいえ、部員数十人の大所帯の面倒を見る彼女の仕事量と言えば、まさに息つく暇もないほどだ。

「マネージャー、午後からのオレのフォーム見てよ。なんか暑さで変な力入って崩れてる気がして」
「はい、じゃあ午後のアップ始まる前にローラーで確認しましょうか」
「佐藤!テーピング切れたんだけど新しいのってドコだっけ?」
「部室の棚の上から二段目です!」
「マネージャー!次こっちー!」
「はあい!」

部活の際、大好きな自転車に関わっているからか、彼女はいつもニコニコとしている。どんな面倒なことも、どんな些細なことだって、笑顔で聞き入れ、真剣に対応してくれるのだ。

それでも部員があからさまにサボったり、スポーツマンシップに欠けるような行いをすれば相手が誰であろうとも叱ったりはする。しかし、甲斐甲斐しく世話を焼き、見守ってくれる彼女の存在は、さながら母親のようなもので、暑さにやられた男たちは、彼女にここぞとばかりに甘えることで、自分たちの英気を養っているのであった。







――アブラゼミが、一生に一匹だけのつがいを求めて必死で声をあげている。

セミの決死の猛烈アピールと、部員たちが必要以上にしおりを呼ぶ甘ったれた声が重なって、聞いているだけで頭が痛くなってきそうだ。
木陰で独り休憩していた荒北は、長く、深いため息をついてから重い腰を上げた。

「しおりチャン、ちょっとイーイ?」

1年部員と練習メニュー確認をしている彼女を呼べば、その顔がパッと荒北の方へ向けられ、
答えるようにヘラリと表情を崩す。それははまさしく無邪気と呼ぶにふさわしい笑顔だった。

少し日に焼けた健康的な肌が眩しい。
思わず彼女の手を取って連れて行きたくなる衝動をグッと我慢しながら、荒北は手に持っていた物をぶっきらぼうに彼女へと差し出した。

「……飲め」

そう促したのは、部員用のスポーツドリンクだった。メーカーのイメージカラーであるブルーを基調にした涼しげなデザインのそれ。まだ作り立てで、ボトルを揺らすたびに中で氷がカラカラと音を立てているのが聞こえていた。

彼女の視線がボトルに落ちる。そうやって数秒見つめた後、やがて彼女は少しだけ目を伏せて申し訳なさそうに小さく首を横に振った。

「ごめんね。私、喉乾いてないや」

気温のせいで、ボトルに結露の水滴が出来て荒北と彼女との間に数滴の滴がこぼれる。乾いた土の上に落ちた滴が少しだけ大地を潤したが、この暑さではすぐにまた干乾びることは目に見えていた。

……動かない大地が、これだけ干上がる気温なのだ。

ろくな休憩もなしに動き回っている彼女がどうかなど、考えなくとも答えが出るというものだろう。
いつまでたっても手を出さない彼女にイラついたように荒北が小さく舌打ちをし、半ば強引にボトルを手渡す。

そんな彼に、しおりは呆れたように息を吐き、しぶしぶと口を付けて二、三口ちびちびと飲むと、形ばかりの礼を言って荒北にボトルを返した。

「なめてんのか」

彼女の様子に、荒北は不機嫌そうに眉間のしわを深くして鋭い視線でしおりを睨みつけて来る。

「それじゃあ飲んだうちに入んねえだろうが」
「いや、だから喉乾いてな……うぐっ、」

文句を言おうと口を開ければ、荒北は御託は良いとばかりに無理やりボトルを口に押し込んできた。
途端、勢いよく口内に流れ込んできた液体を、反射的に飲み下す。むせ返りそうになりながらも必死で飲み下せば、ボトルの三分の一程を飲まされたところで、ようやく口からボトルが引き抜かれた。

