91:二人の訪問者



電車を乗り継いで数時間。駅に降り立ったしおりは、凝り固まった筋肉を解すために大きく伸びをして息を吐いた

握っていた携帯電話の画面に目をやると、メール受信を表す封筒のマークが表示されている。
慣れた手つきで開いてみれば、そこには簡潔な一行だけの文章が映しだされていた。

『今日は何時に帰ってくるの?』

母からだった。
これは、先ほど自分が電車の中から送った、今日帰省することを伝えるためのメールへの返信だ。
かなり急なことだったというのに、母からの返信には驚いた様子も、文句のひとつすら見受けられなかった。

地元を離れてもう一年半が経とうとしている。なのに、それはまるで実家で暮らしていた時のやり取りそのままなのだ。
娘の帰宅をただ当たり前のように受け入れてくれる家族の暖かさ。
そんな些細な幸せが嬉しくて、少しだけにやけてしまった。

「ゆうがたには、かえります……っと」

口の中でブツブツ呟きながら、その通りの文章を画面に打ち込んで送信する。
無事送信が完了されたのを見届けてからチラと画面上部に表示された時刻を確認すれば、まだ午前中であった。

既に地元に到着しておきながら夕方に帰ると伝えたのは、何も予定より早く帰って両親を驚かせるサプライズを仕掛けようとしているわけではない。
単に、帰宅前にこなさなくてはならない用事がるので、このまま実家に直帰する気がないという理由であった。




慣れ親しんだ地元駅のホームを大きな歩幅で迷いなく進み、改札口を出る。駅から出ると、まだまだ元気なセミが声を枯らして鳴いていた。

鼻腔に抜けるのは乾いた秋の匂いだ。
また大好きな夏がひとつ通りすぎてしまったのを感じて少しばかりさみしさを感じたが、しんみりしている暇はない、と緩めていた歩調をまた大股でもってグングンと進めた。


今日は土曜日。学校は休みだ。
けれど、練習熱心な『彼ら』はきっと、今日も練習に打ち込んでいることだろう。
そんな確信を持って、そこへの道のりを進んでいく。

『彼』もきっと自分と同じ気持を抱いていたのだろう。だからこそ、今日に決めたのだ。



バスに乗り換え、目的地に向かう。
近づく度に心臓がじわりじわりと締め付けられるような感覚がして、何度もため息が漏れてしまった。

(降りたら、まず部室)

気持ちを誰にも悟られないように、頭の中でそんな言葉だけを繰り返して唇を真一文字に結んだ。

窓の外を流れる景色は、自転車に乗っている時よりずっと速く通り過ぎていく。
徹底管理された空調は、バスに乗っている間の快適な環境を約束してくれるようにゴオゴオと音を鳴らしていた。

確かに快適だ。けれど。

なんだか無性に自転車に乗りたいと、そんな気分にさせられる。暑くても、寒くたって良い。ただ風を切って、無心に走り出したい。だってそれがしおりにとっての精神安定剤だから。

(いっそ、自転車の夢でも見れば、少しは楽になるかしら)

駅から目的の総北高校まではバスで15分。酷く短い旅になる。
この緊張では眠れもしないし、夢だって見られない。わかっているが、そうでもしないと気が気でないのだ。
そっと瞳を閉じて、暗闇を受け入れる。瞬間、瞼の裏に映ったのは四人の友人たちが自転車に跨がり笑っている姿だ。

たったそれだけ。なのに、それだけで心がふっと軽くなるのを感じて、いつだって自分を助けてくれる彼らに、今更ながらに感謝していた。







**********









コンコン、と控えめにノックされた部室のドアに、巻島は嫌な予感を感じていた。

その訪問者が、この部の関係者ではないことは明らかだったのだ。なにせここは男世帯のむさくるしい部活だ。礼儀などあってないようなもので、関係者であればノックと入室がほぼ同時な流れ作業であるのはもはや伝統なのだ。

