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ミズキと真波の鬼ごっこは意外とあっさり決着がついた。というより、そもそもミズキが隠れていなかったのだ。
開け放たれた屋上のフェンス越しに街の景色をボーッと見下ろしている彼女を、授業をサボるならここだろうと目星をつけた真波が早々に発見しただけだった。
「みーつけた」
言いながら向かってくる足音に、ミズキは驚いた様子も見せず、微動だにもしない。
そうして手が届くほどの距離まで来たところで、真波は彼女の真後ろに立って足を止めた。
「ミズキさん。昨日は約束すっぽかしてごめんなさい」
「……なんのこと?先に帰っちゃったのは私の方だから、謝るなら私の方でしょう」
しれっとそんな嘘をつき、言葉通りの謝罪を口にしたミズキに、真波は思わず表情を強ばらせ、言葉を詰まらせた。
だって彼女は悪くない。
それは彼女自身だってわかっているはずだ。彼女が謝る義理などどこにもない。
なら何故謝ったりするのかと考えれば、それは酷く簡単なことだ。
彼女は昨日のことを『なかったこと』にしたいと思っているのだろう。
真波が誘ったことも、その後彼女が聞いたことも、感じたことも、全部。ぜんぶ。
彼女にそんなことをさせてしまっているのは自分なのだ。そんな思いが罪悪感となって、真波の心をチクチクと刺すが、だからといってここで引き下がることなど出来るわけがなかった。
なかった事になど、してもらっては困るのだ。
「昨日ね、家に帰ったあと東堂さんから電話があったんだ。『ミズキはずっと待ってたんだぞ』ってすっごく叱られた」
「べ……つに。することがなかったから教室でのんびりしてただけだよ」
「そう?でもさ、」
――その顔はオレのせいでしょ?
言われた瞬間、後ろ姿のミズキの肩が震えた。こちらを向いてすらいないのに表情を隠すように俯いて、黒縁メガネを気にしている。その全てが図星だと言っているようなものなのに、きっと彼女はそれにすら気がついていないのだ。
伸ばした手を彼女の細い肩に触れさせ、向かい合うように反転させる。
瞬間、太めの黒縁メガネで隠した瞳が驚きで揺れるのが見えた。どれだけ泣いたのだろう。腫れぼったい目尻は赤く擦れた後が痛々しく、今だってうっすらと涙の膜が張っている。
労るようになぞれば、その手つきにミズキの顔が一気に熱を持ったのを感じた。
手を振り払うように顔を背け、フェンスの方に体を向けようとする。
しかし、真波はそれをさせないと言わんばかりにフェンスに彼女の背中を押し付けた。
そんなに力は入れていない。本気で嫌がって、逃げようとすれば逃れられるくらいの力のはずだ。
けれど彼女は逃げなかった。
いつもと違う真波の様子に怯えたような顔はしていたが、それでも話し出そうとする彼の言葉を聞こうと待ってくれているのがわかって、無意識な健気さに心が高鳴るのを感じていた。
「これから語るのはオレの言い訳です。聞いた後どう判断しても貰っても構いません」
切り出した声はかすかに震えたが、自分見上げてくる彼女の期待を裏切りたくなくて必死に言葉を続けた。
「オレ、昨日ミズキさんの教室に向かう途中にさっきの先輩に会ったんです。そうしたら『高梨さんならもう帰った』って言われて、時間も時間だったし、確認もせずに信じちゃったんだ。マヌケでしょう?」
……いつもより低い声だった。破棄もないが、彼特有の柔らかな部分もない。
耳元で聞こえたその声色に、ミズキはゾワリと体中に鳥肌を浮かべていた。
覗きこんだ瞳は、いつも自分を見つめてくれるキラキラとした色をしておらず、くすんで落ち込んでいる。
