85:キャパシティ・オーバー



……まずいことになった。

長い夏の日差しがようやく傾きかけてきた午後のレース終わり。荒北は流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭いながら舌打ちをした。

現在のリザルトポイントはと言えば、レギュラーチームの先輩が首位で、東堂が2位につけているという状況である。その差はたったの2点。これなら十分に逆転の余地があるとも言えるが、このレースに置いて2点差というのは非常に不安定な数値でしかないのが事実だった。

一度でもリザルト首位を逃せばそれだけで確実に2点以上差が付くようなレースなのだ。
逆を言えば一度でもリザルト首位を獲ることができれば相手をグッと追い詰めることが出来るレースでもある。
まさにハイリスク・ハイリターンだ。

最後まで誰が勝つかわからないこのルールは、勝負事が大好物の自転車競技部の面々にとっては何より燃えるものに違いない。このメニューを考えた彼女も、きっとそれを狙ったのだろう。
マネージャーなのに、部員よりも勝負事に熱くなっってしまう自転車馬鹿なじゃじゃ馬マネージャーの顔が頭に浮かんだが、すぐ消えた。

……そう、確かにこれは燃えるレースだ。ただし、今はちっとばかし状況が違う。
今日絶対に優勝しなければならないというプレッシャーがかかっている自分たちは、とてもじゃないが今このレースを心底楽しめる余裕はなかったのだ。

絶対に優勝してやるという強い気持ちと、実力差故にじわじわと広がっていく順位。焦れば焦る程ペダリングが乱れ、荒北の今の順位は優勝圏外だった。

一番の有力株であった福富も、第一レースでの無茶な走りを先輩たちにこってりと絞られ、その後のレースでも活躍の場を与えられることなく今に至っている。
表情が変わらないことに定評のある彼が、レース中、休憩中問わず八つ当たりのような殺気を振りまいている様子が酷く印象的だった。

(そりゃあそうか)

実力はあるのに思うように走らせてもらえない、リザルトも獲れないことが彼にとってどれだけの苦痛かは容易に想像がつく。
加えて今回の件には福富が溺愛している彼女が関わっているのだから、彼が抱えているストレスというのは相当なものなのだろう。

……となると、頼みの綱は東堂ただ一人となる。

太陽の傾き方からいっても、今日のレースはあと1レースだろう。ここで東堂が踏ん張って首位を獲ることが出来れば、自分たちの勝ちだ。先も言ったが、彼は十分に逆転を狙える位置にいるので、理屈的には彼の優勝だって無理な話ではなかった。

けれど、当の優勝候補である東堂は度重なる無茶が祟り、どうやらすでに体力も気力もキャパシティ・オーバーしているらしい。いつ倒れてもおかしくない程に疲れ果てている様子が傍目からも見て取れた。

当たり前だ。チームメイトからの全面的なアシストがあるとはいえ、ゴール前スプリントは酷く体力を消耗するのだ。本来クライマーの彼が、全てのリザルトポイントで全力スプリント勝負をしているのだから、疲れないわけがない。

実力があるとはいえ、彼は体格が飛びぬけて良いわけでもない。スタミナだって同様だ。

いつものうざったい軽口も聞こえてこない。こちらにちょっかいをかけても来ない。それだけで彼の余裕のなさが伺える。
精魂尽き果て、ボロボロの姿を見ていると、優勝どうこうではなく次のレースを彼がゴールまで持ち堪えられるかすら微妙に見えた。









「おい、東堂。大丈夫かよ」

もうすぐ今日の最終レースが始まるというのに自転車のハンドルに突っ伏したまま動かない東堂に、荒北が声をかけた。
うるさいだけが取り柄の奴が静かだと、何だか調子が狂ってしまう。

呼びかけにピクリとも動かない彼は、いま本当に生きているのだろうか。ここに確かに存在しているのに、やけに希薄な気配に心配になって肩を揺すろうと手を伸ばせば、その時、彼の方からボソボソと蚊の鳴くような小さな声が返ってきた。

「――……な、る」
「あ?」
「わからなくなるんだ」

その一言で察する。自信家の彼にしては珍しい、それは弱音だと思った。
これだけ自分を追い込んで極限状態にいるのだから、多少愚痴りたくなる気持ちもわからないでもない。
黙っていれば、東堂はそのまま独り言のように言葉を続けた。

「こんなに苦しいのに、辛いのに足が回るんだ。もう駄目だって緩めようと思っても、アイツの笑顔や、泣き顔を思い出すだけで気が付くとペダルを踏んでいる。何なんだこれは。自分の身体なのにわからない。……心なのに、わからなくなる」

そう言って顔をあげた東堂の表情は、荒北が思っていたような生気のない顔ではなかった。
むしろ、ギラギラしている。

周りが長いレースの疲れでぐったりとしている中、彼一人だけがまっすぐと見えないゴールの先にある勝利を見据えているように見えた。

諦めたのではないのだ。疲れていたから話さなかったのではない。
彼は最終レースに向けて、最後の追い込みとばかりに集中力を高めていただけだったのだ。

ビリビリと、東堂の闘争心が空気を伝って流れ込んでくる。鳥肌が立つようなその感覚に、荒北は普段お茶らけている彼の堅い決意の一片を見た気がして、思わず言葉を詰まらせた。

……その感情が何かわからないなどと、コイツは本気で言っているのか。

きっと彼はあまりにアイツの近くにいすぎて、よく見知ったはずの。自分が常々異性から向けられているであろうその感覚すらわからなくなってしまっているのだ。

コイツはとんだマヌケだが、同時に酷く気の毒だ。

荒北がそんな感想を抱いたその時。不意に東堂の視線が、パッと動いて何かを捉えたのが見えた。荒北もつられるように彼の視線の先を追えば、そこにはレース前の最終チェックをしているしおりの姿があった。

今朝、あんなに大泣きしたことなど微塵も感じさせないような元気さで、くるくると動き回って働いている。その心に残る不安など、何ひとつ感じさせないような笑顔で部員を励ましている。

それを見た東堂の目が、眩しいものを見るようにふっと細められたのを確かに見た。口元が緩んでいる。笑っている場合も、余裕もないであろうこの状況で、彼は確かに笑んでいたのだ。

きっと無自覚に向けられているのであろう甘ったるい視線。
見てはいけない気がして。見てなどいられなくて。荒北は彼らから目を逸らした。


 
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