81:戦わなければ救えない



「どうした?大声だして逃げろよ。力なんざほとんど入れてねえぞ」
「……っ、」

頭上から、小馬鹿にしたような声が響いて奥歯を噛みしめた。
なんて酷い男だ。怖くて声など出せないのに。声どころか、呼吸だってままならないのに。分かっているくせにわざとやっているのだ。

過呼吸の様に浅い呼吸を何度も何度も繰り返し、必死で肺に空気を入れようとするがそれすら上手くいかない。不器用な呼吸に、何度も嗚咽が漏れた。

……嫌だ。怖い。
自分を縛りつけている彼の手が。向けられる視線が。異様に冷たくて、まるで別人のようなのだ。

不意に、腰の辺りに手を這わされてビクリと肩が震えた。骨ばった大きな手が強張った体のラインをなぞっていく。ジワリ、ジワリと下方へ向かって行ったその手は、やがて彼女のTシャツの裾へとたどり着いた。

荒北の手の動きが止まる。
抵抗すら出来ない現状況下での行為の停止は、本来しおりにとって喜ばしいことなのだろうが、けれどどうしてか。今彼女の頭にあるのは、そこはかとなく嫌な予感だけだった。

これが危機感というやつだ。彼に向けられた怒気がビリビリと肌を焼き、肌が粟立つ。振り解かなければ、とんでもないことになると本能が警告を発している。

「やだ……やだったら!イヤッ!」

慌てて今まで以上に力を込めて暴れてみるが、やはり効果はない。
これが男女の差。覆すことなどできない力の差。本気で抑え込まれたら、止めることも、逃げることも自分には出来ないのだ。

無作法な指が中に入り込んで来て無防備なしおりの素肌に触れた。
息が詰まる。これ以上見ていたくなどなくて、ギュッと両目をつむった、その瞬間。











「靖友、もうその位で良いだろ」

それが合図だとでもいうように、荒北の手がなんの未練もなくしおりの身体から離れた。声の主を追って視線を動かすまでもない。正体は新開だ。いつの間に近くに来ていたのだろう。彼はいつもの穏やかな表情で荒北の肩を叩いて、少しだけ後ろに引いた。

「……ヘイヘイ、わかってるっつーの」

促された重力に、荒北はいつもの悪言を放ちつつも素直に従い、一歩、足を下げる。押さえつけられていた圧力がなくなると、しおりの身体は幹を伝って木の根元へとへたり込んだ。

先ほどの恐怖と、訪れた平穏。これが同じ現実なのかと混乱して、震える呼吸を繰り返すことしか出来ない。
掴まれていた手首が赤くなってジンジンと痛みを持っている。くっきりと指の跡まで付いたそこをさすると、自分の意志で動けることに心底ホッとして、呆然としていた頭がやっと動き出すのが分かった。

……すごく怖かった。
全然動けなかった。小さな悲鳴すら上げることが出来なかった。
あれだけ大口を叩いたくせに、実際出来たことと言えば現実を見ないように目をつむっただけだ。

きっとこれが、しおりが突っぱねて顔を背けた、ご褒美制度が引き起こすであろう危険性なのだ。
ポタリ、と彼女の目から一粒涙が落ちて真っ白なシャツにシミを作った。

分かってる。正しいのは彼らだ。そんなこと、とうにわかっていたのだ。
けれど、だからと言って、今更どうしろというのか。今からレース前の士気の高まった部員たちの元へ行って「やっぱりご褒美の話は無しです」とでも言えばいいのだろうか。

……出来るわけがない。
自分の勝手な言動で、集中している皆を振り回すなど、出来るわけがない。

それで万が一怖い目にあったとしても、それは自業自得。自分でなんとかしようと、腹はくくっていたつもりだったのだ。
――そう、今こうして荒北に攻められるまでは。

「オトコの怖さ、わかったかよ」

不機嫌を張り付けた荒北の声が頭上から降ってくる。反射的に見上げはしたが、逆光で彼の表情はよく見えなかった。

「……わからない」
「あ!?この期に及んでまだンなこと、」
「だからって、今更どうすれば良いかなんて……私にはわからない」

しおりの言葉に、その場にいた誰もが息を詰まらせたような気配がした。
自分のせいで皆を振り回したくない。けれど、よく考えれば今こうしている間も自分はこの4人を振り回して困らせているのだ。
どんな選択をするにしろ、誰かに迷惑をかけてしまうことは避けられようもない事実なのだ。

……本当に馬鹿だ。大馬鹿だ。
自分の馬鹿さ加減に嫌気がさして、消えてしまいたくなった。
未だに震える足を、無理やり叱咤して立ち上がらせる。平気な振りをして4人に向けて無理やり笑顔を作ったが、表情筋が微かに歪んだだけでとてもではないが笑った風には見えなかっただろう出来になった。

