リクエスト | ナノ

▼ コールマイネーム
三歳年上の兄貴『新開隼人』は、いつだってオレにとっての憧れの存在だった。
彼はオレが物心付いた頃からすでに自転車に乗っていて、その頃には既に自転車での才覚を現していたと記憶している。
彼は自分より年上の相手であろうが、格上の相手であろうが臆すことなく勝負を挑み、勝利してきた。

誰よりも強くて、優しくて、おまけに人格者で人気もある。
そんな兄貴が小さなオレの目にはただひたすらにカッコ良く映っていて。だからオレも兄貴みたいになりたくて自転車に乗り始めたんだ。兄貴のように、誰からも声援を受けるカッコイイ存在になりたかったんだ。

兄の大きな背中を追いかける小さなオレの微笑ましく可愛い夢は、けれど現実、とても厳しい夢だった。


思い知ったのはオレが初めてレースで優勝したその日。死ぬ気で努力してやっと掴んだひとつめの栄光。これで兄貴に一歩近づけたと思った瞬間の事だ。

《小学生の部、優勝はあの新開隼人選手の弟です!》

会場に響いたアナウンスに、一瞬頭が真っ白になる。沸き立つ声援。声をかけてくる人々。その中にはひとつもオレの名前はなかった。
ああ、そうか。どれだけ努力しても、オレは偉大すぎる兄新開隼人の『弟』としか認識されないのか。生まれたときから一番近くに居ると思っていた隼人くんが、実は酷く高く、遠い存在だと気がついたのは、それが初めてだった。






**********






オレはただボーッとしながら兄貴の走る中学生の部のレースを眺めていた。

誰もオレを見ていない。どれだけやったって、オレは皆が認める隼人くんの弟で、彼を引き立てるための飾りでしかない。

小学生ながらにそれを悟ってしまったオレは、それはもう腐りに腐った。だって当たり前だろう。この年頃の男子なんて、みな目立ちたがりで凄いことをして褒められたくてうずうずしている。

なのに、ようやく結果を出しても自分の名すら呼んでもらえないのだ。……兄貴のオマケとしか思ってもらえないのだ。

レース後の兄貴のことしか聞いてこない最悪なインタビュアー。オレの名前なんて覚えていない観客たち。
そんな彼らに向けていた作り笑顔なんてどこかに押し込める。

そして、今は不機嫌を隠しもせずに一人でもう一度先程レースで通った山岳コースの一角に来ているのだった。

何故わざわざそんな所まで来たかというと、大会本部の近くだと兄貴のファンに捕まって質問攻めに合うからだ。
いつもだったら愛想よく応対するが、今日に限ってはとてもじゃないがそんな気分になれない。だから、平坦な道や給水ポイントなどより便が悪く応援者が少ない山岳コースまで来ていたのだった。
……ここが一番静かに、ひとりでレースを観戦できるから。

「よいしょっと」

近くの草むらに腰掛ける。優勝こそしたものの、全力でぶつかったのだ。疲れがないわけではない。普段はそれでも立ったまま、隼人くんが来るのを今か今かと待っている方なのだが、今日だけはひっそりと、ただ観戦をしたかった。

誰からも存在を認めてもらえなくていくら腐っていても、別に自転車に対する熱意まで腐らせたわけではない。
認めてくれないんだったら、認めさせればいい。そのためには自分より格上の……たとえば中学生たちのレースを見るのが一番勉強になった。

隼人くんはスプリンターだ。
のぼりは得意ではないが、それでも常人離れした速さであるのは確かだった。のぼりと平坦。どっちもあるレースでも、彼が誰かに負けているところを見たことなど、ほとんどなかった。

たぶん、兄貴は今日も一番でこの山をのぼってくる。
そしてそのまま誰を寄せ付けることもなく一番でゴールラインを割り、栄光を浴び、賞賛されるのだ。

(悔しい……)

オレより先に生まれたというだけで、オレから全部奪っていく。期待されて、それに応えて、それでもおごらない兄貴に皆が夢中になっていく。
ギリッと唇を噛みしめれば、痛みからか、辛さからか瞳にじわりと涙の膜が張るのがわかった。

――誰でも良い。誰だって良いから、オレを見てくれ!!