「オラ、飲めんじゃねえかよ」
「飲んだんじゃなくて『飲ませた』んでしょ!」

しおりが口元を抑えながら恨み言を漏らす。

……はあ。死ぬかと思った。

息を整えながらもチラと周りを見れば、どうやら先ほどまでしおりとメニュー確認をしていた後輩は、荒北がしおりに絡んでいる間に逃げてしまったらしい。

まあ、あの不機嫌垂れ流しの雰囲気の中で逃げない者などいないだろうから仕方ないか。何が原因かは知らないが、話しかけてきた時から彼は不穏な空気を身にまとっていたのだ。そう言う時の荒北は、どう見繕ったってガラの悪いヤンキーだ。彼が自分の同期でなければ、しおりだって逃げていたであろう。

気管支の辺りを手のひらでさすりながら、ケホリと軽く咳をしてみた。

何だか胃がムカムカする。部活用のスポーツドリンクは通常分量より水を多めに入れて薄めてあるのでそこまで甘みは感じないはずだし、現に飲んだ時だって感じなかったのに、なんだかおかしい。
やはり一気に大量に飲んだからだろうか。

「ちょっと休憩してくる」

水分でたぷたぷのお腹を抱えながら荒北の元を離れると、低めの広葉樹が良い感じに木陰を作っている場所を見つけて、その陰に座り込んだ。

日向と日陰ではこうも体感温度が違うのか。同じ野外だというのに、温度が全然違う気がする。と言っても暑いことには変わりがないのだが。

暑すぎて鳥肌が立つ感覚に苛まれながらも一息つけば、それまでの疲労が一気に体中に回ったかのように体がズシリと重くなった。
そういえば、今日は猛暑日ということもあり、部員の体調を気にするあまり朝からずっと休憩を取っていなかった。

気だるさにボーッとしながら日向を見つめてみれば、明るい世界はまるでスポットライトを当てられているようだ。いつもの風景が何だかとても綺麗な景色に思えてしばらく瞬きもせずにその情景を見つめていた。

すると不意に、肩口に何かを掛けられた感触がして、しおりの思考が返ってきた。
見れば、自分の肩に長そでのジャージがかけられている。大きさから言って男性用だ。顔をあげれば、いつからそこにいたのか。新開が穏やかな笑みを浮かべてしおりを見下ろしていた。

「しおり、隣良いか?」
「……良いけど、このジャージ何?」
「うん。貸してやる」

貸してやる、と言われても。
本日はご覧のとおり、今年一番と言ってもいいほどの猛暑日だ。木陰にいるとはいえTシャツ一枚だって脱いでしまいたいほど暑いというのに、その上長そでジャージを羽織らされるなんて何の罰ゲームだろうか。

生地が良い故に、さっそく無駄な保温効果を発揮するジャージなど煩わしいことこの上ない。貸してくれるといった彼には申し訳ないが返そうと、肩にかかったジャージに手を伸ばせば、そうはさせないとばかりに押さえつけられ、前開きのジッパーを首元まで閉められてしまった。

「良いから着とけよ。似合ってるぜ」

だるまのような格好になったしおりに、新開は爽やかに微笑みながら言う。
……全然嬉しくない。文句の一つくらい垂れてやろうかとも思ったが、彼と目が合った瞬間ふと気が付いた。笑っているはずの彼が、妙な威圧感を発しているのだ。

――ここで無理にでもジャージを脱ごうものなら、何をされるかわからない。

そんな謎の恐れを感じるほどに、新開の雰囲気は歪んでいた。

「じ、じゃあ借りちゃおうかな!」

ついつい口走ってしまえば、彼は満足げに笑って「ご褒美だ」とでも言うかのように自分の持っていたタオルも追加でしおりの肩にかけてくれた。

ありがたくないが、逆らう気力も残っていない。

……結局、休憩時間はずっと新開に監視されながら過ごす羽目になった。

汗ダラダラなその訳が、暑いからなのか、彼からの圧力による冷や汗なのかはしおり自身にだってわからなかった。

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