その様子を見れば彼が十分反省しているのは伝わってくるし、何より元から彼を責める気など全くなかったので許すつもりだったのだが、彼はそれでは気が済まないらしい。
聞いて欲しいと望んでいるのだから最後まで聞くのが道理だと、ミズキは彼の『言い訳』に黙って耳を傾けていた。
「本当はね、あの人が前からオレに気があったのはわかってたんです。でもオレは興味ないし、いつも適当にかわしてたら……どこから情報仕入れたんでしょうね。急にミズキさんの話持ち出してきたから、つい話に食らいついちゃいました」
それではまるで、彼がミズキのことになると盲目的になるのだと言われているようで。
熱くなりそうな顔を必死で押しとどめて、唇を強く噛んだ。
……こんなの思わせぶりだ。本当は、自分のことだって何とも思ってないくせに。
信じてしまわないように心を閉ざそうとするが、目の前にある真剣な表情の彼がそう判断することを許してくれない。
吸い込まれそうな青に見つめられている。
息がうまく出来ない。どうしてか、無性に泣き出してしまいそうだ。
何か別のことを考えなければ、と頭を巡らせていると、その時ふと先ほど東堂に言われた言葉が思い出されて、ミズキの頭の中をぐるぐると回った。
――少しだらしはないが、本当は良いヤツなんだ。ただ好きなことにしか興味を持たないだけで、まっすぐなヤツで――
後輩をかばうために発した言葉。
ミズキはそれを、彼が夢中になっている自転車のことを言っているのかと思っていた。
けれどそこに万が一、自分のことも含まれているのなら。
彼が興味を示す数少ない『好きなこと』にミズキも含まれていて、だから真偽も疑わしい話に食いついてしまったのだとしたら。
ああ、駄目だ。そんなの恥ずかしすぎる。
自意識過剰なこんな妄想、今すぐ消してしまいたいのに、目の前の真波がそれを冗談とさせないような熱視線を切れ目なく送ってくるのでそれすら叶わなかった。
「ミズキさんのこと知りたくて必死だった。好きな食べ物、好きな教科、何でもいい。知りたかったんだ」
「……それで得られた情報っていうのが、」
「そう。東堂さんとミズキさんが付き合ってるって話。信じてなかったし、結局デマだったみたいですけど、現に一緒に帰ってるの見ちゃったし……その時は結構ショックでした」
――だから、勝手に自分だけが傷ついたと思っていたんです。あの人と話している間、ずっとミズキさんを傷つけてたなんて、思ってもみなかった。
「だから、ごめんなさい」
謝る時だって、彼はミズキから目を離さない。憂い気な。それでいて息を呑むほど綺麗な顔。
彼はミズキに『話を聞いた後の判断は任せる』と確かに言った。けれどその表情は明らかに『嫌わないで』とすがるものだ。
それどころか、『それ以上』の感情をねだるようにも見える。
そんなものを見せられたら、許す許さないの話ではなく、どう反応すればいいのかもわからなくなってしまう。
身動ぎすら出来ないでいるミズキの心臓は、もはやバクバクと表現するのが最適なほど高鳴っていた。
どうすればいい。私は。私は……――
「――じゃあ、今度はミズキさんの番だ」
急に、真波が逃げ場を塞ぐかのようにガシャリとミズキの後方にあるフェンスに指をかけてきた。驚いて見上げれば、今の今まで酷く悲しそうだった彼の表情が、豹変するようにギラリと光って楽しそうに歪められたのが見えた。
「ねえ、教えて。泣くくらい、オレが他の女の子と話してるの嫌だった?」
「な……!ちがっ、」
「あはは、ダメだよ。オレもう期待しちゃってるもん」
そんな勝手な!
