87:理想に近づく



合宿最終日の練習後。旅館の中はいつも以上に騒がしかった。
その理由といえばもちろん箱根学園自転車競技部の面々のせいだ。
三日間のレース漬けで皆疲れきっているだろうに、合宿が終わったという安堵と達成感にハイになってしまっているらしい。学年関係なく、まるで修学旅行よろしくはしゃぎ回っていた。

旅館のおひつが空っぽになるほど食べた後だというのに腹が減ったと売店に食べ物を買いに来る者。
温泉に浸かってサッパリしたから自主練で汗を流してくると謎の理論を披露する者。
ひたすら無言で卓球台で打ち合いをしている者。

皆明らかに常軌を逸した行動をしているが、けれどそれはどうしようもなく楽しそうで。

「お前ら、頼むから大人しくしてろ!」

旅館はほぼ我が部の貸切状態ではあるが、あまり騒いでは従業員にも迷惑がかかる。主将がハメを外しすぎる部員を見つけるたびに叱りつけてはいるが、どう考えてもキリがない。

大人数を束ねなければならない部活の主将はこれだから大変だ。
けれど、頭を抱えて嘆くその姿からは他の部員同様、どこか浮かれているのが感じられる。厳格な主将ですらそうである為、なおさらに旅館全体が非常に和やかな雰囲気に包まれている気がした。


そんな中、まだ慌ただしく動いているのは自転車競技部のマネージャー達だ。明日の朝スムーズに箱根学園へ帰れるよう、夜の間に荷物を片付け、まとめて置かなくてはならないのだ。

先輩たち男子マネージャーが救急セットや自転車パーツの部材をまとめ、しおりたち女子は洗い物担当。
旅館に許可をもらい、従業員用の給湯室を借りてそこで大量のドリンクボトルの洗浄に勤しんでいた。

山積みのボトルたちと格闘している合間にも響いてくる彼らの喧騒。しおりが呆れたように息を吐けば、隣で作業していたルームメイトの彼女が釣られるようにクスクスと小さな声を上げたのが聞こえてきた。

「みんな元気だねえ」
「本当にね。でも死ぬほど疲れてるはずだから、布団に放り込んだら三秒で静かになると思うよ」

だって、合宿中自転車に乗っていないしおりですら、疲労困憊気味なのだ。今だって、体にまとわり付くけだるい疲労感を抱えながら、無意識に手を動かしているような状態である。
だのに三日間ペダルを回し続けた部員たちが平気なはずがない。たとえ自分たちとは比べ物にならないくらい体力があるとしても、だ。

『一人捕まえて試してみる?』と冗談めかして言えば、ルームメイトは可笑しそうに声を上げて笑ってくれた。


……本当に穏やかな時間だ。

夏合宿最終日の夜は、インターハイ前のつかの間の休息時間とも言える。
一時はどうなることかと思った今年の合宿もどうやら何事もなく終えられるらしい。

三日間のレースで、レギュラーチームはかなり良い具合に仕上がってくれた。どの場面で、誰がどんな働きをすればいいか。その判断力の早さに磨きがかかり三日前よりさらに強いチームになっているのは確実だった。

そして、そんな一分の隙さえ見当たらないレギュラー陣の圧倒的な存在を前に、他の部員たちも呼応するように順調に力をつけてくれた。

初日に張り切り過ぎた三人も二日目からはレースの内容を重視してしっかり走っていたし、復帰に向けて人知れず努力中の新開も確実に前に進んでいる。

あれだけ問題視していたご褒美制度も、初日以来自分のために奮闘してくれた三人がリザルトポイントの一位を獲得することはなかったが、それでも無茶なお願いをしてくるような部員はいなかった。

何もかもが順調だ。そうなるように皆が努力したのだから当たり前だ。
だから、今日この時くらいは何もかも忘れて思いっきりリラックスして過ごして欲しい。

去年もそうだったが、この合宿が終われば部内は一気にインターハイに向けての緊張した雰囲気に変わってくるのだ。
一触即発の空気。常勝箱根学園のプライド。
いつも気さくで賑やかな部員たちが、ギラギラと目を血走らせる数日間が始まるのだ。

洗い終わった大量のボトルを重ね、蛇口を締める。勢い良く出ていた水の涼しい音が途切れて、空間に残ったのは遠くで聞こえる部員たちの楽しげな声だけになった。
パッパッ、と手を振って軽く水を切り、濡れたボトルをタオルで丁寧に拭く。それだけでは内側の水滴まで取りきれないので、全て逆さに並べて夜のうちに乾かしておく必要があるのだが、この量のボトルを乾かすにはどこか広い場所に移動する必要がある。

大きなかごに2人でボトルを山ほど詰めても、何往復かしなければいけないような量だ。疲れた体にこの往復は辛かったが、やるしかないと腹をくくって移動を始めれば、歩き出してすぐのところで偶然そばを通りかかった新開とバッタリと出くわした。

「なんだ、おめさんたちまだ働いてんのか」

どうやら自販機のアイスを買いに来ていたらしい。アイスの自販機はすぐそこなのに、既に半分ほどなくなっているのは実に彼らしかった。

「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。新開くんだって疲れてるでしょ。せっかくのリラックスタイムなんだから好きに過ごして」
「ふーん、じゃあ好きにさせて貰うかな」

