76:二度目の重さ



「……なるほど、こう来たか」

主将が手元の資料から視線を外して言った。先ほどまで彼が真剣に目を通していたそれは、しおりが作成した夏合宿用の企画書である。

去年の合宿での実績をかわれ、今年もメニュー決めに携わることになった為、丸々一か月近くも悩んでやっと仕上げた代物だ。
ドキドキしながら主将の次の言葉を待てば、彼は席に着いたまま、緊張した面持ちのしおりを見上げ、にやりとひとつ笑って見せた。

「採用だ」

主将はそう言って資料の束を自分のファイルに仕舞い込むと、椅子を引いて席から立ち上がった。両腕を頭上にぐんと伸ばし、軽く伸びをする。

かなり熱心に読んでくれていたので、体が固まったのであろう。
短く息を吐いて体勢を元に戻した主将の顔が、気のせいか早く自転車で走りだしたいという表情をしているのを察して、しおりは一歩、身を引いて部室の出口への道を開けた。

「参ったな。オレ、そんなにわかりやすい顔してたか?」

気持ちを気取られた主将が苦笑いを浮かべている。しかし、それでも感情には嘘を付けないらしく、彼はしおりに勧められるがままに出口の方へと足を進め、外へと続く簡素な扉を開けた。

瞬間、夏の日差しが部室の中に差し込んでくる。
光陰の差が目に痛い。少し目をすぼませ、眩しさに耐えれば、そんなしおりに、主将は今しがた企画書を仕舞ったファイルを軽く掲げてヒラヒラと振ってみせた。

「今年のメニューを知ったら、きっと皆、悲鳴あげながら喜ぶぞ」

皮肉めいたその言い回しだ。けれど、目の前にいる彼はしおりの提示したメニューを見て悲鳴をあげるどころか、走り出したくて仕方ないという選手の顔になっている。
彼の心情があまりにわかりやすくて、しおりはクスリと笑いながら彼の冗談に乗るような形で、わざと意地の悪い表情を作った。

「そんなにおだてられると、追加メニュー入れたくなっちゃうかも」
「おお、怖い怖い」

そう言って、やけに楽しそうに逃げていく主将の後姿を見送ると、しおりは未だ上がった口角のまま、ふう、と息を吐いて部室の中を見回した。

独りきりになった部室は、酷く静かだ。外からくぐもったセミの大合唱が聞こえてはいるが、それがこの部屋の孤独さをより一層高めているようで、なんだか心細い。
いつもは誰かしら部室でトレーニングに励む部員がいるのだが、今日は一際天気がいいので皆外周回りをしているらしく、いま、ここにいるのはしおりの一人だけだ。

(……まあ、この暑さじゃしょうがないか)

同じ『暑い』でも、熱と湿気の籠った不快指数最高潮の部室と、風を切って走れる外ではモチベーションの保たれ方に雲泥の差が出るのだ。
何もしなくても頬を伝って落ちてくる汗を、手の甲で拭って落とした。

ここに一人でいると、妙な緊張感を覚えて心がざわつく。それは、しおりが例の滑落事故以来、狭い場所が好きではないからという理由もあるが、きっとそれだけでない。

――二度目の夏だから。

今年は去年とは違う。自分が何をしでかしてもフォローしてくれる先輩たちのおかげで無茶が出来た去年とは、立場も、責任の重さだって違う夏が来るからだった。

日々の練習のメニューを決めて。合宿の練習メニューを決めて。マネージャーの仕事にやりがいも楽しさも感じているが、それでも心のどこかで恐怖を感じているのは事実だった。

自分が選手たちに課していた練習が誤っていたら。そのせいで箱根学園が王者の玉座からおちてしまったら。彼らに限ってそんなことあるはずがないと信じてはいるが、根拠のない迷いが今まで出来ていた迅速な判断力を鈍らせている気がしてならないのだ。

そりゃあ、自分なりにマネージメントの勉強をして、それが功を奏して選手たちのタイムも順調に推移しているという事実はある。けれど、いつこの順調さが崩れるのかと考えると、酷く恐ろしくなるのだった。

箱学の為に、自分が出来ることなどほんのわずかだ。けれど、その微々たる力をせめて精一杯に尽くして力になりたいとも考えている。
プレッシャーに押しつぶされそうな弱い心が渦巻く胸を、バインダーで強く押さえつけながら、深く息を吐いた。

「よし!」

くよくよしている暇などない。やらなくてはならないことが山ほどあるのだ。言い聞かせて、部室から出ようとドアノブに手をかければ、しおりがそれをひねる前に、閉められていたはずの扉が勢いよく開いた。




「しおり!」

間髪入れずに大声で呼ばれた名に、しおりは一瞬惑って固まる。しかしその声の主が、よく見知った同学年のクライマーだと認識すると、ホッと息を吐いた。

「なんだ、東堂くんか」
「なんだとは失礼だな!いいか。オレは喋れる上にトークも切れ……」
「はいはい、そうね」
「まだ途中だぞ!」

心外だ、とばかりに大ぶりな動きで不服を漏らす東堂は、今日も元気そうだ。どうやら今日の練習メニューをこなしてきたらしく、彼は全身汗まみれだった。
息を切らし、頬を伝う水の粒を、邪魔だと言わんばかりに乱暴にぬぐう。興奮で瞳をギラつかせているその姿はいつも軽口ばかり叩いている姿からは想像もできないくらい男らしく、思わず見入ってしまう程には格好が良かった。

そんな彼が、真剣な顔で、ずい、と遠慮もなく迫ってくるものだから焦らないわけがない。
思わず後ずさろうとすれば、その両肩をガシリと掴まれ、逃げられないようにされてしまった。

均整のとれたパーツ。まっすぐとこちらを見つめる、真っ黒な瞳。やはり、学校中の女の子から黄色い声を投げかけられる東堂の顔は近くで見ても綺麗だ。

一年の時に残っていた少年の幼さも、この一年ですっかり男らしく変化してしまったようで、垣間見える色気がファンの増加にもつながっているとの噂だった。


そしてしおりも、現在進行形で彼の放つ妙な色気に当てられてしまいそうなわけで。思わず顔を逸らせば、頭上から喘ぐような声が響いてきた。

「なあ、頼む。オレにはしおりが必要なのだ」

そんなセリフに驚いて、しおりは思わず目を見張る。
何を言っているのだ、彼は。先ほどまで自分と冗談のようなやり取りをしていたというのに、いきなりこんな真剣な声色を出すなんて、卑怯ではないか。

しおりの困惑とは裏腹に、東堂はその整った顔を苦しげに歪め、少しだけ目を伏せる。その憂いの表情にドキリとして、彼から視線を離せなくなくなっていると、東堂の視線がこちらを見上げ、交わった視線を皮切りに、彼の形の良い唇がスッと開かれたのが見えた。





 
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