ゆっくりと攻め寄ってくる彼に、これ以上近づいてはいけないと頭のなかで警報が鳴っているのが聞こえるが、どうしてだろうか、指の一本すら動かせない。
固まってしまっているミズキをよそに、それでも真波は遠慮無くぐいぐいと顔を近づけてくる。
ついには2人の距離がゼロ距離になろうかというところでミズキが我に返り、やっと動くようになった体で何をするつもりかと悲鳴を上げながら手のひらを彼の胸元に当てて押し返せば、彼は当然のように「キス」と、とんでもない発言をしてきた。
「ミズキさん可愛いからキスしたい。良いでしょう?」
「いやいや!付き合ってもない男女がキスはダメでしょ!」
「えー、固いなあ。じゃあ付き合ってる男女ならキスしていいの?」
「そりゃあ、まあ……」
「なら付き合ってよ」
その返しにギクリと身を固くする。
目を泳がせ、即答しないミズキの弱みに、真波はここぞとばかりに良い笑顔を見せた後、一呼吸置いてから、形の良い唇を開いた。
息を呑む。ああ、始まってしまう。
けれど彼がなんの接点もなかったはずのミズキを好きになった理由を聞いてみたいのも事実で。つい押し黙って、彼の言葉を待ってしまった。
「最初はね、東堂さんの話にミズキさんの名前が出てくるのが気になってたんです」
話題に上がったその人は、確かに女子人気は圧倒的だが、友達という部類に属する異性は滅多に作らない人だった。
いや、作らないというと語弊があるかもしれない。実際には、作れないのだ。
何故なら大抵の女子は最初は友達としての付き合いでも、彼と接するうちに彼を好きになってしまうから。
他の女子の名前が『友達』として一度か二度しか語られずに消えていく中、いつまで経っても友達の括りから出ない『ミズキ』という女子に興味を持ったのが始まりだった。
「初めて見たミズキさんは、普通でした。次に見た時も、その次に見た時も、廊下ですれ違った時だって、至って普通の女の子でした」
「それはそれで傷つくんだけど」
「ごめんなさい。けど見ているうちに段々目で追うのが癖みたいになっちゃって、気がついたら好きになってたんです」
「……そんな理由なの?」
「好きになるのに明確な理由なんていりませんよ」
生意気にも最もらしい事を言う真波に、けれど色恋の経験のないミズキは言い返せない。
そんなミズキに真波はフッと柔らかく笑うと、彼女の耳元に口を寄せて、そっと囁いた。
「でもそれからずっと、ずっと好きだったんです。それだけは間違いない」
――知ってるでしょう?
その問いかけに、ミズキは首を横には触れない。
だって自分は確かに東堂から真波が自分に気があるということを聞いていたのだから。彼の視線を感じていたのだから。
なのに卑怯にも気づかないふりをして、万が一告白されようものなら断るつもりだったのだ。
けど、いざ面と向かって瞳を見つめられながら懇願のように告白されたら、どうやったってそんなセリフは出てこない。
私は、どうして断ろうとしていたんだっけ。
そんな疑問が浮かんで、離れなくなる。
好きじゃないから?興味がないから?
昨日一緒に帰れなかっただけで、彼が他の女の子と一緒にいただけであれだけ泣いたのに、それでも彼を好きではないと言い切れるのだろうか。
惑い、答えないミズキに、真波は焦れた様子もなくジッと待っている。
震えているミズキの手にそっと触れてくる暖かな熱に少し驚いて微かに手を引いてしまったが、逃げないでと促されるように優しく握りしめられて、そこでついに悟ってしまった。
自分はこの大好きだと語りかけてくる彼の瞳を意識していたのだ。気にしないふりをして、視線の端でいつだって彼を見つめ返していた。
彼と同じ。ただ彼と自分が違うのは、それをちゃんと恋愛感情として受け止めていたかどうかだ。
ふたつも年下なのに、彼の方がずっと大人だった。
「絶対夢中にさせてみせる」
懲りもせずにまた顔を近づけてくる彼に、今度は抵抗することが出来ない。手を彼に掴まれているからではない。だって彼が触れている手は、ただミズキの手の甲に添えられているだけなのだ。
振り払おうとすれば出来る。逃げようと抵抗すれば、それも可能だ。
……でも逃げられなかった。それが今の告白に対するミズキの選択であり、答えなのだから。
「大好きだよ」
甘く囁かれ、重ねられた唇は柔らかく、熱い。
薄く瞳を開いてみれば、彼の酷く幸せそうな表情が目に映り、思わず心がキュンと鳴った。