リクエスト | ナノ

▼ 3日目(福富)
揃って昼食を摂れるのは、このアルバイトでは珍しいことだった。
三日目ともなれば仕事には慣れ始めているが、各々仕事の割り振られる場所が違うのは変わらない。
だから休憩時間も仕事の進行状況によって前後するのだが、今のように五人ともほぼ同じ時間に休憩に入れたのは、本当にたまたまだった。

昼食が終われば、東堂は今日の来客の出迎えと接客に向かい、新開と荒北は温泉の掃除。しおりと福富は夕方前まで暇を貰って、そこから雑務のフォローと、ほとんどバラバラだ。

なかなか一緒にいられない分を埋めるかのように馬鹿な話に花を咲かせていると、その折り、従業員控え室の隣にある厨房から何やら話し声が聞こえてくるのに気が付いた。

基本的に旅館が食事を提供するのは夕食と朝食だけで今の時間は料理人たちも休み時間のはずなのだが、厨房からは確かにボソボソと誰かが話す声が聞こえている。
しおりが気になって視線をやっていると、他の皆も異変に気が付いたのか、自然と会話をやめて声の方へと顔を向けていた。

「……それで、食材の方は足りそうなの?」

静まり返った空間でまず聞こえてきたのは女将の声だった。しかし、それはいつもの明るく快活な声ではなく、どこか心許なげだ。
それから間を置かずにしわがれた料理長の声で「そっちは何とか……」と聞こえてきたが、その声も何かを憂うように苦々しい雰囲気であった。

「問題は調味料の方だ。これじゃあ足りるかどうか……」
「そう……困ったわね」

二人の深いため息が聞こえて、しおりたちは目を見合わせる。どうやら問題発生らしい。
東堂が少し緊張したような面持で席を立ち厨房に顔を出すと、それに気が付いた女将と料理長が驚いたように小さく声を上げたのが聞こえた。

「何かあったのか」

尋ねた東堂に、女将は困ったような顔をしてあいまいに頷く。言い淀んではいるが、息子から向けられる眼光に耐えられなかったのか、ややあってからおずおずと話し始めた。

「今日の朝一番に届くはずの食材がまだ来てないのよ」
「は!?今日の仕入れって、新メニュー用の食材と調味料だろう!仕入先から連絡は?」
「あったんだけど、事故で道が大渋滞してるらしくて」
「そんな……」

女将の言葉に、東堂の顔にも絶望が浮かぶ。
それはそうだ。旅館の醍醐味と言って真っ先に思い浮かぶのは温泉、客室、そして料理。
東堂庵ほどの老舗になれば、そのそれぞれが客から絶大な期待を持たれるはずだ。
それゆえに、絶対にぬかりなど。失敗などあってはならない。

それくらいはアルバイトの立場であるしおりたちにも理解できた。

急遽訪れたハプニングに、誰もが息を殺したように黙りこくってしまう。
シンとした空間の中。真剣に思考を巡らせていた女将が不意に息子にちらりと目をやって、そこでハッと何かを思い付いたような表情を見せた。

休憩室にいた全員にぐるりと目を向けて、まるで興奮を押し殺すように、なるべく静かに声を発する。

「今日これから自由時間になるのは誰?」

その迫力に気圧されながら、しおりと福富がおずおずと名乗りでると、女将は満足そうにうなずき、さらに問う。

「自転車競技部ってことは、もちろん走るのは得意なのよね?速いのよね?」

その言葉に、しおりはこれから自分たちが何を求められるのかうっすらとわかった気がして口ごもる。
けれど福富は言葉の意味そのままを受け取ったらしい。

「そうだ。オレたちは誰よりも速く、誰よりも強い!」

揺るぎなく発せられた福富の言葉に、しおりは頭を抱え、女将は満足そうな笑みを浮かべる。

「すまん、母はああなったらテコでも意見を曲げん。諦めてくれ」

掛けられた東堂からの気の毒そうな声に、弱々しく笑みを返すしかできないのだった。







**********









サイクルジャージに身を包み、東堂庵と名前の入った荷台付きのママチャリに跨る。
持たされたのは調味料を買うための代金が入った財布と、このあたりの地図だ。現在地と目的地には赤いペンで走りがいたような丸が描かれていた。

