75:とばりのとなり



時は7月下旬。ついに、箱根学園にも長い夏休みが到来した。
今日のスケジュールと言えば、午前中に終業式が行われ、昼から夕方までが部活というものであったのだが、インターハイ間近ということもあり、ついつい練習に熱が入ってしまう。

気が付けば、夏の日長がすっかり闇へと移り変わるような時間で、いま現在部室に残っている者といえば、福富と、マネージャーのしおりくらいのものだった。

その彼女も、先ほどまで机に向かって何やら書き物に勤しんでいたようだったのだが、どうやらやるべきことを終えたらしい。机に頬杖を突き、バッグに部活道具を詰め込む福富をジッと待っているようであった。

何故もっと早くに帰らないのかなどと野暮なことは聞かない。何せ、彼女は、一人で帰れないのだ。

極度の方向音痴だとか怖がりだとか、そういうことではない。彼女は闇にトラウマがあり、そのせいで独りで暗闇を歩けない体質になってしまったのだった。

根の深いトラウマだ。理由を知れば誰もが納得するようなトラウマ。

なのに、強がりな本人はこの弱点を恥と思い、自分の為に他人の手を煩わせるのを酷く嫌って、一日の三分の一以上を占める闇の世界に何度も喧嘩を売っては打ちのめされていた。

道路の真ん中で、怯えた目で、真っ青な顔をして。それでも負けたくないと闇を睨む。
そんな呆れるほどの負けず嫌いに、彼女の過去を知る自分たちが手を差し伸べるようになるのは、まあ、当然の流れであった。

女子寮は男子寮よりも遠いため、彼女は当初こそ遠慮して先に帰ってくれと騒いで譲らなかったのだが、最近はやっと送られることに慣れてきたのか、こうして大人しく待っていてくれるようになった。

ロッカーの扉を閉め、エナメルバッグを肩にかける。そうして彼女の方を振り返ると、パッと笑顔を作って席を立ち、福富の隣に陣取って並んだ。

……まるで警戒心の強い猫を手なずけたような達成感だ。

くだらないことを考えながら、彼女と一緒に部室から出る。
ナンバーロック式の鍵をかけ、きちんと扉の施錠を確認してから連れ立って歩き出した。



寮への帰路は点々と街灯がついているものの、薄暗く、あまり気持ちの良い道とは言えない。一般人から見てそうなのだから、闇が苦手な彼女にとってはなおさらだろう。
恐怖からの無意識なのか、ほとんど触れ合っていると言っても過言でない距離まで近寄ってくるしおりに、福富は不謹慎ながら、ちょっとした高揚を覚えていた。

……いっそ、この手を握って引き寄せてやろうか。
彼女が恐れているのは独りきりの闇だ。誰かとつながっていれば、それだけで安心するに違いない。

けれどそんなものは所詮建前で、本当は彼女と触れ合う機会が欲しいだけだ。
弱みに付け入るのは男らしくないと、動きかけた手を何とか抑える。行き場を失った欲を逃がすかのように彼女に話しかけると、闇の中、聞きなれた柔らかな声色が返ってきて、自分の不埒を悟られなかったことに少しホッとした。

「新開の調子はどうだ」

彼は、あのインターハイのレギュラー辞退の日から、一度も部室に顔を出していないのだ。
それどころか、休部の理由を主将にも、コーチたちにも伝えていないらしい。理由を知らない、知る由もない部員の中で反発の声が上がっているのは紛れもない事実であった。

自分とて、理由も知らされずに部員が長期に渡って無断で休んでいる姿を見れば疑いの眼差しを向けるだろう。

けれど今回ばかりはわかるのだ。
仮にもレギュラーに選ばれるような実力を持った者が、『自転車に乗る』という大前提すらままならない状態を見せて他の選手を不安がらせてはいけないのである。
今の部内は、ただでさえ前代未聞のインターハイレギュラー辞退で混乱している。追い打ちをかけるような真似をしたくないのだ、新開は。

