リクエスト | ナノ

▼ (前編)
足音が響く。硬質なローファーが病院のリノリウム床を靴底で叩く無機質な音だ。
夜中にこんな音が廊下から聞こえて来たら、たとえそれが生身の人間のそれだとわかっていてもさぞかし気味悪く感じてしまうであろう。

……といっても、今は昼間であるし連れもいるのだが。
そわそわと辺りに視線をやりながら、しおりは落ちつかない気持ちで廊下を進んでいた。

白で統一された清潔な院内も、各所に飾られている切り花も。すれ違うたびに声をかけてくれる患者や、看護師たちの笑顔ひとつをとっても、この場所に恐ろしいところなど何ひとつ見当たらない。

けれど、佐藤しおりは病院が苦手だった。
理由は簡単。それはこの場所に染みついた薬品の匂いや、独特の雰囲気が昔ここで過ごした悪夢を思い出させるからである。

妙に緊張してしまっている自分の胸に手を当て、呼吸が楽になるように何度も浅く息を吐く。心の奥底にはびこった記憶は、どうやら薄れはしても消えることがないらしい。

そんなあまり良い感情を持てない場所に、彼女が足を踏み入れているのは、その足の行きつく先に用があるからだ。両肩に掛けた二人分の鞄を持ち直しながら、気を引き締めるように前を向いた。

「なあ、先輩の病室って302号室だっけ?」
「この廊下の突き当たり、曲がってすぐの大部屋だって」

隣を歩いていた新開が話しかけてきて、しおりは慌てて笑顔を張り付け肯定を返す。
彼の腕の中には部員達から預かってきた大きな紙袋があり、沢山の見舞いの品が今にもこぼれんばかりに顔を覗かせているのが見えた。

新開としおりの二人が病院に出向いた理由とは、先日練習中に怪我をした自転車競技部の先輩の見舞いの為であった。
怪我といっても数日検査入院するだけのものらしいが、それでもしばらくは自転車に乗れないほどの怪我には変わりがない。

そこで、忙しい部員たちを代表してマネージャーのしおりと、先輩と同じポジションのスプリンターである新開が出向いたというそういうわけなのだ。


三階の廊下を突き当たり、道沿いに曲がって、病室前のプレートを確認すれば数人の名前の中に見知った名前を見つけ、意気揚々と病室を覗きこむ。
けれどそこに肝心の先輩の姿がない。あるのは無造作に掛け布団の乱れた空のベッドだけだった。

確か彼のベッドは右の窓側と言っていたはずだったが……。恐る恐る病室に足を踏み入れ、カーテンの開け放たれたベッドを覗きこめばそこには入口に合ったのと同じようなプレートが掲げられている。

はて、どこに行ったのだろうか。
二人で首を傾げていると、向かいのベッドで読書をしていた中年の男性が顔をあげて教えてくれた。

「彼なら今さっき検査に呼ばれて行っちゃったよ。30分もしたら戻ってくるんじゃないかなあ」

なるほど、事前連絡は入れておいたのだが、どうやらタイミングが悪かったらしい。
けれど、丁度席を外していたからという理由ですぐに帰るわけにもいかないだろう。仕方がないので来客用にと用意された年季の入ったパイプ椅子に二人並んで腰をおろして先輩の帰りを待つことにした。


今日は天気が良いので病室の窓も開けているらしい。心地の良い風が室内に入り込んできて、籠る空気も、陰気も、すべてを取り払ってくれるように吹き抜けていく。

病室の中には酷く穏やかで、静かな午後の時間が流れている。差し込んでくる太陽の柔らかな日差しの暖かさも相まって、しおりはその心地よさに思わず目を閉じた。

苦手意識のある病院をこんな風に肯定的に感じてしまうのは、自分が入院する立場ではないからか。それとも、もう過去の苦い経験をかなり克服できているという証なのか。考えたって良く分からない。

ただ、病院という単語を聞くだけで気分が落ち込んでいた時期から比べると、明らかに前に進み出せている自分を実感できることに悪い気はしない。
思わず鼻歌でも歌いだしたくなるのを制御しながら、パイプ椅子の上で上機嫌に体を揺らせば、隣からクスリと笑いの漏れる音が聞こえた。

「ご機嫌だな、しおり」

……しまった。迂闊だった。

視線を声の方へやれば、そこには学内でも、学外でも黄色い声をあげられるハンサム男が優しげなタレ目を細めている姿がある。
いつもは口を開けば腹が減った、何か食べるものをと逐一自分の存在をアピールしてくる彼が、今日は何だかやけに静かだったのですっかり油断していたのだ。

天気が良いくらいで子供のように椅子の上で体を左右に揺らしてしまうなんて、きっとからかわれるのだろうと身構えていれば、妙なことに待てど暮らせど新開からの軽口は飛び出さない。

それどころか、自分もしおりと同じように目をつむり、気持ち良さそうにぽかぽかのお日様を全身で堪能しているようだった。

堀の深い顔立ちに、はっきりと陰影が付いている様はまるで彫刻のようだ。照らされた赤毛はキラキラと光って風に揺らされるたびに美しくその形を変えて見せた。

見慣れているはずなのに、思わず見とれてしまいそう。
滅多に見ることのない、イケメン要素全開の彼の横顔に釘付けになっていると、彼の分厚い唇が微かに動いた。

「二人で病室にいるのなんて、久しぶりだな」

ぎくり。しおりの肩が揺れる。

「おめさんが入院している時以来だ。よくこうやって、二人で何にも話さずにボーッとしてた」

薄目を開けた彼が、天井を眺めてそんな風に語っている。懐かしそうなその口調。けれど、一方のしおりは体中から冷や汗が吹き出していた。

あの落車事故から数年。実はしおりと新開には誰にも話していない事があった。『誰にも』というからには、本当に二人しか知らない事だ。
福富たちはもちろん、ルームシェアしている友達にも、両親にだって一切漏らしていない。

顔を引きつらせるしおりとは裏腹に、新開は良い笑顔のまま、声をひそめてその禁忌を囁くのだ。

「だって、オレたち『お付き合い』してたもんな」

それは現役引退という悪夢の中で見た、ささやかで、まるで儚い夢のような出来事だった。


prev / next

[ back ]

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -