リクエスト | ナノ

▼ (中編)
「しおりちゃん、調子はどうだい」

もう面会時間も終わりかけの時間帯。ひょっこりと病室に顔を出した新開に、しおりはこれみよがしにため息をついた。
優しげなタレ目に、柔和な口調。まだ二次性徴も終わりきっていない幼さの残るこの少年は、名を新開隼人といい、一応しおりの恩人であった。

……いや、一応どころではない。
先の落車事故が発生した際、真っ先に崖下へ放り出されたしおりを救い出してくれた、いわば命の恩人である。
彼がすぐに見つけてくれなければ。暗く寒い崖下から救い出してくれなければ。状態は今よりもっと悲惨だったろうとお医者様にも言われたのだ。

そういうこともあるから、彼はしおりにとって感謝してもしきれないような相手なのだ。
……が、実のところ、しおりはこの新開という男にどうも苦手意識を持っているのであった。

だって、まずこの親切さが胡散臭い。
普通、自分も大会の優勝候補だというのに、そのチャンスを投げやってまで見知らぬ一選手を助けるだろうか。しかも、夢中になっていることには一直線で周りさえ見えなくなる闘争心の塊みたいなお年頃の少年が、だ。

今日も『いい人』を顔面いっぱいに貼り付けた彼が当然のように自分のベッドの傍に腰かける様を目で追いながら、しおりはそんな事を思っていた。


聞けば、どうやらしおりと同い年らしいが、それにしては非常に礼儀正しく、立ち振る舞いが飄々としている。
落ちついた雰囲気も、常に浮かべている笑みも。まるで腹の内を隠しているように見えて掴みどころがない。

見た目通りに分かりやすい性格をしているしおりにとって、それは酷く妙なものに思えたが、逆に両親はそんな彼の上辺にコロッと騙されてしまったらしい。
彼が来ると嬉しそうに声色を高くし、自分たちだってまだ来たばかりだというのに、いそいそと退散の準備をして無理やりにでも二人きりにさせようとしてくるのだった。

……とにかく、しおりには彼の目的がわからなかった。

だから今日も全身から大粒の汗を滴らせながらやってきた彼に、忌々しいとばかりに非難の目を向けてしまうのは仕方のないことなのだ。きっと。





二人きりの病室で、パラパラと、新開が雑誌をめくる音が静かな病室に響いている。
しおりのクラスメイトが置いていった物を発見して暇つぶしのように眺めているようだが、ページをめくる早さから推測するに、内容にはまったく興味がなさそうだ。

それはそうだろう。だって、マンガ雑誌ならまだしも、女の子向けのファッション雑誌なのだから。
差し入れてもらったしおり自身でさえ読む気にならず、サイドボードに置きっぱなしになっているのだ。性別すら違う彼には無縁のものであろうと簡単に推測できた。

彼らの間に会話はない。ただ、いつもしおりの横になっているベッド脇に腰をおろして手持無沙汰にしているだけだ。
いつ来たって暇な空間だとわかっているのに、どうしてこの人は見舞いになんてくるんだろう。それが不思議で仕方がない。

短時間では乾き切らなかったらしい汗の雫が彼のあごのラインに沿ってすべり、透明な水の玉を作っている。いまにも雑誌の上落ちてしまいそうだ、などと思っていると、彼は羽織っていた上着の袖でそれをぐい、とふき取り、しおりの視線に気がつくと涼しい顔を見せた。

「……それさ、暑くないの」
「ん?」
「その長袖」

視線で訴えれば、彼はようやく気がついたように自分の上着に目を向け、爽やかに「うん、大丈夫」などとのたまう。

こういうところも苦手だ。
夏の残暑も厳しいこの季節に長袖など、暑くないわけがないのに、彼は必ず上着を羽織り、あまつ前をきっちり締めてここに来る。
それを指摘すれば「大丈夫」だなんて、嘘付きもはなはだしいではないか。

……命の恩人なのはわかっている。
しょっちゅう見舞いに来てくれるマメさも、きっと普通の人からすればありがたいのだろう。

けれど心が荒んでしまっていたしおりにとって、完璧すぎる彼の存在は酷く億劫で。
口には出さないが、心の中で彼が見舞いにこなくなるのを望んでいたのだった。





それでも、彼は毎日のようにここに来た。会話もないのに、もてなせないのにここに来た。
時折思い出したようにリハビリの具合や、体調のことを聞いてきて、また黙る。そうして時間いっぱいまで病室に居座って「またな」なんて、満足したように帰っていくのだ。

