リクエスト | ナノ

▼ 2日目(新開)
アルバイト二日目。
旅館の朝は早い。しおりたちは早朝から起き出し、それぞれに与えられた仕事をこなしていた。さすがは老舗旅館というだけあって、客室はすべて満室だ。たとえ宿泊キャンセルがあったとしてもすぐにその穴を埋めるように予約が入るし、それが普通のことらしかった。

仕事をしながら旅館の中を歩き回っているが、東堂庵は客として来るにはいささか格式高い。
部屋の内装にしても、料理にしても、従業員の質の高さにしても。およそ一般的な旅館より数段上等なものに思える。
そんな旅館だからこそ、多少値が張っても人気が高いのだろう。
仕事の合間に事務室に書き出されている常に満室状態の予約メモを横目で見ながら、そんなことを考えていた。





「よいしょっ……と。とりあえずこれで終わりかな」

チェックアウトした客間の掃除を終えて、額に浮かんだ汗をぬぐう。つきっきりで仕事を教えてくれる従業員が最後のチェックをし、オーケーが出れば仕事完了だ。
室内をぐるりと回った従業員が、自分に向かって人差し指と親指で丸を作ったのを見て、しおりはホッと息をついた。

「お疲れさま。じゃあちょっと休憩行っておいで。20分ね」
「はい!頂きます」

送り出してくれた従業員に頭を下げて、休憩に向かう。
実は、朝から続く旅館の地味にキツい仕事にへばりかけていたのだ。運動は自転車競技部を通して日常的にしているつもりだったが、どうやら旅館で使う筋肉と部活で使う筋肉は全く違うらしい。
腕も足も筋肉痛でピリピリと痛み、それがさらに体力を奪っていくのであった。

そして、このバイトを始めてしばらくしてから感じたのだが、意外と他のメンバーとの接点がなくなるらしい。
見ての通り、仕事もそれぞれバラバラのところに配属されていて、休憩時間もおおよそ決まっているとはいえ、入れる時間はまちまち。館内で出会ったとしても、目を合わせて「お疲れ」と声を掛け合うくらいしかできないのだ。

……確かに近くにいるはずなのに、それを感じられないのが少しだけ寂しい。

働きにで来ているのだから当たり前だと言われればそれまでだが、始終緊張感に包まれている職場で、少しでも彼らと居られることが出来るならきっと安らげるのに。なんて、そんな甘ったれたことを思ってしまうのであった。






休憩のための控え室につくと、そこには誰もおらず整然と並べられた椅子と机があるだけであった。他の従業員の休憩時間はもう少し先らしい。
ガランとした室内の椅子のひとつに腰を下ろすと、どっと疲れが足の先から落ちていくような感覚がしてしおりはため息のような息を吐く。

ひと時の自由時間をだらりと体を弛緩させて満喫していると、そこで控え室の扉が開き、誰かが中をうかがうようにひょっこりと顔を出した。

「あ、新開くん!」

丁度会いたいと思っていた顔見知りの登場にしおりが少し声色を上げる。すると、彼も同じく嬉しそうに顔をほころばせていそいそと室内へと入ってきた。

「おめさんも休憩か?」
「うん。偶然だね、同じ時間に休憩なんて」

「そうだな」なんて返しながら、新開はしおりの向かい側の席に腰を下ろして体をだらりとテーブルの上に投げ出すと、しおり以上に大きなため息をついて見せた。

「お疲れだね?」
「んー、力仕事ばっかで地味にキツい。若い男が入ってきたからって、旦那が張り切って普段できないデカい装飾品の配置換えしだしてさ」

苦笑交じりに言う新開に、しおりは彼が今日作業していた当たりの様子を思い出してみた。
そういえば、玄関先の大きな置物の位置や、中庭のベンチの位置がいつの間にか変わっていた気がする。
まだ午前中だというのにぐったりしている新開に、しおりは冷たいお茶を彼の前に出してやった。

「サンキュ」

ゴクリ。彼があおったコップの中身はみるみるうちに胃の中へと吸い込まれていく。よほど喉が渇いていたのだろう。液体を飲み下すたびに発達した喉仏が上下するのは、見ていてなんだか爽快だった。

