74:世界で一番好きなもの



校舎裏の雑木林をかき分けて進む。
たしか箱根学園は定期的に校内の除草業者が入っていたはずだ。けれど、主な除草対象になるのは校庭、グラウンドなどの人目に付く場所ばかり。
費用の関係なのか、それとも業者の怠慢なのか、人気のない箇所や目立たないところにはあまり力を入れられていないようだった。

近日の降り注ぐ日差しを溢れんばかりに浴びた校舎裏の雑草たちは、刈り取られる恐れもなくすくすく育ち、ひざ丈ほどまでにその背を伸ばしている。
そこに微かに見える、周りの草を薙ぎ倒して進んだ先人の跡。薄いその跡をたどって行けば、目的地は存外簡単目の前に現れた。


――そこは、小さな飼育小屋だった。
こんなものがあるということは、もともとは学校承認の元で何かを飼っていたのだろう。しかし、しおりがこの学校で過ごして一年以上経つが、こんな飼育小屋があることさえ知らなかった。
きっと今は公には使われていない、誰も知らない場所なのだろう。

(……よくこんな場所見つけたなあ)

素直に感心しながら、目の前の飼育小屋をマジマジと眺める。
昼寝場所として愛用しているらしい空地だとか、使われていない飼育小屋だとか。彼は人目に付かない場所を探し出し、我が物顔で占拠するのが得意なのだ。

誰にも知られていない場所。
独りきりになれる、秘密の場所。

不意に、そんな場に自分が踏み入れて良いのだろうかと頭をよぎり、一瞬だけ戸惑って足がすくむ。しかしすぐに大きくかぶりを振って、そんな弱気を打ち消した。

もう決めたのだ。どこまでも踏み込むと。

止まっていた足を踏み出し飼育小屋に近づけば、必要最低限の整備だけをされた空間の中心に、見知った赤毛の後ろ頭が見えて、しおりはまっすぐと彼の方へ近づいていった。

足音に気が付いた彼が、こちらを振り返る。ずんずんと近寄ってくるしおりの姿を捉えた瞳は、別段驚いた様子もなく、いつものように飄々としていた。

しおりが隣に並ぶ。その顔には珍しく無表情を張り付けていて、彼女は新開と彼の大きな手に撫でられている小さな生き物交互に見てから、そのまま新開の傍にしゃがみ込んだ。

「しおり?」
「……」

黙りこくったまま話そうとしないので、手に持っていたニンジンを渡してみれば、しおりは無言でそれを受け取り、目の前の仔ウサギの鼻先へ持って行く。
すると、仔ウサギは小さな鼻をヒクヒクとさせて目の前に差し出されたご馳走を口に含み、小さな顎でせわしなく咀嚼し始めた。
……全く持って、実に愛らしい様である。

そして、流石の彼女も小動物特有のこの可愛さには勝てなかったらしい。口元が緩みそうになるのを必死でこらえている様子が可笑しくて、思わず吹き出だしてしまえば、彼女はハッとしたように元の険しさを張り付けて、誤魔化すように仔ウサギの背を撫でていた。

「どうしたんだ、もう部活始まってるぜ?」
「それ、こっちのセリフだからね」

しおりが口先を尖らせながら拗ねたように言う。
まあ、彼女が怒るのも仕方がない。何せ新開はここ数日、無断で部活を休んでいるのだ。自転車において道理を通さないことが大嫌いな彼女からしてみれば大罪だ。

先日のインターハイレギュラーを蹴った件だって、まだ謝罪をしていない。二人きりになった今、どんな雷を落とされるのかすらわからない。怒りを覚悟して身をすくめていれば、彼女は一度大きく息を吐き、そうしてポツリと静かな声色で口にした。

「……ごめん。福ちゃんから聞いた」

その言葉に『何を』なんて返しはいらない。それだけで説明は十分だったから。
大体、彼女がこの場所を探し当てた時点で気が付くべきだったのだ。新開がレギュラーを蹴った本当の理由を。この場所で人知れず仔ウサギを飼育しているワケを知っているのは、福富しかいない。
別段口止めをしていたわけではないから彼を責めるようなことはしないが、こうも早くバレてしまうとは。

苦笑いをして彼女を見れば、少しバツが悪そうな顔はしているものの、彼女の表情は酷く真剣だ。
……まあ、確かにこんな顔してお願いなどされようものなら、グッと来て何でもしてやりたくなるのは仕方がないが。
昔から、福富がしおりに甘いところがあるのは知っている。大方、しおりに泣き付かれて吐かざるを得ない状況になってしまったのだろう。普段鉄仮面の男の困り顔を想像したら、少し笑えた。