もちろん、福富も彼の気持ちを汲んで事実を話したりしないし、しおりだって同じ。彼の真実を知っているのは実質この二人だけなのだ。

今は、復帰に向けて陰で練習を重ねている状態なのだが、福富はインターハイの練習に忙しく、あまり彼の様子を見に行けないため、しおりが新開の練習に付き合っている。

福富からの問いに、苦笑いした彼女に、一瞬だけ、彼の居ない三年目のインターハイが頭をよぎったのを、慌てて頭から消し去った。

……そんな未来はいらない。

認めたくない。
ギリリと唇を噛めば、そんな福富の様子に、しおりが慌てたように明るい声色を出した。

「けどね、進歩はしてるんだよ!一週間前は跨るのがやっとだったけど、今日はペダル回して10……ううん、30メートルは進めたもの!」

だから、きっとすぐに復帰できる。
そう続けた彼女の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。

自転車に乗れなくなるほどのトラウマを抱えた選手が立ち直るまでにどれだけの時間がかかるのかは、彼女が一番よく知っている。新開が来年のレギュラーナンバーを手に入れるためには、元通りの……いや、それ以上の実力にならなくてはいけないはずだ。

――本当に間に合うのか。
新開の状態を聞けば、誰だってそう思うだろう。
なのに彼女は、そんな不安をも打ち消すように、強く、強く肯定するのだ。

『彼は復帰出来る』と。

まっすぐな瞳が、福富を見上げ、勝気に笑う。
その強さに、たくましさに、つられるように苦笑を返す。そうだ。彼女に信じろと言ったのは自分なのだ。だったら自分も信じなければならない。

新開の復帰を。共にインターハイの舞台に上がることを。
瞳に決意の光が宿った福富に、彼女は嬉しそうに頷きながら、箱根の満点の星空を仰ぎ、精一杯の伸びをした。

短くなった彼女の髪が、夜風に吹かれて微かに揺れるのが見える。気持ちよさそうに風を感じるその姿が、レースでゴールラインを切った時の彼女と重なって、クラリと思考が揺れた。

ライバルとして彼女の隣を走っていた頃は、こうしてレース外で彼女の隣に並び、一緒に笑い、悩み合う日が来るだなんて思ってもみなかった。
ただ、彼女と走りたくて。勝ちたくて。そのころの自分は、彼女の連絡先も、住んでいる地域にすら興味がなく、何ひとつ知らなかったのだ。

楽しい時が永遠に続くと疑いもせず、その関係が、一方の引退によって消えるような希薄なものだと知りもせずに。



……だから今、自転車以外にも、学校のこと、友人のこと。沢山のことを話すことの出来るこの奇跡が酷く眩しいのだ。

見つめれば、見上げてくる大きな丸い目。『どうしたの』と言いたげに少し首をかしげる仕草。
胸の奥に痛むような熱さを感じて、息が詰まりそうになった。

今の自分は昔とは違う。
彼女の連絡先も、住んでいる場所も、好きな食べ物、好きな選手、得意な教科も。
笑った顔が無邪気なことも、怒った顔が恐ろしいのも、存外、泣き虫なところも。なんだって知っている。むしろ、もっともっと、全部知りたいと思う。

彼女にどこにも行って欲しくないのだ。出来得るのなら、未来永劫、自分の隣にいて欲しい。
女性にそれを伝えることがどういう事なのかは理解しているつもりだ。何故なら、自分はもう大事なものを失う痛みを理解できない無知な子供ではないのだから。

「しおり」
「なに?」
「聞いて欲しいことがあるんだ」

何も知らない彼女は、実に無邪気な顔をこちらに向けている。
今『それ』を伝えたら一体どんな顔をするのだろう。思わず開きかけた口に彼女の無垢な一言がかぶせられた。

「インターハイのこと?」

その単語の重さにハッと我に返り、福富は思わず出かけた言葉を咄嗟に飲み込んだ。
自分は何を浮かれているのだろうか。いまはインターハイ直前だ。数日後には強化合宿も始まる、一番集中しなければいけない時だ。

……今年の夏は去年より暑い。暑さに頭を侵されて、今すべき最優先が揺らいでいたのかもしれない。引き戻された現実に、福富は頭を切り替えて、かぶりを振ってからしおりに向き直った。

「いや、良い。インターハイが終わったらにしよう」

最高の結果を、最高の形で彼女に見せる。伝えるのは、それからでも遅くない。
だから、今は彼女の隣を歩けるこの些細な幸福だけを噛みしめるのだ。

指を伸ばせば届くほど近くにある彼女の小さな手に、自分の手の甲をわざとぶつけた。


 
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