その時、ふと新開の体の方に目が行く。
彼が身に着けている、清潔感のある真っ白なTシャツ。おそらくこの重労働用にと借りたものなのだろうが、それが汗を吸ってその下の素肌が少し透けていた。
ペッタリと肌に張り付いているそれを、新開も煩わしそうに何度か引きはがしてはこもった熱を発散させるかのようにパタパタとやるのだが、噴き出してくる汗は止まらないらしい。

首筋を伝って鎖骨を通り過ぎ、重力に沿って肢体へと流れていく汗の道筋が、なんというか、その。
……どうにもこうにも色っぽくて何かいけないものを見てしまったような、そんな感覚に襲われる。

「しおり?どうした」

思わずドギマギしてしまったしおりに、新開は不思議そうに目を向けてきた。
慌てて「なんでもない」なんて誤魔化すが、声が裏返ってしまってどうやったって『なんでもなくはない』だろう。

「……ふうん?」

疲れているせいか、上半身を投げ出したまま上目遣いに視線を送ってくる新開の目は少し眠そうにとろんとしている。
それがまた、普段の彼からは感じないような妙な色気をかもしだしているものだから、反応していいかわからずない。

……最近よく女子たちが新開をエロいだなんだと言っているのはこういうことなのだろうか。

部活で見慣れていたので何とも思わなかった『男の子の肌に汗が滴る様子の破壊力』というやつを、まさかこんなところで知ることになろうとは。

大切な友人を、一瞬でも色目で見てしまったいたたまれなさで彼から目をそらせば、しおりのその行動に、新開は目に見えてムッとしたように唇を少し突き出してみせた。

「なんで逸らすわけ」
「いや、これは不可抗力というか、自己防衛というか罪悪感というか」
「どういう意味?」
「……私にもよくわからない」

わかってはいけないと本能で思ったから逸らしたのだ。

けれど新開はそれでは納得してくれない。いつだって飄々としているように見えるが、彼は元より他のメンバーより構って欲しがるタイプなのである。特に、仲のいい仲間に対してはその態度を顕著に見せる。

構われたがりといえば東堂もそうだが、東堂の方はただ自分に注目して欲しいとう意味でのそれであり、ある程度の人目が自分に集まりさえすれば満足する、いわば単純なタイプだ。

新開はそれとはベクトルが少し違うようで、自分がして欲しいと思うことを相手にしてもらうまで決して満足してくれないというタイプのように思える。

甘えたがり、とも言うのかもしれないが。

そしてもちろんこの時も、『しおりに目を逸らされた』というのを起因として新開の構ってモードは発動しており、しおりが罪悪感を感じているのをいいことに、完全に甘えたがりになっているようだった。

「オレ、アイス食べたいなあ。昨日買ったのが冷凍庫に入ってるんだけど」
「……お、お取りいたします」

しおりが控え室に備え付けてある冷蔵庫の冷凍室の扉を開けると、そこにはちょこんとひとつ、カップタイプのアイスクリームが入っていた。
ご丁寧にフタの部分に『新開』と名前が入れてあるのでこれで間違いはないだろう。取り出して、おずおずと新開の前に置けば彼は口元に笑みを浮かべたまましおりから目を離さなかった。

自分が食べたいといったのに、アイスに一瞥もしないとはどういうことか。
しおりが怪訝な視線を送れば、彼はそんなことなど全く気に介さずといった風に、ニコニコしながら言った。

「食べさせて」
「えっ」
「早く。溶けちゃうし、休憩時間も終わっちゃうだろ?」

……ではなくて、自分で食べればいいのに。
その逞しい筋肉のついた肢体の両脇についている腕は飾りか何かなのだろうか。

けれど、長い付き合いで一度こうなってしまった新開が簡単には折れないということもしおりは理解している。
いつだったかの部活後に彼の甘えたがりが発動し、ターゲットの荒北が散々ひっつかれて、うんざりしていた光景を思い出してしまった。

(あんな風にくっつかれるよりは、まだマシか)

そう自分に言い聞かせ、ため息をついてカップアイスを自分の方へ引き寄せてフタをとる。本体にテープ付けされていた木のスプーンで少しすくってやれば、エサを待つヒナのように、新開の大きな口がぱくりと開くのが見えた。