あまりの辛さにそう叫び出しそうになった時。坂の下から誰かがのぼってくる車輪の音が聞こえて来て、オレは反射的にバッと顔を上げた。

あえて『誰か』と表現したのは、オレがその人を隼人くんではないと確信していたからだ。幼い頃から飽きるほど一緒に走ったのだ。兄貴の音ならすぐに分かる。

思わず立ち上がって、今まさに『誰か』がのぼっている坂をのぞきこむ。だって、のぼりが得意でないとはいえ、まさかあの隼人くんが遅れを取るような選手がまだこの界隈にいたとは思えなかったのだ。




……その選手の姿を見た瞬間、オレは一瞬言葉を失った。

その人は、一見すると健康的に焼けた肌にショートカットの似合う、クラスに普通にいそうな女子に見えた。
普通の体型。普通の見た目。

けれどその実力は常人離れしているの一言だ。リズミカルで軽いペダリング。急勾配の坂なのに、平坦を走っているかのようにのぼってくる姿。過度な運動で呼吸は苦しそうなのに、口元は酷く楽しげに歪んでいるというのが何とも異様で、オレはぐんぐん近づいてくる彼女を呆然と見ていることしか出来なかった。

爛々と光る彼女の目は、狂気すら感じさせる。きっと彼女の瞳はこの坂をのぼり切った後の、もっと、ずっと向こうにあるゴールしか見えていない。道の傍らに佇むオレの姿など、広大な自然の風景の中の一部にすぎないのだ。

このまま横を通り過ぎる。そう思った瞬間、彼女の目がバチリとオレを捉え、その目が少し見開かれたかと思うと、急ブレーキをかけた。
金属とブレーキシューの擦れ合う音がする。オレの目の前で止まった彼女は、そのままペダルのクリートからシューズを外して、足をつくと、やけに嬉しそうな顔でこちらを見つめてきた。

一方のオレは酷く混乱していた。
だって彼女がなぜ止まったのかわからなかったから。邪魔になっていただろうか。いや、体が道路に出るほど身を乗り出してなどいないし、まして「止まってくれ」と声をかけてもいない。

というか、レース中に止まれるほど余裕があるのか。確かに彼女が来た方をを見てもまだ誰の影もないが、今は一位でも後に平坦でのスプリント勝負があるはずだ。
男女混合レースで、体格的に不利な分今ここで稼いで損はないはずなのに……――

「あー!やっぱりだ!!」

いきなり叫ばれて、オレの肩がビクリと震えた。
なに?やっぱり?どういうことだ。混乱しているオレを尻目に、彼女はオレの手をとって興奮したようにブンブンと振り回すような握手をしてきた。その目はまるで芸能人に会った少女のようにキラキラしている。そして何より勢いが凄い。

「さっきのレース出てたでしょ!小学生ってほんと?すっごいのぼるね!そこらの中学生より速いからびっくりしちゃった!優勝おめでとう!!」
「あ……あざます……」

その勢いに押されたオレは、オレに向けられた初めての「おめでとう」にたったのそれしか返せない。それでも彼女はヘラリと口元を緩めて、額から汗が流れ落ちるのも構わずに嬉しそうに笑ってみせた。

ついさっきまで獲物を狩るような目を光らせて、驚異的なスピードでのぼってきていたのに。向けられた無邪気な笑みとのギャップにドキリとして、オレは彼女から目が離せなくなった。

未だ繋いだままの手のひらが、彼女の熱を伝えてくる。汗ばんだ指先。濡れたグローブ。
知らない人に無理やり手を握られて、普通なら嫌悪感すら覚えるであろう状況なのに、何故かちっとも嫌だと感じなかった。