余計なことは一切言わない。聞いても来ない。
時折来る知り合いたちは、気を遣ったように『元気になればきっとまた自転車に乗れるよ』なんて無責任な慰めを吐いて行くのに、彼は初めてこの病室を訪れたときから余計な慰めを一切口にしなかった。

胡散臭さや、季節外れの長袖も相変わらずだ。
けれど、しおりはいつの間にかその距離が妙に心地良いと感じることが多くなっていたのだった。



彼が来る面会ギリギリの時間になると、自分でもわかるくらいにそわそわしてしまう。少しでも到着が遅れると、もう暗い窓の外を見降ろしては息を吐くようになった。
事務的で、会話と呼ぶにもふさわしくないような言葉のやり取りも、徐々に日常のくだらないことを話せるようになっていた。

しおりが会話の端々で笑顔を見せるようになると、それまでおもわしくなかったリハビリの効果も見る見るうちに向上していった。
遅れていたリハビリ計画が、最終的には当初の予定より数週間も早くなったときには担当医も目を丸くして驚き、そして喜んでくれた。

まだ痛みはあるものの、松葉杖で自立できるようになったしおりの姿を見たときの新開が、それまで見たこともないくらいに嬉しそうに破顔してくれたのが、酷く嬉しかった。






「はあー、やっぱり青春の1ページに恋は付き物よねえ」

退院を間近に控えたある休日の昼下がり。
学校への復帰の話しをしている最中に、なんの脈絡もなく言い放った母の言葉に、しおりは口に含んでいたお茶を吹き出しそうになった。

「なっ……ん、ゲホッゲホッ!」
「あらぁ、もう大丈夫?」

必死にこらえたが、その拍子にお茶が気管支に入ってしまったらしい。激しくむせ込むしおりの背中を母がさすると、息も絶え絶えの彼女は母親をキッと睨みつけた。

「変なこと言わないで!新開くんとは、そういうんじゃないから!」
「へーえ?だれも新開くん、なんて言ってないけど」
「…………」

しまった、墓穴を掘った。
ニヤニヤしている母親に反論するでもなく背を向け、そのまま勢いよく頭まで布団をかぶって逃げる。

今のはいくらなんでも卑怯ではないか。だって、今の状態で恋だとかそういう状況に当てはめられる男の子なんて彼しかいない。
だから、つい先走ってしまったのだ。

顔から火が出そうなくらい熱いのが、籠った布団の熱気の中でもわかる。
ぎゅっと目をつむると浮かんでくるのは毎日見ている件の少年の顔で。考えるだけで、心臓がキュッと締め付けられるような痛みを感じた。

(違う)

自分と彼は、ただ大会で一緒になっただけの関係のはず。

(違う、ちがう)

あんな胡散臭いやつ、好きなんかじゃない。

(これは絶対に、恋なんかじゃない)

相手もそう思っているはず。ただの、友達。それだけだ。

そうやって否定するたびに、心臓のあたりを何かがチクチクと刺してくる気がして、しおりは体をぐっと縮こませて痛む胸を押さえた。落ちつけ、と自己暗示をかけながら、大きく呼吸を繰り返す。
布団の中は酸欠で、あまり深呼吸をすると頭がくらくらしてきそうだ。恥ずかしさで涙まで浮かんできて、もう感情がめちゃくちゃだった。

「でもお母さんは、新開くんは脈ありだと思うんだけどな」

暗闇の中。布団越しにくぐもったような独り言が聞こえて、思わず布団から顔を出してしまう。いきなりこんな話題を振ってきた事をまだ許してはいないので、目元までだ。
じっとり睨むような目を向けると、母は苦笑しながらも、「だって」と続けた。

「好きじゃなかったら毎日神奈川から自転車走らせて来ないわ」
「……は?」

その言葉に驚いて言葉に詰まる。
神奈川……って、神奈川県のことだろうか。日本地図が頭の中に浮かんで、瞬間どっとあせが噴き出た。

しおりの実家は千葉県なので、単純に考えても埼玉と東京の二県は跨いでいる。その距離を毎日自転車でなんて、相当な重労働ではないか。
新開がしおりの最大の好敵手である福富と同じ『秦野第一中学校』の生徒だとは知っていたが、いかんせん自転車の知識ばかりの詰め込まれた頭では、それが何県にあるのかまではわからなかったのだ。

