78:終わりのないレース



息を吸い込むと、熱気に侵された空気が肺を焼くような感覚がした。
摂氏34度。今年一番の真夏日だ。アスファルトからの照り返しで、体感温度はきっと、それよりも数度も高い。立っているだけでクラクラしてきそうな程の気温の中、見上げた空だけは酷く涼しげな青をしていた。

――今年の夏も、暑いらしい。

けれどこの暑さは嫌いではない。首筋に流れ落ちてくる汗を感じながら、そんなことを考えていた。

「では佐藤。頼む」

主将に呼ばれて、頷いてから前へと歩み出る。そうしてぐるりと見回せば、ずらりと並んだ部員たちが燃えるような視線をこちらに向けていた。

「おはようございます」

言えば1年生を筆頭に元気よく返ってくる挨拶に、しおりは満足げに笑みを見せる。2・3年生といえば、去年の夏合宿で伝統のメニューを直前で無理やり変更させたしおりの悪行を知っているからか、警戒して少し強張っているようにも見えた。

それでも、彼らの堅い意思の宿った瞳の色は揺るぎない。早く次を、と挑発してくる視線の束にしおりは言葉を続けた。

「……さて、突然ですが皆さんに質問があります。去年のインターハイと今年のインターハイ。箱根学園自転車競技部における相違点はどこでしょう」

しおりの言葉に場がざわめいた。てっきり合宿のメニューの説明に入ると思って集中していたというのに、実際投げかけられたのは質問だったのだから戸惑うのは仕方がない。
それでも果敢に自分たちの考える去年との相違点を答えていく部員たちにしおりはひとつひとつ頷いていった。

――今年の方が部員が増えている。今年は多様性に富んだ選手が多い。今年の方が、強い。

まるで自分たちのやる気のボルテージを刺激するように、次々と出される前向きな言葉たち。やがて、案を出し切ったらしい皆が静かになるのを待って、それまで黙って聞いていたしおりが、やっと口を割った。

「いま出してもらったことは全て事実だと、私も信じています。けれど、ひとつだけ去年より劣っているであろう所があるんです」

――それは、もしかするとインターハイでの勝敗を分けるくらい重要なこと。

「それが何だかわかりますか」

しおりの言葉に、高まっていた部員たちの熱気が、一気に冷え込むのを感じた。皆が眉をひそめて、首をひねったり顔を見合わせてたりしているが、どうにも答えは出ないらしい。

だって彼らは自分たちは最強だと思っているから。去年よりも強いと、信じて疑わないから。
それはそれでいいのだ。

けれど、ポジティブばかりでは勝てないのが勝負の世界。自分たちの弱みを知り、受け入れた上で克服しなければならない。

しおりの目が、スッと鋭く細められた。
視線の先にいた彼は、暑さなど感じていないのではないかと疑うほど、今日も変わらず鉄仮面を貼りつけている。

――去年と今年で違うのは。

一拍置いた言葉の空白は、酷く静かで、ピリピリした緊張を纏っていた。

「『チーム力』です。去年は3年生だけのレギュラーチームでしたが、今年は違う。つまり、去年と比べて多少なりともチームの統率が劣っているということ。確かに個人個人の実力は去年にも勝るかもしれませんが、インターハイはチーム戦です。統率がとれていなければ、何の意味もない」

肩をすくめ、息を吐く演技をしたしおりに、下級生たちからの批判的な視線が投げかけられる。彼らから見る自分は、きっととんだ悪女なのだ。そりゃあ、マネージャー風情が尊敬する先輩たちをここまで貶めることを言っているのだから怒るのもうなずける。

けれど、上級生たちは、後輩たちとは逆に酷く冷静な目をしていた。特に話題の中心となったレギュラー部員たちは、一際真剣な視線を向けている。自分たちの弱みを、薄々は感じていたのかもしれない。それを隠すために強がって、わざと自分たちを奮い立たせるような前向きさを口にしていたのだ。

どうすればいいかと問いかけてくる眼光に、しおりは微かに口角をあげた。
そう、ここからが話の本番なのだ。主将に皆が悲鳴を上げて喜ぶとのお墨付きをもらった、夏合宿のメニューの話。

「……レースを、しようと思います」

もちろんただのレースではない。言うなれば、『終わりのないレース』だ。

彼らには夏合宿中、ひたすらレースをしてもらう。レギュラーチーム対、しおりが決めた変則チームでの大レースだ。

「1レース50キロ、その後1時間の休憩を挟んで、またレースを再開。それを延々と繰り返してもらいます」

タイムリミットは日が落ちるまで。去年は夜10時までと長丁場だったので単純計算でいえば数時間も早く練習時間が終わることになる。けれどもだからと言って、この練習が甘いだなんてことは決してないだろう。

個人練習とレースでは、同じ距離を走ったとしても消耗具合が段違いなのだ。
相手がいる。順位がつく。それだけで、体が。精神が受けるプレッシャーは信じられないくらい大きなものになる。その過酷さを部員たちも十分に理解しているようで、顔を見合わせては表情を堅くしていた。

このざわめきが、混乱が収まるまで、少し時間がかかりそうだ。しおりはそこで一度息をつく。

そもそも、しおりがこのようなメニューを考えるきっかけとなったのは、荒北が初勝利したあのレースだ。インターハイ前の忙しい時期。無茶ばかりする荒北にひとりでレース参加させるのは心配で、しおりは彼のレースに付いて行きたいと主将に直談判しに行った際に出された交換条件がこれだった。

『今年の夏合宿はレギュラーのチーム力強化を見据えてメニュー組みして欲しい』……と。

今年の箱根学園は強い。統率力だって十分高い。けれども、上級生たちは去年レギュラーを張った先輩たちの阿吽の呼吸のようなチームワークを間近で見ているのだ。それと比べて、自分たちの実力に不安になったのかもしれない。

だからしおりはこのメニューを組んだ。
チーム力に不安があるなら、その不安を取り除けるくらいにレースをすればいいのだ。毎日メンバーも、実力も違う変則チームと戦い、その中に問題点があれば『チームで』解決していく。

レギュラー陣は、誰にも負けないチームでなければならない。たとえ同じ部の仲間とはいえ、レースで負けることなどあってはならない。

ゆっくりと視線を前に戻せば、そこにはこの短い時間で各々覚悟を決めたような表情の部員たちがこちらを見つめていた。その強張った決意の顔を見て、しおりは思わず苦笑する。

……箱学の、こういうところが好きだ。
しおりがいくら無茶なオーダーをしたって、彼らは文句は言えど結局はそれに応えてくれるから。いや、それだけではない。期待以上の結果を残してくれるから。

早くチーム割をくれとせがむように見てくる数多の瞳に急かされるように、合宿四日分のチーム編成とコースが書かれたプリントを配る。
それを見て、部員たちが一気に賑やかになるのを主将が「うるせえぞ」と諌めたが、あまり効果はないようだ。

まるでクラスの席替えの時のようだ。期待と不安の入り混じった空気の中、既視感と同時に彼らが王者箱根学園の自転車競技部という前に普通の男子高校生であることを思い出して、何だか可笑しくなった。




 
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