……彼女は一体何者なのか。
問いかける前に、後続車の車輪の音が聞こえてきたのに気が付き、彼女はハッとした表情をすると慌てて自分の自転車にまたがりスムーズにペダルにクリートをはめ込んだ。

真っ白な車体にブルーのロゴの入ったラピエールが、太陽に反射して眩しく光る。つい目を細めれば、狭まる視界の中、先程まで無邪気に自分と話していた彼女の表情が、まるでスイッチをオンにしたかのようなギラギラした顔に変わっていくのが見えた。

後ろから追ってきたのは、隼人くんだった。さすがの彼も最近は近県にすら敵なしと言われる程の自分を指す刺客がいるとは思っても見なかったのだろう。いつもの余裕を投げ捨てて、相当慌てて追いかけてきたのがわかる荒れっぷりだった。

荒い呼吸。見上げた先の坂の中腹に、目的の彼女とオレの姿を認めた隼人くんの顔が驚きで固まっている。
と思ったのもつかの間、雄叫びのようなものを上げながら、一気に立ち漕ぎでのぼって来た隼人くんの気迫に、彼女が楽しそうに笑って地を蹴った。

「じゃあね、新開悠人くん!いつか勝負しようね!」

ヒラリと手を振った彼女は瞬く間に視界の彼方に消えていく。呼ばれた名前はオレの名前だ。今まで彼女と話していたのはオレなのだから、当たり前なのだが。でも。

偉大すぎる兄貴の影に埋もれた『オレ』を『オレ』として見つけて、呼んでくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、触れられてもいない胸の当たりが、彼女がオレの手を握った時と同じようにじわりと熱を持つ感覚が心地よかった。




――結局その日のレースは最後まで彼女が逃げ切ったらしい。

表彰台の上、誇らしげにてっぺんに立つ彼女と、その隣で悔しそうに……でも心底楽しかったという顔をした隼人くんの顔をみて、オレはいつか感じた既視感に「あ」と声を上げた。

表彰台へ上がる時、呼ばれた名前は佐藤しおり。オレは、その名前を知っていた。
少し前、隼人くんが「千葉県にすごい人がいる」と嬉しそうに話していたその選手の名前がまさにそれだったのだ。彼は確か「憧れている」とも口走っていたかもしれない。

なるほど兄貴のご執心は彼女だったわけだ。
表彰台の上からオレを見つけた彼女が、オレの首に掛かったのとおそろいの金メダルを振って笑いかけてくるから同じように返してやると、それに気づいた隼人くんが驚いたような、少し恨めしそうな顔をしていた。




「なあ悠人。しおりちゃんと何話してたんだ?」

レースから帰宅したその夜。風呂上がりのオレに隼人くんが話しかけてくる。
何気ない風に装っているが、どこか焦っているということが分かってしまうのはきっと兄弟だからだろう。優しい兄貴がいつだってかぶっている分厚い理性の薄皮がめくれかけようとしていた。

あの兄貴にこんな表情をさせるなんて。彼女という人は、一体どれだけ大きい存在なのだろう。
笑いかけてくれた顔が。名前を呼んでくれる声が。見つめてくれた瞳が。頭のなかで思い出されてはオレを胸を温かくしてくれて、隼人くんが夢中になってしまう理由が少し分かってしまったような気がした。

「ヒミツ、かな」

話した内容など大したことはないが、大人しく言ってしまうのは何だか惜しくてついイタズラに答えた。
兄貴の理性の薄皮がまた一枚めくれた。それは兄貴が欲しい回答ではない。「そうか」と興味なさげにそっぽを向いた顔が珍しく不服そうで、自分でも性格が悪いと思うが吹き出してしまう。

「コラッ……悠人!」

からかわれたと知って頬を染める兄貴に、少しだけ優越感のようなものを感じる。
ゴールで名前をアナウンスされなかったショックも、誰からも新開弟としてしか認識されなかったモヤモヤも。それだけで少し晴れたような気がした。



→次ページはリクエスト時に頂いたメッセージへのお返事です。

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