これだけ毎日会いに来るものだから、てっきり近くに住んでいるのかと思ったのに。

言葉も出ないほど驚いているしおりだが、これだけで驚くのはまだ早いらしい。母は楽しそうに言葉に熱を込めながら「それにね、まだあるのよ!」なんて、勝手にしゃべり続けていた。

「彼いっつも長袖の上着羽織ってるでしょう。あれ、どうしてかわかる?」

知らない。素直に首を振り、次をせかすように母の目を見る。
どうやら、しおりがずっと気になっていた上着の真実に、母は気が付いていたらしい。得意げな母の顔が少し腹立たしかったが、それよりも話の続きを早く聞きたかった。

「あの下ね、サイクルジャージなの。でもそれ見てしおりが気に病むといけないからって、病室に入る前にわざわざ着込んでるのよ」

健気よねー!なんて騒いでいる母親の声をよそに、しおりの頭は呆然としながらも一度布団から出した顔を、またごそごそと布団の中に押し入れて、出来るだけ硬く膝を抱えて体を縮ませた。

脳裏によみがえってくるのは、いつも面会時間ギリギリに汗まみれで病室に掛け込んでくる長袖の彼だ。その爽やかな笑顔から、弱音が出たことなんてない。労わってくれと、そんな態度すら出されたことがない。

それなのに、こちらと言えば彼が学校帰りに自転車を飛ばしてきてくれていたのだとも知らないで、あんな時間に来るだなんて非常識だとさえ思ってしまっていたのだ。
この暑いのに長袖なんて、よほどの寒がりか、日焼け対策に力を入れているかだろうと変な目で見ていたのに、トラウマ持ちの自分の為だった。

「っ……恋じゃない!」

半ば自棄になりながら叫ぶ。それはまるで大声を出すことで必死で自分の心に言い聞かせているようだ。

だってここでそれを認めてしまえばどうなるのだ。自覚したところで、退院まであと数日だ。恋なんてしたことのない自分にはそれをどう対処すればいいのかもわからないし、その勇気だってない。

だったら無自覚を通すしかないのだ。退院して、彼と会わなくなっても、後腐れなく忘れられるように。

その時、しおりが籠城している布団の側生地を茶化すようにツンツンと突かれた。
先ほど答えは出したというのに、我が母ながらなんて諦めが悪いのだろう。

また突かれて、今度は布団を剥ぎとろうと引っ張ってきた。この人は、そんなに一人娘に片思いを……しかも、叶わぬ恋をさせようとしているのだろうか。
今や布団ごとゆさゆさと揺すってくるので、若干気持ちが悪いのだ。だんだん腹が立ってきて、イライラがピークに達した瞬間。

しおりはバサリと布団をはねのけて、声を荒げた。

「だーから!私は新開くんなんか好きじゃっ……」
「へえ、それはショックだな」

開けた視界の前にいたのは、見知った少年で。
驚愕しながら先ほどまでここにいた母の姿を探すも、忽然と姿を消してしまっていた。

いつも通り、汗だくになりながら長袖を羽織って、きっちり前まで留めている。
けれどその顔はいつものように穏やかではないようだ。いや、いつもと同じく笑みは浮かべているのだが、先ほどしおりが言いかけた言葉の続きを察して、雰囲気が、どこか怒っているようにも見えた。

「しおりちゃん、オレなんか嫌い?興味ない?」
「えっ……いや、あの……」
「なんでオレがこんなにしおりちゃんに会いに来てたかも、わからない?」

いつもの柔和な表情はどこへ消えてしまったのか。酷く真剣な表情をする新開に、しおりは返す言葉も見つからず黙りこんでしまう。頭がショート寸前で焦げ付きそうだ。

「わからないなら教えるけど」

顔を上げれば、明るい色の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。『ギラギラしている』とでも表現するのがぴったりな、始めてみる彼の風貌に固まっているしおりに、新開はぐっと顔を近づけながら、ニヤリと口端を上げて、ささやいた。

「シタゴコロ」

――好きでもないのに、こんなに尽くしたりはしないだろう?

浴びせかけられた言葉通りの直球ストライクに、しおりは為す術もなく、魂が抜けたようにベッドの上に倒れ込むしかなかった。





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