「ごめん、私ちょっと頭冷やしてくる。福ちゃん、主将に伝えておいてくれるかな」
「どこに行く気だ」
「ちょっと歩いてくるだけ。すぐ戻るから」

そう言ってくるりと踵を返したしおりに、東堂が「おい!」と声をあげるが、彼女はまるで聞こえなかったかのようにまっすぐと茂みの奥に消えてしまった。
あちらはスタート地点とは逆方向だ。流石にあの泣き顔のまま部員たちの前に顔を出して心配させるわけにはいかないだろうから妥当なのだろうが、それが意識しての行動なのか、それとも無意識からなのかは誰にもわからない。

ただひとつわかるのは、彼女を追いかけるべきだということだ。

東堂が走り出そうとすると、新開がそれを手で制して、首を横に振った。

「オレが行こう。おめさんたちはレースに行ってくれ」
「新開はどうするのだ」
「オレは……ちょっと事情があってな。合宿には参加するがレースは不参加なんだ」

新開の視線がチラリと福富を捉える。自転車に乗れなくなっていることを、まだ彼らには話していないのだ。知っているのは福富と、そしてしおりだけ。
別に信用していないとかそういうことではない。彼らはきっと怒るだろうが、意外と心配性のふたりに下手な気を遣わせたくないというのが本音だった。

――話すのは、もう少し回復してからだ。

新開の視線に無言でうなずいた福富が、しおりの向かった方向とは逆方向……つまりスタート地点の方に歩き出した。その突拍子もない行動に、焦ったような動きを見せながらも荒北と東堂は彼の背を追いかけていく。

それでいい。彼らには彼らにしか出来ないことがある。どんなに彼女が心配でも、彼らはレースに行かなければならないのだ。

……戦わなければ救えない。
勝たなければ、不安と自己嫌悪でいっぱいになっている彼女の心を引き上げてやることすらできないのはわかりきっていた。その戦場に自分が立てないことは非常に歯がゆいが、今は彼らに託す他ない。

「レース、勝ってくれよ」
「無論だ。オレ達は強い」

全国レベルの選手が集うこの部で、誰よりも多くリザルトを獲ることがどれだけ大変な事かは、皆承知の上だろう。上級生など、それこそ化け物級の選手だらけだ。
けれど、彼らはたった3人で。しかも3人とも違うチームの中でそれでも勝たなければいけないのだ。
無謀な挑戦を前に、なのに相変わらず揺るがない福富の単調な声色が、酷く頼もしく聞こえた。

「それと、靖友!」
「あ?まだ何かあんのかよ。レース始まんだけどォ」
「悪役、買ってくれてありがとな」
「……べっつにィ。あの無自覚女にお灸据えてやっただけだ」

彼の言葉が尻つぼみになる。照れ隠しのつもりなのか、頭を掻いていた。
口では憎まれ口を叩いているが、あれを自ら進んでやってのける勇気にはこの場にいる誰もが感謝しているのだ。

彼女は大事なマネージャーだ。
それ以前に、大事な友人でもある。

今回の合宿の危険性を示すためとはいえ、わざと怖がらせたり、泣かせたりするなど、とてもじゃないが他の者では出来なかっただろう。
彼女に嫌われたくないのは、皆の共通意識だ。
けれど彼は買って出た。皆が踏みとどまってしまう一線を踏み越え、見事に彼女に自覚させたのだ。

何でもない顔をしてこそいるが、きっと彼の頭の中は先の彼女の泣き顔と、罪悪感で満たされているのだろう。
あの光景を思い出してしまったのか、苦虫をつぶしたような表情をした荒北に、福富がそっと彼の背を叩いて、慰めた。

「助かったぞ荒北。オレからも礼を言おう」
「福ちゃん……」
「うむ、そうだな!実に素晴らしい変態っぷりだった!オレにはとても真似できんよ!」
「……それ貶してね?」

賑やかな3人の姿に、新開が苦笑する。どうやら、自分たちはしんみりするのは性に合わないようだ。
暴れて、騒いで、ひたすら直進。壁に当たったなら右旋して、また直進だ。それしか能がないのだからしょうがない。そういう生き方しか出来ない男たちなのだから、しょうがない。

さあ、行かなければ。
どこかでうずくまって泣いている彼女を連れ戻すのが自分の役目だ。
踵を返そうとした瞬間、今度は荒北に「おい」と呼び止められ、新開は彼らの方を振り返った。

「しおりチャン、頼んだぞ」

真っ直ぐ見つめてくる目には、自分への信頼が映っている。そして彼らを見つめる自分も、そんな目をしているだろう。
彼女に奇跡を見せてやるのは彼らの役目。不可能を可能にする彼らの力を。自分たちのチームワークを、見せてやろうじゃないか。

応える代わりに、バキュン、と指で空を撃ってみせた。


 
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