「あーん」

……本来それは食べ物を与える側が言うセリフだと思うのだが。
まるで催促の呪文のように彼が唱えるものだから、もうやるしかない。

おそるおそるすくったアイスを口元まで運んでやると、待ってましたとばかりに嬉しそうにそれを迎え入れる。
彼の喉が上下したのが、飲み下した合図だ。それを目安にまた口にアイスを運べば、また同じようにアイスは彼の胃袋の中へと消えていくのだった。

この行為自体は別にいい。大きな子供に食事を与えていると思えばいいだけだ。
けれど、しおりには気になって仕方のないことがひとつだけあった。

何度目かのアイスを彼の口に運び終えたとき、しおりはその不満を、きっぱりと彼に漏らした。

「ねえ」
「んー?」
「食べる時くらい私のこと見るのやめて」

まるで食べている様を見せつけるように、彼は食べさせてもらっている間もしおりから目を離さない。しおりもしおりで、先ほどわざと目を逸らしてしまったという負い目があるからか、無下に彼から視線を離せない。
つまり、彼らは見つめ合いながらアイスを食べさせるという、まるで夏のバカップルのようなことをしているのであった。

新開はきっとしおりをからかう為にわざとやっているのだろう。そうだとわかっているけど、やらされているしおりにとっては恥ずかしくて堪らないのだ。

顔を赤くして困っているしおりに、新開はやっといつものようにさわやかに破顔して、しおりの手からそっとアイスとスプーンを受け取り、責め苦から解放してやった。

やっと終わった。
そう言いたげに、見るからにホッとして肩の力を抜いた彼女の姿を、新開は微笑ましげに見つめていた。

……つまるところ、新開は彼女から少しでも『特別』な目線で自分を見て欲しかったのだ。意識して欲しかった、と言い換えても良いだろう。

彼女はいつも自分たちと一緒にいて、そのせいで家族的な意識が強まってしまっている節がある。だから、新開は定期的にそれをぶち壊したいと思ってしまうのだ。


普通なら、これだけ彼女が顔を真っ赤にして『女の子』みたいな表情をしてくれただけで大満足だ。けれど、今はいかんせんバイト中。四六時中同じ敷地内にいるというのに全然会えないというジレンマが、疲れた体と精神を蝕んでいって堪らなくなる。

だから『普通』では、足りないのだ。全然足りない。



カップにまだ残っているアイスを、しおりが今までしてくれていたのと同じようにすくって、持ち上げる。少し溶けだしたそれは、カップの中に数滴しずくを零していた。

「しおり、お礼に食べさせてやるよ」

突き出したスプーンに、油断していたらしい彼女がぎょっとして新開を見上げる。
息を詰めてスプーンの先を凝視しているのは、そこが先ほど新開が咥えた部分だからだ。いわば間接キスというやつだ。彼女もそれに気が付いているから、新開の行動に驚いた顔をしたのだろう。

けれど、新開はしおりがそれに応じると踏んでいた。
だって彼女は、兄弟みたいなこの関係を自分が変に意識することで壊したくないと思っているから。だから、わかっていても拒否しない。

「あーんして」

その言葉に操られるかのように、彼女の震えた唇が、かすかに開いた。彼女は新開を見ていなかった。ただ、顔を可愛そうなくらい。愛おしいほど真っ赤に染めて、ぎゅっと目をつむっていた。

新開はゆっくりと、スプーンを口元へと運んでいく。
クリーム色のアイスクリームが、今にも唇に触れようとした……――その時。

「あ?なんだオメーらも休憩かよ」

突然、今まで沈黙を守ってきた控え室の扉が開き、聞きなれた声が話しかけてきた。
とたんにしおりの体がビクリと震えて、慌ててアイスから口を離すように上半身を後ろにそらす。
彼女の真ん丸に見開かれた目と新開の目が合い、その瞬間、しおりは勢いよく椅子から立ち上がった。

「ッき、休憩おわり!仕事しなきゃ!!」

わざとらしく叫んで、彼女は逃げるように控え室から走り去って行った。
あとに残ったのは彼女に食べてもらえなかったアイスがポタポタと机に滴を垂らす様。そして、一瞬で二人になってしまった新開と荒北の姿だった。

「……何してたワケェ」

荒北の疑うような声に、新開は肩をすくめて振り返る。

「別に、エネルギー補給してただけだぜ」
「エネルギー、ねえ」

……一体どんなエネルギーなんだか。
ボヤいた荒北に、新開は何も答えずスプーンを口にくわえたのだった。




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