彼は残りの半分を大きな口でもって飲み込むと、棒の部分をゴミ箱に捨てて一息つけてから突然大きな声を上げた。

「おーい、皆来てくれ!!」

大声で集合をかけた彼の声に反応するように、そばでたむろしていた部員たちがなんだなんだと集まってくる。
そこには福富たちの姿もあって、駆けつけてきた彼らは状況説明されるまでもなく、大きな荷物を抱えたまま唖然としているしおりたちを見ると彼女たちの抱えたボトルカゴを奪い取ってしまった。

「ち、ちょっと!」

もちろんその場に置かれている何個ものボトルの入ったカゴも彼らの手によって持ち上げられている。
それは自分たちの仕事だ、と慌てたしおりが取り返そうと手を出すが、彼らがそうはさせない、とカゴをヒョイと頭上に持ち上げてしまったのでどうにも叶わなかった。

「ずるい!ねえ、福ちゃん返して!」
「駄目だな。これは非常口脇の長机の上で乾かすんだろう?」
「そうだけど、私達でやるから!」

いきなりの事態への混乱から、無謀にも一番たくましい福富からカゴを奪い返そうとするも、もちろん屈強な肉体を持つ彼の体はビクともしない。
それでも抱きつかんばかりの勢いで彼の頭上に手を伸ばす。ピッタリくっついた体に福富がギクリと一瞬息を詰めたが、すぐに近くにいた荒北にポカッと頭を叩かれて引き剥がされてしまった。

「良いから大人しく手伝って貰えっつの」

言った荒北の腕の中にもやっぱりカゴがある。それを奪おうとして、当たり前の様にかわされた。

「だって。これはマネージャーの仕事なのに……」

自分たちよりよほど疲れている彼らがそれを手伝うのはやはりり違うと思うのだ。
不服そうな視線を投げるしおりに、それまで黙っていた東堂がやれやれと息を吐いた。

「しおりの仕事がいつまでも終わらないと皆が困るのだ」
「どうして?」

きょとんとして目を瞬けば、その場にいる彼らは、苦笑するように答えた。

「だってさ、マネージャーの手が空かないとアドバイスもらえないじゃん」

――だったら疲れてたって皆で手伝って、早く終わらせたほうが良い。

彼らはさも当然のようにそう言うと、颯爽としおりたちに背を向け、また賑やかに談笑しながら大量のボトルを抱えて行ってしまった。

その後姿に、もう引き止める声をかけることは出来ない。
手伝ってもらって申し訳ない。支えなければならないはずの自分が、助けられてばかりで恥ずかしい。

けれど、それと同時にどうしようもなくうれしい気持ちが胸いっぱいに広がって止められなかったのだ。

一気に手持ち無沙汰になった手の平には何も入っていない。彼らが全部持ち去ってしまったから。
けれどそれとは別に何か暖かな、大切なものをもらった気がして、しおりはそれを落としてしまわないように、ゆっくりと握りしめた。

「すごいね」

酷く優しい声色に振り返ると、声の通り優しい表情をしたルームメイトの彼女が目を細めながらこちらを見ていた。

思わず彼らに貰った大切なモノを彼女にも見せようとして、それがカタチにないものだと気がついて困ったように動きを止める。
けれど彼女はそれすら受け止めてくれるように優しく微笑むと、しおりの手にそっと自分の手を重ねた。

「しおりちゃんは、皆にあんなこと言ってもらえるくらい、頼りにされて、大事にされてるんだね」
「ちがうの……逆だよ、頼りないから皆が助けてくれるの。皆、優しいから」
「ううん。三日間だけだけど、ずっと見てたからわかるよ。しおりちゃんに励まして貰った人も、アドバイス貰った人も、皆スッキリした顔してたもの。それってすごいことよ」

――まるで大黒柱みたいね。
と、そこだけ妙な表現をした彼女に、しおりは思わず吹き出して笑ってしまう。
笑われたことに少し頬を染めた彼女も、けれどやがて一緒に声を上げて笑い、じゃれるようにしおりを抱きしめてきた。

……大黒柱、は言い過ぎだ。
だって、そういう役割は歴代の主将たちのようにどっしりと構えて部の象徴となるような人に与えられるものだから。

けれど、しおりはいつかはそういう存在になれたらとは思っていた。

いつだって、どんな時だって皆を支えられる位の力が欲しい。もちろん、ここで言う『力』とは物理的なそれではない。

知識と技術で、選手たちを完璧にサポート出来るような存在になりたい。彼らの最高のポテンシャルを引き出せるような、そんな存在になりたいのだ。

その為だったら。大好きな彼らの為なら、どんな努力だって惜しまない決意は、この胸の中に確かにあった。

皆からの自分はどう見えている?
少しでも、この理想に近づけている?

彼らはいちいちそんなことを口に出さないけれど、自分に与えてくれる優しさのひとつひとつが彼らが示す自分の評価であってくれるなら……――

そんな自惚れがバレないように、しおりも彼女を力いっぱい抱きしめて嬉しい気持ちを誤魔化した。


 
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