短編 | ナノ
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今まで気にも留めていなかった真波山岳という後輩の存在を意識し始めてしまったのはその時からだ。

教室に遊びに来ていても、廊下ですれ違っても。
目が合って微笑みかけられればそれに返すくらいの社交辞令はできていたのに、彼の意図を知ってしまってからはとてもじゃないが恥ずかしくて目を合わせることなど出来なかった。

今だって、上級生の女子たちに囲まれながらチラチラとこちらを伺ってくる視線に気付かない振りで対してしまっている。

そんなミズキたちを、すべての元凶である東堂がたいそう面白そうに笑ってくれるものだから、それすら見たくなくてミズキは自分の机に顔を突っ伏して寝たフリを決め込むことにした。

四方を腕でガードした真っ暗な世界に顔を埋めれば、そこはなんとも息苦しい空間だ。周りの音がくぐもって聞こえる。
その中に真波とクラスメイトの女子たちの笑い声を見つけて、ミズキはギュッと下唇を噛んだ。

別に嫉妬なんかじゃない。今のはあくびを噛み殺しただけだ。
自分自身に言い聞かせたまま、更に強く腕を耳に押し付けて周りの音を断絶した。


……東堂は先輩として真波を厳しく評価していたが、考えてみれば、彼がモテる要因は非常に多かった。

まず顔。彼は女の子顔負けの綺麗な顔をしていて、『ポスト東堂』の座を引き継ぐのは彼だとも言われているらしい。

性格も裏表なく、誰にでも非常にフレンドリーであるため男女関係なく友達も多いと聞く。
普段は緊張感のない顔をしているが、実は自転車競技部の名門であるこの学校でインターハイのレギュラーを務める程の実力者という面もある。

そんな彼を女子が放っておかないのは当たり前といえば当たり前だった。

だから尚更わからないのだ。彼が自分を好いている理由が。
話したこともない、ただ部活の先輩のクラスメイトであるだけの自分に惹かれる要素が。

チリチリと、焼きつくような視線は続いている。恥ずかしさに顔が上げられないまま、ミズキは人工的な暗闇の中でひたすらに授業の予鈴が鳴ることを祈った。

もしここで顔をあげて彼がまだ自分を見ていたら。もう一度微笑むようなことがあれば、本当にどうすれば良いかわからない。

永遠にも思えるような時間の中。
やがて、待ち望んでいた機械的な音が教室内に響き渡り、瞬間、ミズキはホッと胸をなでおろした。

これで確実に彼は去ってくれる。いくらなんでも、授業が始まっている上級生の教室に居座るなんて真似はできないだろうから。
気配から感じるに、どうやら東堂も自分の席に戻っていったようだ。自分も次の授業の準備をしなくては、と伏せていた顔をのろのろとあげた瞬間。

「――ねえ。今日の放課後って、空いてます?」

耳元で囁かれた響きに、ビクリと肩が震えた。反射的に声の方へ視線が動けば、そこには件の彼が立っていて、ミズキのことを見下ろしていた。
何を考えているのかさっぱりわからない笑顔が向けられているのは、間違いなく自分だ。
あまりに急なことで答えられず、ただ彼を見上げることしか出来ずにいると、そんなミズキを気にした様子もなく、彼は言葉を続けた。

「一緒に帰りましょう。って言ってもオレ部活あるんで、それ終わってからになっちゃうんですけど。家まで送るんで、待っててください」

有無を言わさない口ぶり。声を少しだけ潜めているのは、周りへの配慮だろうか。
結局、何も答えることが出来ないミズキを残したまま、真波は自分の教室へ戻って行ってしまった。

……待っていなくてはならないだろうか。
ミズキは彼からの誘いに首を縦に振ってすらいないが、確かにそんなニュアンスだった。
ハッと、周りを見回すが、予鈴中の喧騒の中での一瞬だったため、誰にも聞かれてはいないようで、それだけはホッとした。

(放課後。放課後。今日の、放課後)

頭の中で、ぐるぐる回る。一緒に帰る約束をさせられただけなのに、その日の授業は、始終変な気分だった。









オレンジ色の夕日が教室の中を赤く染めていた。

少し前まではクラスメートたちが賑やかにお喋りをしていたが、下校時間の迫ったこの時間帯。今や教室に残っているのはミズキひとりだけだった。
腰掛けた椅子から足を投げ出してブラブラと揺らせば、自分を形取る黒い影も教室の床の上で同じように揺らめいている。

こんな行動をしたって、ちっとも気なんて紛れやしない。
先程から胸にじわりと広がる緊張を手のひらで押さえつけ、それで楽になるわけでもないのに重いため息を付いた。

本来ならミズキが緊張する必要はないのかもしれない。ただ後輩に一緒に帰ろうと誘われ、それを待っているだけなのだからリラックスして待っていればいいのだ。

けれど、件の彼には自分を好いているという噂がある。嘘か誠か、本当のところは分からないが、自分たちの共通の知り合いである東堂が人を傷つけるような冗談を言わない人だということは承知しているので、この噂がまるまる間違っているということはないとは思っていた。

その彼が、初めてミズキを誘ったのだ。
彼女とて、この意味とこれから起こり得るシュチュエーションが予測できないほど鈍くはなかった。

自分は今、彼に告白された時を考えて緊張しているのだ。
言っておくが告白を受ける、受けないで迷っているのではない。『どう断るか』で悩んでいるのだった。

当たり前だ。だって自分と彼には東堂という存在を介した接点しかなく、まともに話したことすらないのだから。

確かに真波は顔がいい。どちらかと言えばタイプの部類だ。けれど、だからといって人となりを知らないのに付き合うだなんて想像ができなかった。

もやもやと胸にはびこる緊張の中の大部分を占めているのは罪悪感だ。
なるべく彼を傷つけないように。彼が気まずいと思わないように断るにはどうすればいいのか。
考えてはみるものの、色恋沙汰の経験が少ないミズキにはうまい言葉が見つからない。刻一刻と過ぎていく時間が、ミズキの気を焦らせていた。

