リクエスト | ナノ

▼ (前編)
3月の空気を、肺いっぱいに吸い込んで深呼吸をした。
生まれ育った街の空気は他の街のそれとはやはりどこか違うように感じる。
鼻孔をくすぐるひんやりとした冬の匂いと、次の季節を思わせる甘い香り。春はもうそこまでやって来ているらしい。
いつだって、何も変わらず自分を受け入れてくれる優しくも懐かしい香り存分に堪能して、しおりは「よし」と気合を入れた。



この春休み時期といえば、地元を離れ神奈川県の高校に進学した彼女の、たまの里帰り時期である。
普段は数日の連休があっても所属している自転車競技部の部活が忙しく滅多に帰ってこられないのだが、夏休みや冬休み、春休みなどの比較的まとまった休みの取れる長期休暇中は、こうして時期を見計らっては帰ってくるのだった。

……といっても、帰省中にやることなどほとんど決まったようなものだ。

地元の友人たちと遊んだり、寮生活で普段甘えられない分年相応に家族に甘えてみたり、よく通っていたお店に顔を出してみたり。
予定を詰めに詰め込んで、充実した毎日を続けていれば、帰省日などあっという間に過ぎ去ってしまう。

そしてとうとう今日は、春休みの帰省最終日。明日の昼にはこの地を出発して、箱根学園の寮へと帰る予定であった。

こんな日はついため息が漏れてしまう。別に箱根学園に戻りたくないわけではないのだ。
自分にはあの場所でやりたいことが。やらなくてはならないことが山ほどあるのだから。

しかし、やはり地元を離れる瞬間はいつだって寂しい。少なくとも、この後数か月はここに帰って来れないのだと思うと胸がチクチクと痛んで堪らなくなる。

そんなしんみりとした気持ちを吹き飛ばすため、しおりは一緒に帰省させてきた愛車のラピエールに跨ったのだった。


今日のコースは、房総半島の海沿いを走る高低差の少ない平坦コースだ。

山道を一心に走るのも捨てがたいが、今は海を眺めながら無心で走りたい気分だった。
ハンドルを海の方へ向けて、ひたすら漕ぐ。やがて微かに潮の香りがしてきたのを感じて期待に首を伸ばしていると、次の角を曲がって視界が開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、太平洋の広大な海であった。

最近気候が安定しているからか、海は穏やかで波もほとんどない。浅瀬は水面下の砂浜が透けて見える程澄んでいて、まるで何かのポストカードにでも出来そうだと思えるほど綺麗な景色だった。

しばし、ゆったりとペダルを回しながらその風景を眺める。このままサイクリングでもいいかもしれない、と思う程の陽気なのだ。肌に吹き付ける潮風が、酷く心地いい。
何台かの自動車がしおりの傍を抜き去っていくのを横目で見ながら、彼女も徐々にケイデンスをあげていった。

いくらスピードに特化したつくりになっていても、やはり人力のロードバイクより自動車の方が速い。そんなことは百も承知だ。

しかし、ものの数秒で自分を抜いていく自動車が、こちらのスピードが上がるにつれて次第に抜くのに時間がかかっているのを見ていると思うのだ。

自分の身体が生身の人間から乗り物自体になっている、と。

チラリと見た自転車のスピードメーターは40キロを超していた。うん、良い調子。
全盛期にはもっとスピードに乗っていたが、今はこれで十分だ。

そのまま緩やかなカーブを曲がり、数百メートルの直線に差し掛かかる。すると丁度その時、背後から誰かに声をかけられた。

「右通るぜ」
「はーい、どうぞ」

ロードバイクで前方の走行車を抜く場合、こうして一声かけてから抜くのがマナーなのだ。
もっともこの道のように車道幅が広い道では距離を開けて抜けば接触事故には繋がりにくいのであまり必要ないのだが。
連休中で交通量も多めということもあり、わざわざ声をかけてくれたのだろう。なかなかの紳士だ。

抜きやすいように少しだけスピードを緩めれば、それを見計らって声の主である男性がしおりの右側に躍り出る。
横目で見れば、その人はこれだけのスピードを出していても全くフォームがぶれない綺麗な走りをしていた。ガッチリとした体付きに、足の筋肉の付き方。典型的なスプリンター体型だ。

