80:いつものアメとたまのムチ



左腕にはめた腕時計に目を落とした。
時刻は午前9時30分。合宿初日のレースは午前10時からの予定なので、そろそろ選手たちの体調の具合などを聞きつつスタート準備をしたいところである。

なのに、しおりが今いる場所と言えばスタート地点とはまるで逆方向の人気のない茂みの中だ。梅雨時期の雨と夏の太陽をいっぱいに浴びてすくすくと育った草木が、良い感じでそこに集う彼らの姿を隠してくれていた。

別に見られて困る……ということはないのだろうが、個人的には出来るならこんな状況は他の部員たちには見られたくない。
大きな木の幹に追い込まれるようにぐるりと周りを男たちに囲まれたしおりは、彼らのただならぬ雰囲気に気圧されて小さく縮こまっていた。

「ええと……怒ってる、かな?」

空気を変えたくて無理やり作った笑顔で茶目っ気を出してみたが、複数の目にじろりと睨まれてすぐに閉口した。見ればわかる。当たり前だ。

誰もが苦虫をかみ殺したような苦渋の表情を浮かべ、ヤンキーよろしく腕組みに青筋まで立てている者すらいるこの状況。これを仮に怒っていないとするなら、他にどう表現すればいいのだろうかと思考を巡らせてみた。

柔らかく言えばプッツンしているとか。お堅く言えば憤怒しているとか。
……あれ、でもこれじゃあ言い方を変えただけでどれも怒っていることに変わりないのではなかろうか。

「しおり、聞いているのか。あのご褒美制度とやらは何なのだ」

くだらないことを考えていると、別のことを考えているのに気が付かれたらしい。東堂が座った目でこちらを見据えていて、思わずギクリと肩を震わせてしまった。

普段は笑う時も、怒る時も、いつだって必要以上に大声なのに、どうして今日に限ってはこんなに静かなのか。
いつもみたいに大口を開けて怒鳴ってくれたらこちらとてその勢いに便乗して言い返せるのに。

そこまで考えて、しおりは頭の中で頭を振った。
いや、わかっている。それだけ彼が怒っているということなのだろう。淡々と諭すような口調はまるで嵐の前の静けさの様で、妙に心が不安になるのを感じてしおりは誤魔化すように視線を下げて答えた。

「……聞いてるよ。勝手にご褒美とか作っちゃったことも反省もしてる。けど、何か目標があった方が皆のやる気も出ると思ったの。実際、盛り上がったでしょう?」

我ながら、酷い言い訳だ。いまどき小学生だってもう少しまともな返しをする。
葦木場にご褒美制度の裏を突かれたと気が付いた時、一番後悔したのは他ならぬ自分なのに、意固地な性格が邪魔してまだ非を認められないでいるのだ。

強がりを漏らしたしおり。そんな彼女のあまのじゃくに、大きな口から覗く歯をむき出しにした荒北が、酷く意地の悪い表情を浮かべて見せた。

「へェ。そういうことなら確かに盛り上がったな。なんせ勝った奴は皆の憧れの佐藤マネージャーと一夜を共に出来るんだからなァ?」
「ちょっと、変な言い方しないでよ!」

性的な表現を含ませて食って掛かってくる荒北を睨みつければ、彼はそんな威嚇は屁でもないとでも言うかのように鼻で笑う。

カチン。彼の人を馬鹿にした様なその態度。無性に腹が立って、しおりは目の前の男から視線を外してそっぽを向いた。

確かに非は自分にある。けれどよく考えれば、今回の件で部員の皆が皆そういう願いを提示してくるとは限らないではないか。
彼らが言っているのはあくまで最悪の場合を想定した想像論で、大体、部活の合宿中にそんな間違いが起きるということの方が確率的にはずっと低いだろう。

そう考えると、勝った部員が健全で自転車競技部らしいお願いをしてくるという方が現実的だ。
健全に部活をして、健全に夜を迎え、また新しい朝が来て、気が付いた時にはあっという間に合宿終了。きっと何事もなく帰宅するに決まっている。

「本当に大丈夫だってば。私みんなのこと信じてるもん」

そうだ。いつものことだが、彼らは自分を心配しすぎなのだ。
自分は部員たちを信じている。だから、皆が心配するようなことは起こらない。

しばしの沈黙が、彼らの間を通り過ぎて行った。
あまり心地の良い沈黙ではない。いつもはどんな空間だって、彼らと一緒ならあんなに楽しいのに。それが少しさみしくて、とてもツラい。

そうして永遠とも感じられる時間の中、沈黙を切ったのは、福富だった。

「……オレもそう信じたい」

彼の言葉に、しおりはパッと表情を明るくさせる。自分がここに連れてこられてから、初めての肯定だったのだ。嬉しくないわけがない。

「そうだよね!やっぱり福ちゃんはわかって……――」

……けれど、見上げたその瞳は決してしおりの行動を肯定している様には見えなかった。

いつも自分を甘やかしてくれる彼の瞳には、強い非難と重圧が宿っている。しおりは声を出すことも出来ずに、そのまま口を噤んだ。

そうか。『信じたい』と言った彼の言葉は、ただの願望なのだ。
要は彼も、このご褒美制度で何か起きてしまうだろうと疑っているわけ。

ドクドクと、心臓が嫌な鼓動を打ち始める。呼吸が今にも泣き出しそうだと言わんばかりに震えだし、しおりはそれを振り払うかのようにブンブンと大きくかぶりを振った。

「ないよ福ちゃん。あるわけない。絶対そんなこと……――」
「しおり。気持ちはわかるが、『絶対ない』なんて言い切れないだろう」
「ない!ないったらない!」

もう意地だ。今のしおりには、駄々っ子のように、相手の意見を突っぱねて頭から拒否することしか出来ない。

「それに、もし何かされそうになっても大声だして逃げれば良いだけの話でしょ!私にだってそれくらい、」
「……じゃあやってみろよ」

地の底から這う、野獣のような低い声が聞こえて一瞬で体中に鳥肌が立った。
反射的に逃げようと身をよじれば、体を強く木の幹に押し付けられて叶わない。ギラリと光る彼の目に恐怖で身がすくんだ瞬間、両手を一括りにされて、胸の前に押し付けられてしまった。

「い……った、」

ざらりとした木の幹のささくれが、薄いシャツを通して肌に刺さっている。もがいても、もがいても一向に緩めてはくれない。そして何より解せないのは、彼が片手しか使っていないということだ。

荒北は、身長はあるが体格が良いとは言えない。むしろ、細く見える方だ。
筋肉隆々な福富や新開に敵わないのは理解できるが、荒北にすら、こんなに簡単に抑え込まれてしまうのだ、自分は。
これが男女の力の差だ。埋めようとしたってどうにもならない、根本的な違い。
そう理解してしまうと、不本意ながら震えが止まらなかった。

普段から柄の悪い顔が、さらに凶悪な雰囲気を持って近づいてくる。大きな口が、酷く不愉快そうに笑っているのが何よりも恐ろしかった。




 
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