あとどれくらいで部活が終わるのだろうと、教室の丸い掛け時計を見上げれば、時刻は6時半になっている。そろそろ日も落ち始め、外練習ができなくなる時間帯だ。正確な部活の終了時間はわからないが、もうすぐだろうとは予測がついた。

じっとしていられずに席を立つ。おもむろにベランダに出て外の景色を見回せば、ちょうど練習を終えて片付けを始めている運動部の姿が見えた。
汗にまみれて、泥にまみれて。それでもハツラツと笑っている彼らの表情が眩しい。しばらく眺めていれば、不意に聞き覚えのある声が聞こえてきてミズキはそちらへと目をやった。

「ちょっとだけお話しようよ」
「いやー、でもオレちょっと……」
「面白い話教えてあげる、ほら。隣のクラスの……ーー」

どうやら隣の教室かららしい。開け放たれた窓から隣室の男女の会話がベランダに居るミズキのところまで漏れ聞こえてくるのだ。

間延びした、緊張感の欠片もない男の声の方は今まさにミズキの待ち人である真波の声だ。そして女の声の方は……たぶん、隣のクラスの子。
思わず守りたくなってしまうような可愛い声のその人は、学年一可愛いと持て囃されている美少女であった。

彼はいつだってフラフラふわふわしているから、ここに向かう途中で彼女に見つかり、断れもせず教室に連れ込まれたのだろう。彼らしいと言えば、その通り。
けれど先約があるのにそのいい加減さはどうなのか。曖昧に断りの言葉を入れるも、逃してもらえなかったらしい真波と彼女が談笑し始める声がする。そのことに少しだけムッとしながら、ベランダの隅にちょこんと腰を下ろした。

この教室にミズキ一人しか残っていないように、隣の教室もがらんどう状態なのだろう。いくら耳を澄ませど聞こえてくるのは彼らの声だけだ。

真波だって男の子だ。可愛い子に話しかけられて悪い気はしないのだろう。その声色が普段女子に囲まれている時より幾ばくか高揚しているように聞こえて、あまり気分は良くなかった。

優先すべきはこちらではないのか。誘ったのはそっちなのだから多少強引にでも振り払ってでも迎えに来るべきではないのか。
言い寄られて、約束を忘れてしまったのか。

まるで嫉妬みたいな感情がミズキの頭のなかで回りだして、違う、そんなんじゃないと首を振った。

自分は彼をふるつもりだったのだから、彼が誰と話していようが気になどならないはずだ。ただ約束をすっぽかしてお喋りに夢中になっている真波に腹を立てているだけ。
そう言い聞かせたのに。

「へえ、それ本当?先輩すごいや。もっと教えてよ」

女の子との会話の延長を求めるような彼の声を聞いた瞬間、どうしようもなく胸が傷むと同時に、自分が何かとんでもない勘違いをしていたのだと気がついて恥ずかしくなった。

真波山岳は自分に恋愛感情を持ってなどいない。

今日誘われたのだって、きっと何か相談事があったからに違いない。それが部活のことなのか、学校生活のことなのか、勉強のことなのか、はたまた恋愛関係のことなのかはわからないけれど。

恥ずかしい。恥ずかしい。
彼に告白されるだなんて思い込んで、身構えて、あまつ振る言葉まで考えていただなんて、勘違いも甚だしい。
彼に告白されるべきなのは、いま隣のクラスで彼と話している彼女のような女の子なのだ。

美男美女。お似合いではないか。見ているだけで目の保養になる。
彼らが付き合いだしたら真っ先にお祝いを言おう。皆と一緒に少しひやかして、照れて赤くなった彼らをまたからかうのだ。それで、

「ミズキ?」

突然頭上から声が降ってきて、ミズキはビクリと体を震わせた。俯いていた顔をハッとあげる。声をかけてきたのは他でもない。クラスメイトで、友人である東堂で、教室の窓越しにベランダのミズキを見下ろしているようだった。

「こんなところでどうした?カバンだけ置いてあるから驚いたぞ」
「ん、ちょっと」
「今日は真波と帰るのではなかったのか。アイツ部活中ずっと帰りの話ばかり……ーーおい、どうして泣いているのだ」

真波、と名前が出た途端溢れだしてしまった涙に、東堂は慌てたようにベランダの方へと回り込み、ミズキの肩を掴む。
部活終わりでシャワーでも浴びたのだろうか。髪が少し濡れている。

「東堂くん、風邪引くよ」

濡れた黒髪をぼんやりと見つめながらそんな言葉を口にすれば、東堂は「そんなこと言っている場合じゃ、」と声を荒らげかけたが、その時聞こえてきた隣室からの楽しげな笑い声にハッとしたように目をむいて、そして悔しそうに口を噤んだ。







「……帰るか」

たっぷりと迷ってから彼が口にしたその言葉。嗚咽混じりのまま肯定で返し、東堂に支えられながら校舎を後にした。

泣きすぎてぐしゃぐしゃになった頭のなかで耳鳴りがする。校門前を通り過ぎる途中、誰かに名前を呼ばれた気がしたが、もう振り返る気力さえ残っていなかった。
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