「サンキューな」

抜き際にこれまた丁寧に声をかけてきた彼に、しおりも会釈をしながら目を向ける。
すると、その顔が非常に見覚えのある様相をしていたので、思わず声をあげてしまった。

「田所くん?」

それは、総北高校のスプリンター、田所迅選手であった。素っ頓狂な声に呼ばれたことに田所も驚いたように振り返り、流し見して抜くだけのはずだった女性自転車乗りをもう一度見やり、目を丸くしていた。

「……お前、確かハコガクの!」
「マネージャーの佐藤です。奇遇だね、部活中?」
「いや、今日はオフ」
「そうなんだ」

会話は思ったように弾まなかった。
それはそうだ。彼と自分はライバル校の選手とマネージャーである。
そんな敵が自分たちの活動域をウロウロしているのだから、いい気はしないだろう。それに、箱学と総北にはインターハイの時の因縁がある。

多少の気まずさを感じながらもおずおずと表情を伺えば、彼は先ほど抜く際に声をかけてきた時のフレンドリーさを一切消して眉間に大きなしわを寄せていた。

これが普通の反応だ。むしろ本来ならもっと嫌な顔をされても良いくらい。
なのに、黙って道を走らせてくれる彼を大人だと思った。

そう考えると、敵だとわかっていながらもレースでしおりを見かければ平気で話しかけてくる巻島や金城の方がどうかしているのだ。
田所は、豪快で細かいことは気にしないといった風に見えるが、感性に関しては彼が一番一般的なのかもしれない。

上から下まで個性派ぞろいの総北メンバーを思い出して、その世話役に奔走する彼の姿を想像すると、何だか少しおかしかった。

その時、背後から自動車の近づいてくる音がして、並走していた田所が咄嗟に前に出た。体の大きな彼が先導することで後ろを走るしおりの空気抵抗が格段に小さくなる。

……これが総北名物の『肉弾列車』というやつか。

なるほど、安定感が違う。彼による無風の世界の中にいると、自分がどこまでも速くペダルを回せるような気がして、思わず心が高鳴った。
といっても彼は全力スピードで走ってなどいないから、本気で牽く彼の肉弾列車と比べれば大したことは無いのかもしれないが。

彼が全力で踏み込んだら。
その後ろを走れたら。
それはどんなに気持ちが良いのだろう。

徐々にスピードを上げていく田所に引っ張られるようにしおりもケイデンスを合わせる。
進む、進む。自分一人では出せない速さで世界が進んでいく。思わず笑みが漏れてしまえば、自分の背後にピッタリとくっついて来る存在に気付いた田所が驚いたような声をあげた。

「何でついて来るんだよ!」
「だって田所くんの後ろすごいよ、無風!」
「返事になってねえ!」

文句を垂れて振り切ろうと田所は更にスピードをあげるが、彼女はなかなか千切れてはくれなかった。
後ろで風の抵抗を受けていないのでスピードが乗りやすいということもあるが、空気抵抗がないからといって一般人がついて来れるほど、自転車の世界は甘いものではない。

相手のスピードについていくスタミナや、タイヤとタイヤがぶつかりそうなすれすれの位置を走る度胸、それに何よりその位置をキープするための技術がなくては成り立たない。

なのに、ただのマネージャーだと思っていた彼女は、難なくそれをこなして、尚且つ楽しくて仕方がないと言った風に目をキラキラさせてすらいる。
いくら体制をブレさせても、ギリギリのコーナリングをとっても、それでも危なげなくついてくるのだ。

「なるほど、ハコガクさんとこのマネージャーは伊達じゃないってか」

そんな彼女に、田所も燃えてきたらしい。女の彼女が、男で選手の自分にどこまでついて来れるのか。
挑むように視線を向ければ、彼女は待ってましたとばかりに口元に笑みを浮かべて鋭く瞳を光らせてみせた。

「すぐにぶっちぎってやるぜ」
「じゃあ、灯台まで千切れなかったらジュースおごりね!」
「望むところだ!」

本気モードのギアチェンジはほぼ同時だった。

海沿いに続いていく長い長い道。サイクリングに来たはずの彼女の目に見えているのはもう海の美しい景色ではないし、感じているのも故郷を離れる寂しさではない。

目の前の大きな背中を追うだけだ。

ゴールに連れて行ってくれるその背中に食らいついて離さない。それだけを考えて、ペダルを回した。

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