77:月と太陽



「巻ちゃんに勝てる練習メニュー、組んでくれ」
「……」

少しだけ、あらぬ想像をしてしまった自分が恥ずかしい。
とりあえず、近すぎる距離を取るために胸を押し返せば、彼は「む、なんだ?」と惑いの声をあげ、割と簡単に離れてくれた。

無表情のまま、冷静になりつつある頭で今日の東堂の練習内容を思い出してみる。
ええと、確か彼はスプリンターたちの練習に混ざっていたはずではなかっただろうか。

のぼり特化で美しいフォームが特徴の彼は、どちらかと言えば瞬発力に欠ける面がある。そうなると、例えば平坦な道で勝負しなければならなくなった際、相手にアタックを仕掛けられても反応が間に合わず逃げられてしまう可能性があるのだ。

クライマーが平坦で勝負しなければならない場面は少ないが、レースは何が起きるかわからない。だから、どんな場合にも対処できる、必要最低限の実力がなければいけないのだ。

全員がエース級。これが箱根学園のレギュラー条件。
だから、時期エースクライマー候補の東堂には他の者よりもキツめのメニューを課していたのだが……――

「ごめん、もしかして私のメニューじゃ足りなかった?」

ちょうど今、自分のマネージメント能力に疑問を抱いていただけに、タイムリーすぎる彼からの要望に体を固くしてしまう。
今まで自分は、選手たちを見て、その上でメニューを決めていたつもりだった。けれど、選手自身が練習量が物足りないと思うようでは意味がないのだ。それでは折角の伸びしろを無駄にしているようなものだから。

……他の部員たちも同じような不満を抱いているのだろうか。もうインターハイは目の前だというのに。

サッと自分の頭のてっぺんから血の気が引いていく感覚がして唇を噛みしめる。すると、東堂はそんなしおりの心情も知らずに首をかしげて不思議そうにしていた。

「いや、練習量は十分だ。筋肉疲労の再生速度を考えたらこのくらいが一番効率がいい。むしろ荒北の様に勝手にメニューを三倍にして吐いているようじゃ美しくないだろう?」
「……吐いてたんだ」

相変わらず無茶ばかりする荒北の様子が目に浮かんで、しおりはため息をつく。人の三倍練習しろという福富の言葉を忠実に守ってそれを実行しているのが彼だ。
努力して、努力して、それこそ吐くまでペダルを回して。常人では考えられない根性高みを目指すのが荒北のやり方であり、ポリシーらしい。

けれど、それはあくまで荒北の話だ。東堂はそういうタイプではない。彼はむしろ、練習の効率と質を重視するタイプである。
しかし、練習量が十分だと思っているなら、何故メニューの追加を頼んできたのだろうかと疑問を持てば、それを口にする前に東堂が話を続けた。

「忌々しいことだが、オレと巻ちゃんの実力は互角だ。練習で一度でも多くペダルを回した方が、次のレースの勝者になるだろう。だから、負けたくないのだ」

――絶対勝ちたい。その為に、彼に勝てるメニューを追加で組んで欲しい。

そう言った強い意志の宿る瞳が、しおりを貫いていく。その瞳の奥に映っているのは紛れもなく総北高校のクライマー、巻島の姿だ。


……そういえば先日、彼らはヒルクライムで再開し、またも激しい一騎打ちを繰り広げたらしい。今回は、前回の汚名を返上するように東堂が勝利したが、それでもその差はやはり僅差だったという。
勝っては負けての繰り返し。これでは、多く練習した方が次の勝者になるという考え方はあながち間違いでもないようにも思えた。

これ以上の練習は効率が悪い。けれど効率が悪かろうと、東堂の決意は変わらないのであろう。勝ちたいと強く思う気持ちは、自分を高みに持っていく最高のエネルギー源なのだから。

そんな彼を見ていたら、今まで自分が悩んでいたことが不毛なことだったのだと気が付いて、しおりはハッと息をのんだ。

そうだ。ここは箱根学園自転車競技部だ。
王者のプライドを持つ彼らは、必要とあれば、自分の十分量以上……いや、限界以上の練習メニューを求めてくる者たちばかりなのだ。

例えばライバルに勝つために。例えばレギュラー選抜を勝ち抜くために。例えば、己の限界突破の為に。
そんな時の彼らの頭に、効率云々は関係ない。ただ強くなりたいという意思の元で走るだけなのだろう。

もともと練習の自己管理が出来る彼らに限って、練習量が少ないと感じているのに不服を漏らさない、なんてことは絶対にありえない。

ああ。こんなことで悩むなんてバカみたいだ。
自分に笑ってから、追加メニューをご所望の東堂の方へくるりと振り返った。

「よし、じゃあメニュー考えよっか!」

明るく答えたしおりに、東堂は目を輝かせて大きく頷く。

王者は今年も、王者のままだ。自分が心配しなくたって、勝手に強くなっていく人たちばかりなのだ。自分はそこに少しだけ手助けをしているだけ。そう思ったら、プレッシャーで重くなっていた心がスッと軽くなっていくような気がした。

「東堂くん」
「なんだ」
「ありがと、ね」

突然礼を言われた東堂は、きょとんとした顔でしおりを見つめる。当たり前だ。しおりが一人で悩んで、自己解決した心のわだかまりについての礼なのだ。東堂が理解できないのは当然である。
けれど彼は、嫌味もなく笑顔を作り、嬉しそうに短く返事をして、しおりの頭をくしゃりと撫でた。

「いつでも頼ってくれ。すぐに助けるから」

少しキザだが頼もしい返答に、しおりも大きく頷いてこの日最高の笑顔を向けた。


 
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