けれど、今扉を叩いた人物はいくら待ってもそれをしない。だからそうだと判断するのだ。

『そこにいるのは部外者だ』と。

皆もそれに気がついているようで、あからさまに表情を緊張させているのが空気でわかった。
部室の中は、先ほどやってきた部外者による騒ぎの余韻がまだ尾を引いていて、とてもじゃないが練習が出来る雰囲気ではない。

来年のインターハイへ向けての調整はもう始まっている。だからこれ以上の勘弁願いたいのに、どうやら面倒事とは連続するものらしい。
後輩の手嶋が緊張しながらこちらに目配せしてくるのに小さく頷いて返せば、彼はゆっくりとドアの方へ近寄って、いつもよりいくばくか低い声で「はい」とだけ返事をした。

慎重にドアノブを回し、少しだけ引く。彼の采配で最低限に開けられた扉。漏れだす光の細さから見るに、手嶋にだけ訪問者の姿が見えている状態なのだろう。彼の反応を伺う部員たちの雰囲気が緊張で包まれているのが見て取れた。

……話は変わるが、この手嶋という後輩は実によく頭の回るヤツだと思う。
自分や周りを客観的に観察しているのだろうか。いつだって冷静さを事欠かないし、根性もある。

今だって先ほどの騒ぎから判断した上で、何があってもすぐ対処できるような扉の開け方をしたのだ。
この頭の回転力の早さは、レースに出る上で大きな武器になる。今はまだその頭角を表してはいないが、近い将来、きっと良い選手になるだろう。

今ドアの前にいる訪問者がどこの誰かは知らないが、きっと手嶋が対処すれば問題はあるまい。そう、どんな訪問者だったとしても手嶋ならきっとストイックに……――

「手嶋ァああ!」

その時誰かが痛烈に叫んだ声にハッとして、巻島は弾かれたように呼ばれた後輩の方に視線をやった。
見れば、先程まで必要最低限にしか開かれていなかったドアが、今は限界まで大きく開け放たれて部外者を遮断すべき外界との壁をなくしてしまっている。

そして同時に視界に入ってきたのは、手嶋がすごい勢いで訪問者の女に抱きついている光景だった。
そんな彼に、他の部員が慌てたように飛び出して、手嶋のシャツやら腕やらを引っ張って引き剥がそうとするが、彼は意地でも離す気はないらしい。

……オイオイ、どこが冷静な後輩だ。やって来た女に抱きつくなんざ、とんだ手の早さじゃないか。

巻島も参戦しようと腰を上げかければ、ちょうどその時、手嶋に抱きしめられている彼女は、どうにかもがいて彼の腕の隙間から顔を出すことに成功したらしい。

ぷはっ、と息を吐き、死にそうな表情の彼女の顔。その顔が、こちらに向いた途端にパッと花を散らしたように明るくなったのが見えた。
……ああ、見覚えがある。ありすぎる。

それは、本日二度目。望んでもいない、箱根学園からの訪問者だった。

「……何してるッショ、佐藤」
「ちょっと里帰りに」

頭を抱える巻島に、予期せぬ熱烈歓迎を受けてしまった箱根学園自転車競技部のマネージャーは苦笑を見せた。

里帰りで敵チームの部室に乗り込むヤツがあるか、だとか、インターハイでの福富の一件の説明だとか、手嶋との関係は何なんだとか、というか苦しくないのか、とか。

聞きたいことは山ほどあったが、そこをグッと堪えて言葉を飲み込む。
部室内を見回せば、ただでさえ混乱していた部員たちが、さらに混乱したように唖然として呆けていた。

どうせ練習出来る雰囲気ではないのだ。だったらじっくり、ゆっくり話そうではないか。
そこで一瞬、因縁のライバル校のマネージャーを部室に入れてしまったことがバレたら、金城は何か文句を言うだろうかと考えたが、そういえばアイツもライバル校のエースを連れてサイクリングに行ってしまったのだった。人のことに口出しできる立場ではない。

「入れ」

部室内の方へアゴをしゃくって、未だ手嶋を引っ付けたままの彼女を部室の中へと招き入れた。


 
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