……この縮尺だと、距離は20km程か。

自転車乗りからすれば長い距離ではない。
けれど、この地形の高低差や観光地ならではの道の混み具合。それに、乗るのが軽さを極めたロードバイクではなくママチャリだということを考慮すると、どうやったって仕込みの開始時間に間に合うか否かという状況になるのは想像に容易かった。

結果によっては旅館の評価を左右するかもしれないこんな大役を、本当に自分なんかが担っても良いものなのか。

そんな不安をため息に変え、地図に落としていた視線を上げれば、隣で準備をしていた福富と目が合った。
自信のなさでそわそわしっぱなしのしおりとは逆に、福富はママチャリだというのに、まるでこれからルーチンワークの練習に出るかのような自然さでいる。どんな時でも平常心。そんなハートの強さが羨ましかった。

力なく苦笑を返せば、福富は不思議そうにこちらを見つめ、いそいそと肩を僅かに揺らして背負わされた大きなリュックサックの位置を調節していた。

「行くか」

短い一言に、しおりが小さく頷く。
地図は、とりあえず頭に叩き込んだ。記憶力は良い方だと自負しているから大丈夫だとは思うが、途中で道を間違えて戻ったり、道を忘れて確認のために止まるような時間があろうものなら、きっと仕込みの時間には間に合わない。

(300メートル先を右。それからしばらく道なりで、4つ目の交差点を…ーー)

ブツブツと頭で地図を反芻しながらペダルに力を入れる。そうしてゆっくりと自転車が進み出した瞬間、しおりの背にふわりと大きくて暖かな手が添えられた。

集中していた意識が、いきなり現実に引き戻されるような感覚。驚いて隣に目をやれば、まっすぐと前を向いた福富のどこか楽しそうな横顔が見えて、しおりは少し面食らってしまった。

それは鉄仮面と名高い彼がわかりやすく表情を崩しているからではない。自分と同じ立場にいるのに、自分とは全く別の感情を抱いているように見えたからだった。

「福ちゃん、使いっパシりが嬉しいの?」
「馬鹿を言え。自転車に乗れることが嬉しいんだ。ここ数日忙しくてまともに乗れていなかったからな。しおりは違うのか」

問われて、しおりは思わず言い淀む。
確かに、旅館でバイトを始めてからというもの、予想以上の多忙さでなかなか自転車を走らせることができなかった。だからママチャリだとはいえこんな風に数時間単位で乗れるだなんて、初めてのことなのだ。

こんな状況でなければ、しおりだって余計なことなど一切考えず、手放しに喜べただろう。けれど、今はそれより責任の重さによる不安の方が勝ってしまっているのだ。

答えを言いあぐねていると、突然添えられていた福富の手のひらが、強い力でしおりの背を押した。グンッと前に押し出される感覚に小さく悲鳴を上げれば、少し後ろになった彼が静かに口を開いた。

「期待を担って走るのは、いつだってプレッシャーだ。けれどそんなものに負けないくらい、オレは今お前と走れることを何より嬉しいと感じている。それを楽しみたい」
「福ちゃん……」

誰よりも強いのに、誰もが憧れる存在なのに、彼は時折、自分たちがライバルだった時と同じようにしおりを特別扱いするのだ。もう実力差なんて比べるまでもないのに。それでも互いに競い合って、高め合っていた頃と同じように接してくれる。
そんな時、自分が認められているような錯覚に陥って、酷く嬉しくなるのだ。

ライバルとして彼の横を走りたい、と不相応なことを思ってしまうのだ。

しぼんでいた心がみるみるうちに膨らんでいくのがわかる。思い切り走りたいと叫んでいるのを感じる。追いついてきた福富と目を合わせると、自然と口元が緩むのを感じた。

「交代で引こう。のぼりと入り組んだ道は私が先行するから、平坦とくだりは頼んで良い?」
「ああ、構わない」
「スピードは落とさないで。絶対ついていくから」
「わかった」
「……じゃあ、」

