7:押し殺した痛み



授業開始直前の教室が、静かにざわめき出したのを感じていた。
平和だったこの教室に突然姿を現したのは、大柄、筋肉質な男。一目見ただけで、彼がどれほど鍛え上げているのかがわかる。服の上からでも分かるほどの逞しさにしばし見惚れた後、しおりはハッとして、自分を呼んだその人に目を合わせた。

同じクラスの生徒ではない。それに、入学してからさほど月日が経っていない今、しおりを名前で呼び捨てにする男子など、隣の席の東堂だけだ。
……では、彼は誰なのか。考えている間に、その人は何の躊躇もなく教室内をずんずんと進んでくると、しおりの座る席の前へと立った。

自分が座っているだけに、大柄な彼の体系がより大きく見える。あまりに驚いて体が硬直してしまい、しおりは彼をただ見上げることしかできなかった。

「久しぶりだな、しおり」
「え?あの……」
「覚えていないのか。お前にとって、俺はその程度の存在だったということか」

無表情でそんな言葉を吐く。ちょっと待って、ここは公共の場だ。意味深な発言は御控え頂きたい。
クラスメイトたちが興味津々といった風に投げかけてくる視線が妙に痛く、また後で友人たちにあれこれと聞かれるのだろうと思うと、なんだか頭痛もしてきた。

しかし、彼は本当に誰なんだろう。

睨み合うように、ジッと彼を見ていると、ぼんやりと記憶の底から何かが浮かび上がってくる感覚がしてならなかった。それを必死にすくい上げ、目の前の彼と照合していく。
太い眉、高い鼻。何事にも動じない鉄仮面。気真面目そうで、男らしくて、それから、それから……。

――私の、一番のライバル。

「……あ」

しおりの息が詰まるのと、福富の瞳に光が宿るのはほぼ同時だった。
そうだ。自分は彼を知っている。知っているどころか、いつも一緒にレースに出ては、互いの力をぶつけ合ったライバルだった。
自転車を諦めると決めた日、何もかも捨てるのだと決意して、自転車に関する全ての記憶に蓋をした。その中に彼の存在もあったものだから、すぐには思い出せなかったのだ。
栄光の色が、頭の中で駆け巡る。ぐらりと意識が揺れるような気がして、しおりは必死で机に手をかけ、自分の体を支えた。

……厄日だ、今日は。

マネージャーになれと追い回されるのはいつもの事だが、フラッシュバックを二回も経験する羽目になるなんて、最悪だ。
特有の具合の悪さを感じて顔を伏せれば、まっすぐな性格の彼はそれを拒絶と取ったのだろう。さらに距離を詰め、しおりの肩を掴んだ。大きな手は、昔と変わらず酷く熱かった。

「何故ゴールに来なかった。何故レースに出なくなった」
「い…た……っ」
「何故俺に何も言わずにいなくなった!!」

ビリビリと、心が震えたのは、福富の悲痛が伝わってきたからだ。
それはそうだろう。いきなり自分が大好きなことでの一番のライバルが業界から存在を消したら、誰もが戸惑う。怒り、悩む。
それでも滅多に感情を表に出さない彼の事だから、きっと誰にも言わずに押し殺してきたのだろう。何年も、何年も。

悪いことをしたと思っている。一番に伝えなければいけなかったのは、共に切磋琢磨した彼だったのに。自分は自分の身に降りかかった人生最大の苦痛に耐えきれず、考えることを。干渉することを放棄したのだ。

福富の指が、肩に食い込んでいく。彼が優しい人で、心が広いのは知っている。でなきゃ、負けた相手を激励して表彰台に送り出すなんてできない。この肩の痛みは、それだけ彼の感情があふれ出ているということだ。受け止めなければいけない。苦しい思いをしたのは、この人なのだから。

「……寿一、そのへんにしておけ」

そこで突然緊迫した雰囲気に割って入ったのは、それまで事の成り行きを見ていた新開だった。福富の肩を引き、しおりと彼との間に隙間をつくって自分の体を割り込ませる。
ハッと正気に戻った福富が新開の顔を見て、それから力任せにしおりを掴んだ自分の手を見る。最後に新開の後ろで震えるしおりに目を向けた彼の瞳には、後悔の念が浮かんでいるように見えて、それはそれは悲痛な様だった。

「授業が始まるし、何よりここは目立ちすぎる」
「あ…あ、そうだな。……すまなかった」

その謝罪は、きっとしおりに向けてのものだ。けれどそれに応えることもできずうつむいたままの彼女に、福富は悲しそうな表情を浮かべてフラフラと教室を出て行ってしまった。

教室がざわめいている。そりゃあ、男が寄ってたかって一人の女相手に騒いでいたら噂にもなるだろう。毎日東堂に追いかけまわされ、今度は他のクラスの福富と新開まで参戦だ。目立たない訳がない。

この年頃に限らず、人はこういう男女のいざこざが大好きなものだ。きっと尾ヒレに羽ヒレがついてあっという間に学年中に色々な憶測が広まってしまうのだろう。

彼女に同情しながらも、新開はスッとしおりに手を伸ばし、うつむいたままの丸い頭の上にポンと手のひらを乗せ、彼女の耳へと口を寄せた。

「あとで話そう。放課後で良いか?」

無言のしおりが、それでも小さくうなずいたのを確認して、新開はそっと彼女から離れた。状況が呑み込めていないままポカンとしている東堂に、後は頼んだと目配せする。すると彼はやっと正気に戻ったのか、大急ぎでしおりの隣の席である自分の席に陣取り、けれどいつものように話しかけはせず、ただ心配そうに長い髪の下に隠れた彼女の横顔を見つめていた。

五月蝿い男だが、懐いた相手にはとことん尽くす奴だ。放課後までは彼が他のものから守ってくれるだろう。
そう期待して、新開は教室を出た。


 
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