90:決意への決意



「まさか福富がなあ……」
「一番ファウルプレイなんかしなさそうな顔してるのにな」

声を潜めた部員たちの会話を聞きながら、しおりは黙々と作業を続けていた。

今年の夏も、箱根学園は王者の名を守り抜くことが出来た。
けれど、いつもの様に手放しに喜ぶ雰囲気はそこにない。その原因が、今年の勝負の裏にあった『事件』ゆえのものだということは、満場一致の感情で間違いなかった。

もちろん、しおりもその一人だ。心の中に蔓延るモヤモヤとした気持ちに、眉間のシワを深くしながらゆっくりと息を吐いた。





――福富が、他校の選手を落車させたという事実を知ったのはインターハイ二日目が終わり、宿泊施設でミーティングをしている最中の出来事だった。

主将からレース最終日の作戦確認の説明を受けている時だ。福富が突然右手を自分の真上へと伸ばし挙手したかと思うと、三日目出場の辞退を申し出たのだ。

……その時の騒ぎといったら、今思い出すだけでも身が震えてしまう。

彼に向けて飛び交う罵声や怒号。胸ぐらに掴みかかろうとする部員に、しおりは慌てて彼を庇った。

「待って!待ってください、何か理由がある筈です!聞いてあげてください!」

上ずりそうになるのを必死でこらえながら声高に叫ぶ。
彼女とて突然のことに非常に混乱していた。だって、彼が辞退しなければいけない確たる理由がその時のしおりには思いつかなかったからだ。

確かに、彼がその日のレース中に他校の選手との接触事故で落車したことは聞いていた。
けれどその傷といえばかすり傷や軽い打ち身程度のもので、決して出場辞退するような傷ではなかったはずなのだ。

むしろ接触を起こした他校の選手の方がかなりの怪我を負ったらしく、もう優勝戦線に絡めないであろうその選手のことを思えば福富が最終日まで出場してキッチリ優勝するのが道理だろうと皆思っていたのだ。

けれど今、福富はレースへの欠場を申し出ている。

この意味を、彼は皆が納得するように話さなければならない。知らさなければならない。
しおりが心配そうに見つめれば、彼は酷く辛そうに顔を歪めると、声を絞り出してやっと言った。

「自分が相手のジャージを引っ張って落車させました」


……それは、皆が思っていたどんな理由よりも、思った以上に。彼の欠場を認めるには十分すぎる理由であった。

確かにプロの世界でも、大会関係者の目が届かないところでそういったファウルプレイを行ってしまう選手はいる。
けれど、その違反行為に対して罰則を受けるのは、現行犯で大会関係者に見つかった場合や被害者による証言に基づいた反則行為の明らかな証拠が見つかった場合が多いのだ。

普通なら、こんな大きな事故が起きれば被害者が連盟に異議申し立て、すぐに事実発覚しそうなものなのだが、実際今の今まで大会側からも被害者側からも何の連絡も入っておらず、結果福富の発言で事実発覚した程なのだ。

ということは、被害にあった高校が事故に関しての報告をしていないのだろう。

――何故。どうして。
そんな疑問が湧く以前に、部員たちはそのことを幸いと見ているようだ。
不正を働いた福富を責めるより、明日もレースに出場出来るという安堵の方が大きいらしい。

怪我人が出ているのにこんな反応は良くないのかもしれないが、部員たちはこのインターハイの為に血の滲むような過酷な練習をしてきたのだ。その努力が、王者としてのプライドが。こんな中途半端なところで絶たれてしまうことを恐れてしまう彼らの気持ちは痛いほどわかっていた。

……翌日の最終日で、箱根学園が他の選手を一切寄せ付けない圧勝を見せられたのは、結果がボロボロだった総北高校に対する弔いの念もあったからかもしれない。





今年も栄光を手にした箱根学園。
けれど、決して清々しい優勝ではなかったという点において、その原因をつくった福富は部員たちから非難され続けていた。

陰口を叩かれ、嫌味を言われても。それでも黙ってペダルを回し続ける福富の雰囲気は酷く重苦しく、話しかけるにかけられない。

最も仲の良いしおりたちも、普段は空気も読まずに「福富さん、福富さん」と懐きに行く葦木場ですら、そんな様子の福富を心配しながらも傍観することしか出来ない有様であった。


……彼は、フェアプレイを怠った。これは揺るぎない事実であろう。

けれど、しおりにはやっぱり福富が不正を行ってしまった動機が見当たらなかった。
彼の実力があれば、そんなことをせずとも勝てたはず。確かに総北高校の金城は素晴らしい選手だと思うが、それでも実力で言えば福富のほうが上だったはずだ。

なのに手が出てしまったということは。考えられるのは、金城に何かとてつもない煽られ方をしたか、もしくは福富の心の弱さが祟ったかのどちらかだろう。

前者の可能性は低いと思われた。
以前金城選手と接してわかったが、彼は『良い性格』こそしているが、そういう行為をするような人ではないのだ。内側から染み出している正々堂々とした男らしさは、性格が歪んでいては到底生み出せない。

かと言って後者である可能性も考えにくい。
だって、ずっと見てきた福富は自分の強さに誇りを持ち、やるなら実力でねじ伏せるというタイプだったから。表情さえ滅多に崩さない彼の、鉄のようなその心が揺さぶられるとは一体どんな状況なのか。

全く想像すらできなくて、しおりは余計なことを考えるのはやめよう、と手元の紙の束に目を落とした。


今やっているのは部員たちの部活欠席届の整理だ。参加人数やメンバーによって練習メニューが変わってくるため、箱根学園自転車競技部では部活を休む際にはこの欠席届の提出が義務付けられている。

欠席しなければいけないとわかればすぐ提出することになっているが、急な用事なら当日でも、誰かに頼んで代筆でも構わない。
とにかくその日休むという意思と、理由が表記されていれば問題ないのであった。

順番に目を通し、出欠用カレンダーに丁寧にメモしていく。
校外学習、旅行、法事。理由は様々だが、三年生の欠席届に塾や受験勉強の備考が書かれているのを見ると、彼らの引退が近いのだと悟り、それだけで少し感傷的になってしまった。

そうしてまた事務的に一枚紙をめくる。
するとそこには、欠席届の処理中には滅多に見ない部員の名前があり、しおりは思わず息を呑んでしまった。

『福富寿一』

神経質そうなキッチリとした楷書で書かれた名前。
何よりも練習を重んじる彼がこの届けを出すことなどほとんどないので珍しいのだ。出したとしても、備考に書かれていることといえば『レース出場の為』だとか『遠方合宿の為』だとか、自転車関係のことばかり。

それが今回ばかりは違っていて、しおりは彼の書いた欠席届けの文字に指を這わせた。

「バカね」

誰にも聞こえないように、口の中でだけで呟いてみる。
欠席届の提出日はインターハイの後すぐになっていた。ずっと、誰にも言わずに。相談もせずに。こうしようと考えていたのだろうか。

どれだけ悩んだのだろう。彼はいくら辛くたって表情を変えないのでわからないから厄介だった。
甘えてくれないのでわからない。弱音も言わないので励ますことすら出来ない。

ただ、彼が自分で悩んで『それ』を決めたのなら。
自分に出来ることは、傍で静かに応援することだけだ。

白紙の欠席届を取り出して、しおりは自分の名前を書いた。
欠席日に彼と同じ日を書き込んで、備考欄にはこう書き込む。

『帰省のため』

それ以上の意味は無い。それ以上をする気もない。
帰省した先で何を見ても、聞いても。彼の決意をただ受け止めようと、そう決意した。


 
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