……けれどこれでまた、彼女に格好の悪い一面を晒してしまったわけだ。
「まいったな」と誤魔化すように笑みを作れば、彼女の目が見透かすような新開を捉えて、視線同士が交わった。

「こんなことくらいで情けないって、笑ってくれよ」
「そんなことする筈ない」
「どうして?自転車乗りが、怖くて自転車にも乗れないんだぜ」

可笑しいだろう。傑作だ。
口に出した途端、じわじわと自分の中に広がっていく現実に、せっかく作った笑い顔が消えていくのを感じていた。

彼女に格好良いところを見て欲しかった。あわよくば、それで心を射止めてしまいたいとすら思っていた。
けれど結果はこの様だ。彼女に並ぼうと焦る程。背伸びして頑張れば頑張るほど、情けない一面ばかりを晒している気がするのだ。

今だってそうだ。取り繕って笑うことすら出来ない。そんなことすら出来なくなってしまった無力な自分に、喉の奥が熱を持って痛むような感覚を覚え、吐き出す息が震えてしまわないように、呼吸を潜めた。

隣で、彼女のため息が聞こえる。
呆れられたのだろうか。当たり前だ。今更誇れる要素など、この身には残っていないのだから。

部の潤滑油などと言われる裏にいるのは、人との衝突を避ける臆病者だ。
世渡りがうまいと言われる裏にいるのは、争い事が面倒という怠け者だ。

唯一誇れる特技であった自転車など、今はあの日のことがフラッシュバックしてしまって漕ぎ出すことすら出来ないのだ。
良い所なんて、ひとつもない。興味をなくされたって当然だった。

けれど彼女は、そんな新開の弱気など気にも介さず、まっすぐな視線を送り続けてくる。その瞳におずおずと視線を返せば、彼女の口元が、ニッと釣りあがり、いたずらっ子の様に笑ったのを見た。

強い決意に満ちたその目は、昔見たことがある目だ。新開が憧れた、どんな逆境にも諦めない彼女の瞳の色と同じに見えた。
言葉を失ったまま彼女を見つめる新開に、しおりは笑みを崩さず言った。

「自転車に触ることさえ出来なかった私を、こんな自転車馬鹿に引き戻してくれたのは、だあれ?」

その問いに、新開はポカンと口を開ける。
問いの答えは簡単だ。だって身に覚えがあるから。

逃げても逃げても追回し、どんなに嫌な顔をされようと絶対に、彼女が自転車の世界に戻ってくると信じて諦めなかったのは自分……――そして、仲間たちだ。

そこまで考えて、彼女がいま、言わんとしていることが分かった気がした。

……同じことをしようとしているのだ。
彼女は、新開たちがしてきたことを、今度は自分がしようとしている。嫌がられても、怒られても、八つ当たりされても、泣かれたって……――絶対に諦めない。
新開が乗り越えるまで。ずっと。ずっと傍で背を押してくれるつもりなのだ。

「あの時、私は助けてもらったから。たくさん、たくさん勇気をもらったから」

――今度は私の番。
囁いたしおりの腕が、新開の方に伸びて、体格差のある彼の体を引き寄せる。されるがままに傾いた体をギュッと抱きしめられると、柔らかな女の子の感触に。甘く香る洗剤の匂いに、なんだか酷く安心して、甘えるように自分から身を寄せた。

自分より小さな体にすがるように、強く抱きしめ返す。苦しいかもしれないとか、そんなことを考えてやる余裕すらない。

……ああ、どうして彼女の前で格好つけようなどと思っていたのだろう。

そんなことしなくたって、この人は全てを受け入れてくれると知っていたのに。いつもの自分も、情けない自分も、全部、全部見てくれると知っていたのに。
ただひたすら込み上げてくる嗚咽を彼女の肩で吐き出せば、慰めるように背中をさすった手は、やはりとても暖かく、心地が良かった。

「新開くん、自転車は好き?」

確かめるように吐き出された問い。新開はそれに大きく頷き、肯定を返す。

「好きだ、大好きだ。きっと、世界で一番……――」

そこまで答えた新開に、しおりは嬉しそうに声を漏らし「私も!」と笑ってくれた。

……なあ、今のセリフを『君』に伝えても、君は同じように受け入れてくれるだろうか。
この期に及んでまでそんなことを考えてしまう自分の欲深さに笑って。

そして少しだけ泣いた。



 
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