行こうか。

みんな待ってて。これが箱根学園自転車競技部エースとマネージャーによる、最強・最速の使いっパシりだから。



**********





結局、しおりたちが20kmのコースを往復して戻ってきたのは仕込みの開始時間よりも30分も前だった。
ギリギリになるか、少し遅れるだろうことを予想して準備していた従業員たちは大いに驚き、そして2人の活躍をねぎらってくれた。

「助かったわ、ありがとう。バイト代色付けておくからね。本当にありがとう!」

いつもは冷静な女将が興奮気味に2人の手を取り、振り回すように握手をする。そうして慌ただしく号令の声を上げ、仕込みの準備に走っていく嵐のような姿に、思わず苦笑してしまった。

「似てるね」
「似てるな」

誰と誰が、なんて言わなくてもわかる。
彼女の息子である東堂にだ。きびきびと動き、指示を出すその様が部活中の彼と重なるのだ。

さて、やっと任務が終わり、しおりは肩の荷が降りたことにホッとしていた。
同じく隣で安堵の息を吐いている福富を見れば、体は混み合う車を避けて草むらや雑木林を突っ切ったせいで擦り傷、切り傷だらけ。髪もグシャグシャで大変なことになっていた。

思わず吹き出せば、気づいた福富が目を向けてくる。しかし、思えば同じ道を同じように通ってきたしおりも彼と全く同じ状態なのだ。
ただ、福富は女性の外見を笑うのは自身のモラルに反するらしく、込み上げてくるものを押さえ込む代わりにしおりの髪や服に付いた木の葉を取ってくれた。……紳士だ。

習ってしおりも彼の頭に手を伸ばす。
触れようとした瞬間、福富の肩が緊張するようにピクリと動いたが、拒否されることもなく大人しく触れさせてくれた。
身長差で手の届きにくいところは自ら屈んで取りやすいようにすらしてくれる。

そうすると自然顔が近づいて、いつもは高い位置にある福富の顔がすぐそこでしおりのことを見つめていた。

鉄仮面と呼ばれる彼の表情が今は酷く柔らかい。釣られてヘラリと口元を緩めれば、とたん福富が唇をキュッと引き締めたのがわかった。

「福ちゃん?」
「……しおりが隣で走っている時はいつも楽しいと感じる」
「うん、私もすごく楽し……――」

返そうとして、しおりは福富の表情が存外真剣だということに気がついて思わず言葉を失ってしまった。社交辞令なんて言葉はきっと彼の中には存在しない。ただただ正直すぎる彼の眼光はまっすぐとしおりを見つめたままだった。

「レースで優勝した時。思うような走りができた時。そんな時は確かに楽しいと思うし、やりがいを感じる」

「けどな」と、続けた福富が一歩しおりへと踏み出して、元から近かった距離をさらに詰めた。

「しおりと走る時はどうしてか、ペダルを回すひと漕ぎすら楽しいんだ」
「っ……!」

覗き込んでくるのは心底不思議でしょうがないという純粋な瞳だ。
そりゃあ、しおりだって福富と走るのは楽しい。過去には何度もレースで競い合ったし、だからこそ走り方や考え方が似ているのか、一緒に走っていてもしおりが『ここ!』というところで寸分違わずアクションを起こしてくれるので非常にやりやすい相手でもあった。

……でも、これはちょっと意味合いが違うんじゃなかろうか。

ではどんな意味なのかと聞かれたって、しおりにもはっきりとわからないから答えようがない。いや、そういうセリフを吐いている彼にだって分かっていないだろう。
自分たちにはまだ知る必要のないことだ。きっと。

「また一緒に走ってくれるか」

じわじわと熱くなってくる頬の温度を夏の暑さのせいにして、福富からの懇願にコクコクと大きく頷くのだった。

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